ウィトゲンシュタインの「美学」を考える。(中編)【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。
第6回〜第8回は、ウィトゲンシュタインが美学について講義をしたときの筆記録を読んでいます。今回は第7回(中編)です。
第6回(前編)は下のリンクから読むことができます。
前回まで(第1回〜第6回)の記事はこちらからどうぞ。
「美学は科学」と誤解してはならない
前編では、ウィトゲンシュタインが考える「美学」を見ていきました。
彼は「美しさとは、規則に対する正しさ」と考え、文化をはじめとした周囲の環境が、美的判断に必要な<評価>の規則になると主張しました。
今回は、ウィトゲンシュタインが使う「美的反応」という言葉を深掘りしていこうと思います。
これまで「美しい」とは何か、を考えた上で、ウィトゲンシュタインは、「美学」では何が議論できるかを考えようとします。
ここでは、美学として語ることのできる境界線を決めようとしています。
「美学についての講義」の冒頭で、「美学は誤解されている」とウィトゲンシュタインは言っていました。ここでも繰り返すように、「美学は科学であり、語りかけてくれると思うかもしれないけど、それは誤解だ」と言っているように思います。そして、コーヒーのうまさは美学で語ることができるとも言っています。「美味しい」と言うときにも、美という字が含まれていることから、美との関連はありそうです(と思ったけれど、この講義は英語なので、この考察は的外れかもしれない…笑)。
この話は、どこまで美的判断を下すべきか、という議論につながってきますが、それについては後編で取り扱うことにします。
美的反応に“原因”は存在しない
ウィトゲンシュタインは、美学において最も重要なのは「美的反応」だとして、次のような発言をきっかけに、“反応”について考えを展開していきます。
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