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コーチ/カウンセラー|自己受容と心の基礎体力づくり| 心理療法や対人支援、人間関係、人と組織のこと、日々の雑記| まあまあボーッとしていてそそっかしい|ネコ派

最近の記事

「心配」は相手のためではない

「あなたのことが心配で言っているの」「私を心配させないで」 という言葉は時に、いえ結構な割合で、相手の負担になります。 それがどういう意図から発せられているかによりますが、相手のことを想っているようでいて、「私が心配な気持ちになって不快だから、不安にさせないようにして」が根底にあることが多いからです。 相手のためじゃない。 そういうケースの場合は、”あなたはそれを乗り越えられない、失敗する、うまく対処できない、、”などの相手への信頼のなさがどうしてもそこに含まれてしま

    • 置き去りにしてきた自分を迎えに行こう

      大雑把なのに、あるところにはとても細かく 合理的なはずの人が感情に振り回されたり 弱くて甘えん坊かと思いきや、強さを見せる 優しいけど、たまに毒を吐く そんなふうに、人はもともといろんな顔を持っています。 ですが。 知らず知らずのうちに、人の期待に応える。 周りの思う"自分らしさ"に自分を合わせる。 そしてどんどんその枠にはまっていく・・・ということがあります。 窮屈。 または、 傷ついた自分の要素をなかったことにする。 これもよくあります。 たとえば、落ち込む

      • 傷ついていること自体を否定される傷〜人の痛みは理解できるか

        心の傷は目にみえないところが厄介です。 私たちは、生きている中で様々な傷を負います。もちろん大小あるし、数の多い少ないもあるでしょう。 私はいわゆる「機能不全家族」で育ちました。 同じような境遇の人が世の中に沢山いることを知っています。私が育った家もそうですが、特別に問題はなく、それどころかはたから見たら何不自由なく、親も立派でとても良い家族に見えている家族も沢山あります。 でも、特に現代の核家族化した社会の中で、家族はどんどんブラックボックス化していて、どの中でどのよ

        • 想いを伝えるということ

          これは、別に「好きだー!」という愛の告白の類に限らない話です。というより、もっとささやかな日常の想いや心の内で起きたことについてのこと。 「想いを伝える」ことのインパクトを感じた最初の記憶は、高校一年のときのこと。 担任でもなんでもない、現代文の先生に年賀状を出したときのことです。 私は物心ついたときから本が好きで、 学校の図書室に入り浸っていて、 暇があればずっと本を読んでいるような子でした。 居場所のなさを感じたり、家でも辛いことが多かったので、 本の世界に希望を

        「心配」は相手のためではない

        • 置き去りにしてきた自分を迎えに行こう

        • 傷ついていること自体を否定される傷〜人の痛みは理解できるか

        • 想いを伝えるということ

          自分らしく生きるための1歩

          今日のランチに何を食べるか選べる状況だったとして。 みんなで入ったお店で、 みんなが唐揚げ定食を選んだところになんとなく合わせたとして。 なんとなくどんぴしゃでない感覚がありながらも、これはこれで美味しいしまあいいやという感じで そのまま食べ終えたとして。 帰りに他の席に座っている人が食べていた 麻婆豆腐定食を「ああこれがよかった! しくじったー。」 と思う。 例えばそんなこと。 今の仕事で取り組んでいることで、 なんとなくこれではうまくいかないのではないか・もっと良い

          自分らしく生きるための1歩

          「こんなこと言って大丈夫かな」を越える

          この世にはいろいろな見えない枠がある。 世間の常識。 既存の価値観。 ポジティブのほうが良くてネガティブはダメ。強くあるべきで、弱いのはダメ。 ○○であるべき。 こういうときは●●するものだ。 無数にある、その見えない枠に、私たちは怯え、自分の本当の声を出せない事が多いのではないでしょうか。 この世の中は、ジャッジに溢れすぎているし、前に進み続けることをよしとされすぎているから、「キモチ」が知らず知らず誤魔化され抑圧されて、行き場を失いがちです。 この枠から出てしまったら

          「こんなこと言って大丈夫かな」を越える

          身体の声をどこまで聴けているか?

          心と身体がつながっている。ということはある側面本当で、そして意識的に「同期させる」こともとても大事。 昨年心身ともに弱りまくって、回復のプロセスをたどる中で体感しました。 頑張ることがデフォルトになっていたり。 または成し遂げたいことがあったり。 好奇心旺盛であったり。 特に強いられているわけではなくても、精力的に活動したりしている人もとても多いと思います。 かくいう私もそういう傾向はあって、そこへある時期公私で思いがけず負荷が一気にかかって、気づけば神経系が疲労困憊状

          身体の声をどこまで聴けているか?

          「恵まれて育ったけど生きづらい」人へ

          普通にご飯をご飯を作ってもらい、旅行に行くことも習い事に行くこともできた。特に裕福でなくても不自由なく、恵まれて育った。まして暴力など受けていたわけではない。 でも、とにもかくにもモヤモヤといつもどこか満たされず、焦りが消えない。悲しさや重苦しい気持ちに支配されている。人との距離感がうまくとれない、人の反応に非常に敏感、謎の心身の不調が消えないなど・・ 一見、社会的に問題なくうまくやっているように見える人でも、強烈な生きづらさを抱えている人が多くいます。 それは一般的に

          「恵まれて育ったけど生きづらい」人へ

          「自分らしさ」ってなんなのだ問題

          自分らしく生きようとか、自分らしくあろうとか。本当にそこかしこで言われています(私も言いますけど 笑)。 そして「自分らしさ」ってなんだろうと悩む人も増殖している。 ーなんとなく人は自分をこういう人だと思っているんだろうな・・という気配を感じて、無意識にそれに応えている気がする。ー ーいざ「自分らしさ」を言語化しようとしても、よくわからない。ー ー自分の軸がないわけではないはずだけど、自分がどうしたいのかよくわからない。ー そんな人もいます。 適性検査とか、なんち

          「自分らしさ」ってなんなのだ問題