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辺土の風景 #1

その絵と出会ったのは、凛とした冷気に街が包まれた冬の午後だった。正確には「囚われてしまったのは」と言うべきかもしれない。その日、僕は仕事の打ち合わせを終えて銀座の街を歩いていた。寒さのせいか通りには人の姿がほとんど無かった。東京にしてはめずらしい、ピリッと肌を刺すような乾いた空気を潔く感じたのを憶えている。そのとき、ふと目の端を何かが掠めていくのを感じた。それが何なのか、いったい何を意味しているのか、それを把握するまでに数十メートルは歩いていたと思う。タイムラグのある二つの地震波のように、ひそやかで予言的な揺れを追いかけて、ずっしりと重い衝撃がやって来た。僕はあわてて踵を返し、画廊のショーウィンドウの前まで駆け戻った。

それは大きな絵だった。闇に浮かび上がる樹々の下、頭から燐光を放つ不思議な人物が佇んでいる。おそらく冬の森だ。音は聴こえない。降りつもった雪があらゆる物音を封じ込めてしまうからだ。星月夜の光だけがねじれた木の幹に届き、夜の底をほのかに照らしている。なんといっても印象的なのは「そのひと」の表情だった。畏れなのか、狂気なのか、あるいは感情そのものが存在していないのか。穿たれた穴のような瞳は深い虚無とつながっている。異様な静謐さに満ちた、それでいて心の底にある何かを執拗にノックし続ける圧倒的な世界がそこにあった。しばらくの間、息を呑んでショーウィンドウの前に立ち尽くしていた僕は、やがて絵の傍の小さなプレートにタイトルが記されているのに気が付く。「闇と輝き」—それが、田中千智の作品と邂逅した瞬間だった。

http://www.tanakachisato.com/works/687/attachment/2013_065/



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