見出し画像

ウィトゲンシュタインの「美学」を考える。(前編)【PhilosophiArt】

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。

第5回までで『論考』を読み終えることができました。
第6回〜第8回は、ウィトゲンシュタインが美学について講義をしたときの筆記録を読んでいきたいと思います。

前回まで(第1回〜第5回)の記事はこちらから読むことができます。


なぜ講義録を読もうと思ったのか

「PhilosophiArt」で『論考』を取り上げることを決めた時、解説書やウィトゲンシュタイン関連の本を何冊か読みました。

その中の一冊である藤本隆志の『ウィトゲンシュタイン』では、彼の生涯や思想の変化などが書かれています。
この本には、ウィトゲンシュタインがケンブリッジ大学の教授をしていた頃、「美学についての講義」をしたことが書かれていました。

『論考』で、芸術や美についてはあまり語られていない印象があります。
美学についての講義を調べることで、彼の美について理解できると思い、読んでみることにしました。

「美学についての講義」とは

「美学についての講義」は、1938年の夏にケンブリッジ大学で行われた講義です。
『講義集』の内容はウィトゲンシュタインが執筆したものではなく、講義を受けた学生のノートをまとめたものになります。

3人の学生による4冊のノートから構成されているため、今回は1冊目、次の第7回では2冊目、最終回(第8回)では3冊目と4冊目の内容をまとめていきます。

美しさは、規則に対する正しさ

まず、講義の冒頭?(ノート1冊目の最初に書かれていた内容)で、ウィトゲンシュタインは「美学は誤解されている」と主張しています。

1 この主題(美学)は非常に大きく、わたしの見るかぎり全く誤解されている。<美しい>といった語の使用は、それが現われる文章の言語形式に着目する場合には、他の大多数の語よりもいっそう誤解されやすい。<美しい>〔および<よい>〕は形容詞であるから、「これはある種の性質をもっている、美しいという性質だ」と言いたくなってしまう。

ウィトゲンシュタイン『講義集』 (ウィトゲンシュタイン全集 10) (藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)「美学についての講義」一より

美学の誤解は、語の使われ方から生じているというのが、ウィトゲンシュタインの考えのようです。

そして、美学を語る上で重要なのが「美しい」という言葉の使い方を考えることです。「美しい」について、ウィトゲンシュタインはこのように考えています。

8 実生活の中で美的判断がなされるとき、<美しい><きれい>等のごとき形容詞が殆ど何の役割を果していないのは、驚くべきことである。美的形容詞が音楽批評の中で用いられているか。ひとは「この転調を見よ」とか、「ここの楽節はつじつまが合っていない」とか言う。あるいは、詩評の中で、「かれのイメージの使いかたは正確だ」と言う。用いられることばは、<美しい>や<きれい>よりも、<正しい>や<間違いない>(日常の話しで使われているかぎりでの)に似ている。

ウィトゲンシュタイン『講義集』 (ウィトゲンシュタイン全集 10) (藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)「美学についての講義」一より

美的判断をするとき、正しいかどうかをみているのだ、と言います。
音楽で考えると、不協和音に美的判断を下せないのは、「ある音が正しくない」からではないでしょうか。「正しい音が重なることによって、美しい音楽だと判断している」というのがウィトゲンシュタインの考えだと思います。

ウィトゲンシュタインにとって、
「美しさとは、規則に対する正しさ」なのです。

「美しい」は感嘆詞?

では、「美しい」という言葉はどう使われているのでしょうか。
ウィトゲンシュタインはこのような問いから、美学を考えていきます。

5 一つの語を論ずるときにわれわれがいつも行なうことの一つは、それをわれわれがどのように教えられたのかと問うことである。(中略)参照、どのようにしてわれわれは<わたしはしかじかの夢を見た>と言うことを学んだのか。興味ある点は、夢を示されることによってそれを学んだのではない、という点である。子供がどのようにして<美しい><きれい>などを学ぶのかを自問してみれば、子供はそれらをほぼ感嘆詞として学ぶことがわかる。

ウィトゲンシュタイン『講義集』 (ウィトゲンシュタイン全集 10) (藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)「美学についての講義」一より

「美しい」は感嘆詞として学ぶ。
品詞として「美しい」は形容詞にあたります。ですが、学ぶときに形容詞として教えられていないために美学の誤解が生まれてしまう、とウィトゲンシュタインは考えました。

ここから美的判断とはどのようなものかを深掘りしていきます。
そのためには<評価>appreciationという言葉を考えるべきだとして、さらに主張を続けます。

ウィトゲンシュタインが考える「評価」とは

<評価>の例は次のように説明されています。

19 ある人が仕立屋で無数の見本を調べながら、「いや、これは少しばかり暗すぎる。これは少しばかりけばけばしい。」などと言うとすれば、その人は生地を評価できる人と呼ばれる。その人が評価できる人であるということは、かれの発する感嘆詞によって示されるのではなくして、かれが選び、選定する等々のしかたによって示されるのである。同様に音楽でも。「これは調和するか。否。低音がまだ小さすぎる。ここのところでは何か違ったものが欲しいのだ。」これが評価と呼ばれるものなのである。

ウィトゲンシュタイン『講義集』 (ウィトゲンシュタイン全集 10) (藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)「美学についての講義」一より

評価は、本人の感嘆詞ではなく、選定する方法などによって示される。
つまり、感情以外のもの(何らかの規則)が美的判断に影響していると考えています。

ウィトゲンシュタインはこの講義の中で、「美的判断を語るには、文化を記述する必要がある」と言っています。文化によって、美的判断の規則が異なっているのが、大きな理由だと僕は考えました。

29 リューイが絵画について教養ある趣味なるものをもっていると仮定せよ。その趣味は、十五世紀に教養ある趣味と呼ばれたものとは全く異なった何かである。

※リューイ:カスマー・リューイ。講義を受けた学生の1人。

ウィトゲンシュタイン『講義集』 (ウィトゲンシュタイン全集 10) (藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)「美学についての講義」一より

15世紀はルネサンス美術が盛んでした。そこから、古典派、印象派、抽象絵画など様々なジャンルの絵画が現在に至るまで登場しました。

新しい文化が積み重なると、必要になる教養は変化していきます。
美的判断の根拠が変わることで、評価も変わる。美学という学問分野も、先人の積み重ねがあってこそだということだと思います。

「美しい」から「職業:自分」を考える

ウィトゲンシュタインの美学から、少し自分のことを考えてみました。
僕はいま、「職業:自分」を目指しています。
(「職業:自分」については下の記事に詳しく書いています)

やってみたいことの1つに「映像作品を作る」と書きました。
思い立った頃から「美しい作品が作りたいなぁ」と思ってきましたが、まさかその「美しい」という言葉を考える日が来るとは思いませんでした。

でも、自分の言葉の使い方を見つめたことで、「職業:自分」の解像度が上がっているような気がしています。
自分の言葉には、それまで触れてきた文化や生活してきた環境が大きく影響しています。「美しい」と感じた瞬間や、自分が美的判断をするための規則を振り返ることで、新しい“自分”を見つけたいと思います。

次回(第7回)は「美学」のメカニズムを中心にまとめられた部分を読んで、アートと哲学のつながりを考えていきたいと思います。

第7回の記事はこちらから↓

参考文献

ウィトゲンシュタイン『講義集』 (ウィトゲンシュタイン全集 10) (藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)

藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』 (講談社学術文庫、1998年)

最後まで読んでいただきありがとうございます! いただいたサポートは、書籍購入などnote投稿のために使わせていただきます。 インスタも見ていただけると嬉しいです。