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『伊豆の舞妓』:ピリカ文庫/創作大賞


目に見えぬはずの歪みを闇に感じる程の生ぬるい風を受けながら、私は旅宿の二階部屋にて窓の格子に寄りかかり目を凝らしていた。時折聞こえる蛙の声が薄暗い部屋にこだまする。時刻は後小一時間ほどで午前零時を回る。傾く朧月に目を配り、浴衣を鼓動で揺らす。何処までも続く闇の中にほんのりと菖蒲しょうぶの彩が浮かび上がると、カラカラと鳴り響いていた蛙の声が一瞬にして消えた。私は息を殺し、ごくりとのどを鳴らす。次第に大きくなる彩が旅館を灯す電燈に照らされ、初めて和傘の形がくっきりと闇に咲く。その刹那、傘の中に浮かぶ人影。ふわりと上る女の香に鼻がひくりと膨らむと、脳天を撃ち抜かれたように身が凍り付く。私の瞳だけがじっと菖蒲色の傘を追う。見え隠れする着物の裾を捕らえた頃合いに女がふと立ち止まった。慌てて格子に背を向けると、なぜか視界の焦点が定まらずふすまがゆらゆらと揺れているように思えた。

 この宿に寝泊まりすること五つ夜。私は一人、伊豆は土肥といを訪れている。駿河湾を望む海岸沿いにあるこの町を一度訪れてみたかったのだ。いや、二十四年のこの命“断つ時に”足を踏み入れたかった土地である。不治の病をも治癒する湯があると聞いたのは何年前の話だったか。うる覚えにしても、そんな話を思い返す自分に意味もなく笑う。母に兄、兄嫁にその乳飲み子まで流行病はやりやまいで死んでしまった。妹は幼い頃に遠い親戚に預けられたまま離別しており、生きているかも定かではない。私に残されたものは、もはや何一つない。この地で逝くとそう心に決めたのは、旅人の男の話を耳にしたからだった。
「旅人岬の景色はじゃの目(*傘の絵柄)をも飲み込む美しさだ」
 それは岐阜は加納かのうの生い立ちである私をはだしで踏みつけるようなものであった。私の命をもって家族の生き様に光を灯せるとは到底思ってはいない。が、一度目にせねば納得がいかぬと捻じ曲がった心と共に此処に立っている。

「よぅお休みになられましたか」
 階下の客間に降りると背後から声がした。夜明けまで寝付けなかった私の目下には袋が吊り下がっていた。見えているのか、いないのか、宿の女将は続けて笑った。
「つかぬことを聞きますが、この町に”舞妓”なんぞはいるのですか」
 私が聞くと面喰ったのか狐にまれたような顔をして
「旦那様、ここは京の都ではありませんよ」
 女将は口を摘まんで笑いを堪えていた。が少しして地蔵のように固まった。目を天井にくるりと回す。
「舞妓はおりませんけど、確か踊子で舞妓のような綺麗な身なりをしている者がおりますね」
 毎晩見かける者かと私は慌てて身を乗り出す。
「それはどんな」
 顔を寄せ過ぎたのか女将は顔を真赤にして湯殿(*風呂場)への廊下を指さした。
「外湯の加減がよろしいですよ」
 そう大声で言い、慌てて背を向け小走りに去って行った。

 湯に浸かろうとは思ってはいなかったが、女将の様子につられて外湯に出向いた。いざ浸かると女将の言った通り湯加減はいい塩梅あんばいであった。日が登って僅かだというのに、肌を撫でる風は潮っ気がありぬくかった。それが闇に咲く菖蒲色の傘女の香になんとも重なり私の鼻がまたひくりと動く。鼻先からぽとりと水滴が落ちて湯に水面みなもを描いていた。
 長らく湯に浸っていたせいで腹の色がまだらになっていた。ついと脱衣場に置かれた岩に腰を下ろす。着物を類寄たぐいよせ、その下に潜ませておいた巾着を手にし口を開ける。ーー金が底をついてしまわぬ前に逝かなくては。この町には長くて三つ夜と意を決して宿の門をくぐったものの、初夜に見てしまった女の姿に”もう一夜だけ”と踏ん切りがつかずにいたのだ。巾着の口を閉め上下に揺する。重なり合う銀貨が虚しくチャランと音を立てた。

 旅人峠は日暮れ時。そう言わずと知れた時刻がある。
 私はその時刻まで散歩をすることにした。宿の門を出て数歩、足が赴いているのが連夜女が去ってゆく方角と同じだと苦笑いが浮かんだ。宿の裏手にある雑木林に苔に覆われた朽ちかけの標識があった。近寄ると生い茂った草むらがぱくりと割れた路筋が現れる。これも何かの縁かなと袴をぐいと釣り上げて分け入る。開けた路を進みゆき、原生林が立ち並ぶ濃い葉蔭路はかげみちには未だ地に還らぬ枯葉が薄高く積もっている。振り返ると泥濘ぬかるみに二の字がくっきりと印を残していた。ふと樹幹の北側にへばり付く苔に目を凝らすと、連日鳴き止まぬ蛙が一匹ペタリと張り付いている。こちらを見ていぬようでも蛙の全細胞が私を注意深く見張っていた。
「冷や汗でも流しているのかな」
 笑みを浮かべたが、昨夜の自分をふと思い出す。同時に蛙の目がぎょろっとこちらに向けられ、居心地が悪く急ぎ足でその場を後にした。
 小高い峠が空に浮かぶこんもりとした雲と重なり見えた。路を急いだつもりではなかったが息切れと共に大粒の汗が額を撫で眼中に染み入っていた。私は手巾はんかちを取り出し顔を覆うようにして汗を拭った。拭い終わり視線を戻した峠には、いつの間にか菖蒲色の和傘がくるくると回っていた。

 私はぽかりと半口を開けたまま立ちすくんでいた。握られたままの手巾を懐に押し込み戻すと、私の手は自然と頭を撫でながら乱れた髪を整えている。さりげなく山道を登ってきた…そう見えるように俯き加減で和傘のある峠まで一歩づつ踏み出す。息の乱れが高鳴る胸をかくまってくれていた。自分の足音がやけに大きく聞こえる。
今日こんにちは」
 鈴のように響く声に顔を上げた。女は身をよじり首をかしげるように振り返る。唇にひかれた紅が透き通るような柔らかな頬を持ち上げ、後れ髪がほっそりと伸びた首元を包み込むように揺れていた。緩く細まった瞳に艶やかな黒睫毛がそっと這う。
 「あっ、あぁ」
 挨拶を返そうと思っても言葉を忘れる程に私の頭は真白になっていた。女の影のみを闇に見ただけだった私が、知らぬ間にあらゆる空想を描いていたと気づいたのはこの時であった。白粉おしろいもされていない生肌。昨夜ちらりと覗いた華やかな柄ものとは異なる草色(*くすんだ黄緑)の着物。宴の美とは真逆の飾り気の無いその姿は、まるでこの土地の自然美を全て併せ持っているかのようである。しっとりと地に根を巡らせたような立ち姿に息を呑んだ。
 「なにか…ついておりますでしょうか…」
 一点に女を見つめる私から目線をずらし、はにかみながら言った。
「えっ…いや、あの」
 どぎまぎせど、それでも女から視線を外せない私はまるで白昼金縛りにでもあっているかのようだった。女が和傘をくるりと回す。この時初めて和傘の内を見た。
「綺麗な蛇の目和傘…ですね」
 骨がすらりとしなやかに細く、飾り糸が丁寧に施され小骨には節が入れられている。切継ぎの技法を取り入れた藤の花模様があしらわれ蛇の目を描いている。女はそっと白く細い指先を傘のに這わす。愛おしそうに撫で、頬をぴたりと柄に押し付けた。
「母上が唯一、赤子だった私に託してくれたものです。和傘にはお詳しいのですか」
 頭を掻きながら、女の色気のある仕草に身体が火照り出すのを感じた。
「生まれは岐阜の加納でして、代代傘問屋を営んでおりました」
 大きな漆黒の瞳をまあるくした女だったが
「今はもう?」
「はい。昨年母も兄家族も流行病で死んでしまい私一人ではどうにもならぬと」
 女はそっと眉を寄せ傘を見上げた。つるりと滑るような輪郭に、節が太く不格好な私の右手人差し指がぴくりと跳ねた。
「それは大変でしたね。さぞかし心も痛むでしょう」
 女の顔に曇りが見え、その源が私であると気づき目が泳いだ。さっと峠の奥の景色に目を移す。
「この土地に一度来てみたかったのです」
 間繋ぎといえど素直に口から出た言葉。そこに今までくすぶっていた”人生の句点”という考えが微塵も混ざっていない事に私自身驚いていた。
「私はこの土地に養子に出された身なのです。日々見つめる港の先に故郷と呼べる場所があるのかと考えることがあります」
 女は優しく微笑んだ。私達は少しの間じっと目の前に広がる白波をただ見つめていた。辺りは虫の音一つも聞こえぬ程に静かだった。見つめる波の遥か向こうには私の故郷があるはずだ。どう返事を返して良いのかも分からずに両手で袴をおさえる。女はふふっと笑い、
「帰る場所などないのだと…踊り狂う私に唯一寄り添ってくれているのが、この傘なのです」
 女は無邪気に傘を持つ腕を高く上げながら振り向いた。傘の影が峠の向こう側に落ちる。陽を浴びた女の微笑みは美しさよりも可愛らしさが際立っていた。着物袖が腕の半ばまで滑り落ち、白樺しらかばの枝のような華奢な腕が顔を出す。女の落ち着いた立ち姿に私と同じ年頃と高を括っていたが、無垢な笑顔を目の前に女の年を上読みしていたと悟った。闇夜に映った華やかな着物がふつと腑に落ち、とんだ見込み違いに耳の裏がむずく感じられた。
 と、ぽつりと頭上に雨粒が落ちた。その粒を後追いし、もう数粒が女の傘を打ちつける。
「あっ」
 和紙が張られた傘に雨粒が滲んで行く。晴れ渡る空からぽつぽつと、傘はあちこちに雨柄あまがらを開花させる。慌てて傘のを握り下ろそうとした時、女の顔が目の中に飛び込んだ。伸ばした手が何処へ行けば良いものかと私に問いていた。雨が落ちた傘を眺める女の横顔はほんのりと甘い香りを放っていた。女はうっとりととろけるように目を細め、膨らみをました唇を突き出しながら笑っていた。その間にも雨粒は次々と傘をめがけて降り落ちる。
「濡れてしまいますよ」
 そう放つのがやっとだった。しかし女は困った様子もなく、むしろただ雨に濡れゆく傘を喜んでいるようかのようにその瞳を輝かせている。
「綺麗」
 と小声で洩らし、女はそっと私を傘下に招き込んだ。陽の光が木漏れ日のように零れてくる。染み込んだ雨粒はあらゆる模様を醸し出す。鳩羽*はとば葡萄染*えびぞめ二藍*ふたあい梅鼠*うめねずみ…地面に落ちた傘影が雨粒でその彩*を変える。その光景は家族の居た傘工房とよく似ていた。こうぞ手漉てすき和紙を母が染めると、あつという間に染め部屋が様々な紫で埋まっていたものだ。またかと溜息を洩らす兄と私をよそに母は恍惚と紫和紙を眺めるばかりだった。母の彩好みに苦笑いを浮かべる兄であったが、真剣な面持ちでその和紙を羽二重にし、丁寧に模様を切り抜き当て紙をしていた。
 岬の美が疎ましいのではない。私はただただ恋しいのだ。目頭が熱くなる私の横で、女は万華鏡を手にいれた幼子のように絶えず傘をくるくると回していた。
 ふと回り続けていた傘の露先を視野に捉え、そしてゆっくりと止まった。どうしたものかと女を覗くと、女は柔らかく微笑んでいた。ゆっくりと手の平を雨に翳す。
「この雨…何処どこかにいる私の母上が喜んで涙を流しているのかもしれません」
 女が上を向いたまま呟いた。
何故なぜに?」
 聞き返すと女はくすりと笑い出す。
「私にもわかりません。でも…雨は私を想う母上のものだと、いつもそう思って眺めております」
「晴天雨…だからですか」
 女は静かに頭を縦に振った。それから暫く私たちは肩を寄せ合って一つの傘の元で涙雨を過ごした。とつとつと落ちる雨粒の音がふくらみを帯びて聞こえていた。

 雨も止み、女はそっと着物の裾を掃った。その場に膝を曲げしゃがみこむと胸元から淡色の手巾を取り出し私の袴をそっとぬぐった。
「ありがとう」
 女はゆっくりと顔を上げにっこりと笑った。
「これから何処どこかへお出かけですか」
 真っすぐに私の瞳に問いかける女から目を逸らすことなく見つめ返す。
「旅人岬へと思っていたのですが…」
 女は続きをそっと待つ。私はもう一度峠の先を眺めた。白いだけであった波がきらきらと輝いている。
「もう…十分だ。これから岐阜に戻ることにします」
「岬へは?」
 不思議そうにのぞき込む女を無性に愛おしく感じた。
「いつかまた…時が来たら行ってみます」
 女は”そうですか”と呟くと、
「ではその時には是非私をお呼びくださいな。踊子をしておりますの」
 女は軽やかに手を宙で舞って見せた。
「そうか。ではその際にはきっと」
「約束ですよ」
 女は細い手で私の両手を包み込んだ。手の形に似合わぬ程の暖かさを感じ、女はそっと睫毛を伏せて頷いてみせた。

 互いに背を向け合いながら各々の路を下り出すため足を出す。
「踊子というより美しい舞妓だな」
 女に聞こえるように声を張り上げた。女の香がふわりと鼻を突く。
「名は…舞子と申しますのよ」
 その名にはっとして振り返る。
 微かに聴こえる鼻唄に乗り、乾ききった菖蒲和傘が女の背中でくるりと回っていた。

 目を閉じて大きく息を吸い込む。渇きを知らぬ湧水のように、次から次へと心の奥底から情が溢れてくる。私の中にある角がほろほろと崩れ落ち、心が水滴のようにまあるくなってゆく。ーー泣き面ばかりだった赤子が綺麗になったものだ。ふと口元が緩みいつの間にか私は微笑んでいた。閉じていた目をゆっくりと開き、面を上げ真直ぐに伸びる野路を見据える。疲れ切っていたはずの両足が不思議と疼き出していた。つかえていた物が胃の中に落ち収まったような清々しさに、ぐっと拳を握る。

「私の名は栄吉。傘の手入れが必要になったら、いつでも加納にくるといい。その時は直してあげよう。その傘は…逸品『岐阜蛇の目』だからな」
 
 女をかえりみることなく天を仰ぎながらそう放った背後で、もう一度女の香がそっと舞った。





(終)
振り仮名入り五千六百二十七モ文字


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この度ピリカさんからお声がけを頂きまして、憧れの「ピリカ文庫」作品を書かせていただきました。
また、受賞・応募作品や出版作品でなければ創作大賞にも応募可能という事で、創作大賞のオールカテゴリ部門へ応募させて頂いたいと思います。

テーマは『傘』
文章を書き始めて二年が過ぎ、常々「書いてみたい」と思っていた
大好きな川端康成氏の後追い作品
勝手にコラボをさせて頂き、川端氏は顔を顰めておられるかもしれません。
が、川端氏の文章をなぞってみたいと…どうしても、その想いが消えず今回、彼の名作「伊豆の踊子」を自分なりにそっとなぞらせていただきました。と言いましても、青春物とはちょっと違います:)ふふふ。傘と伺った時にぽんと浮かんだ和傘。それを心の中で温めてみました。
ちなみに私の大好きな川端作品は「古都」です。理由はもちろん…私の名が双子の主人公の一人と一緒だから…ふふふ。私って単純。余談ですが、伊豆の踊子にも私に通づる箇所があるんです「水戸」。水戸は私の出身地なのです:)
お読みいただき、心から有難うございました。
また、今回私にこの作品を書くきっかけをくださったピリカさんに心から感謝申し上げます。

どんな感想でも構いません。もし、「伊豆の踊子」・「川端氏」がお好きな方がおりましたら、どう感じたか教えて頂けると嬉しいです。

といっても…19日に日本に二か月ほど家族で帰国いたします。なので…コメントを頂いても、すぐに返せないとおもうのです。今年に入ってから、いつもいつも、記事の出し逃げばかりで本当に申し訳ありません!!)

有難うございました。

七田 苗子

#ピリカ文庫
#創作大賞2023
#オールカテゴリ部門




 


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