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傷ついていること自体を否定される傷〜人の痛みは理解できるか

心の傷は目にみえないところが厄介です。

私たちは、生きている中で様々な傷を負います。もちろん大小あるし、数の多い少ないもあるでしょう。

私はいわゆる「機能不全家族」で育ちました。
同じような境遇の人が世の中に沢山いることを知っています。私が育った家もそうですが、特別に問題はなく、それどころかはたから見たら何不自由なく、親も立派でとても良い家族に見えている家族も沢山あります。

でも、特に現代の核家族化した社会の中で、家族はどんどんブラックボックス化していて、どの中でどのようなことが実際起きているかが非常にわかりづらいのです。
なんなら、自分の家や親がおかしい、助けを求めるべき状態だと気づいていないことも多いでしょう。

そのような環境で、親の心の不安定さから知らず知らずにセラピスト役を担わされてきた人、一見優しい両親や養育者から巧妙な支配やコントロールを受け続けて尊厳を奪われてきた人の発達上のトラウマ、そしてそのことによる影響や生きづらさは理解を得にくいのが現状です。

癒えない傷を隠しながら、懸命に社会適応して何事もないように生きている人も沢山います。

そういった人たちが、誰かに心の内の傷の存在を打ち明けたとして。
「しっかり教育も受けさせてもらったんだし感謝しないと」
「あなたのことが大事だったからよ」
「親も大変だったんだから、わかってあげないと」
といった言葉が返ってきて、打ちのめされたことがある人は少なくありません。

これらは、自分の中の傷を否定される体験です。
傷つくほうがおかしいのでは?
これくらいで悩むのは弱いのではないか?
繊細過ぎ、考えすぎでは?
甘えなのでは?
他の人たちに比べたら大したことないのでは?
そういった言外のメッセージを受け取ります。

自分の親に対して「大好き、感謝している」と屈託なく言うことができない、それ自体もまた大きな苦しみです。
自分の傷が、あってはいけないもののように扱われること。
それは、傷のうえにざっくりと刻まれる、深い二次受傷となります。

さらに難しいことは、そういったセリフの多くは善意からかけられることです。(そうではないこともありますが)
その場合、抗議ができない。
瞬間、衝撃に固まりながらも黙って受け取り、その場をやり過ごすことがやっとなことも多いでしょう。

そんな仲間たちに伝えたい。

あなただけじゃないよ。
この世がとてもガサツで、安心できない場所のように思えるかもしれない。
自分のことを本当に理解してくれる人なんていないんじゃないかと思うかもしれない。
でも少なくとも私は寄り添いたい、と思っています。

そして、もし親のかかわりについて誰かから心の痛みを打ち明けられた人は、まずはどうかその気持ちそのものを、「そうなんだね」とただ受けとめてあげてほしいな、と伝えたいです。

なお、このテーマに限らず、似たようなことが世の中には沢山あります。様々な悩みや問題に対して、
どちらのほうが大変だ。
自分だって辛いけど乗り越えた。
そのくらいで傷つくなんて。
そういうメッセージや、または悪気ないお説教があふれています。

それは善意からのこともあるかもしれないけれど、その人の中にある、ケアを求めている存在の声かもしれません。ぜひそちらに耳を傾けてあげてほしいと思います。

私たちの人生は、それぞれ皆全部違います。
あまりにも多くの変数があり、似た境遇だとしても、厳密にはまったく同じ痛みをまったく同じように理解するということはできません。

大事なのは、「(少なくとも簡単には)理解できない」と知ることではないでしょうか。

理解できると思うことは、悩みや苦しみを比べたりジャッジしたり、すぐアドバイスしたりしたくなってしまうことにつながります。

理解できないからこそ、想像し、寄り添い、わかちあおうとすることができるのではないか、と思うのです。

外から全然見えないけど、何かを抱えているかもしれない。
抱えているそれが、どんな重さかは自分には知りえない。
天からもらった課題は違うけど、それぞれが自分の人生を懸命に生きている。

みんながそう思えたら、社会はもっと優しく生きやすい場所になる気がするのですが、どうでしょうか。










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