NANA

ライフキャリアコーチ✖️企業人事|心の安全基地&相互尊重を育みたい|自己受容が大事| ココロのこと、親子関係、人と組織のこと、日々の雑記| まあまあボーッとしていてそそっかしいネコ派。 https://lit.link/bloomingw

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    最近の記事

    自分磨き、自己啓発で現実が変わらないとき

    色々な自己啓発書を読んだりセミナーを受けたり、瞑想したり、内面外見ともいわゆる自分磨きをしてきたり、なのに"なかなか現実変わらない"という方へ。 仕事や対人関係でつまづいたり、同じようなパターンを繰り返したりしていませんでしょうか。 または、かなり変化を感じながらも、なんとなく行き詰まりがあり、なんだかとても大事なことを見逃している感はありませんか。 そんな中、色々なセミナーに参加したり、同じコミュニティの中でぐるぐる同じようなワークを続けたりしていることも多いように見受

      • 私がパラレルワークにこだわる理由

        私は、コーチとしての活動と企業人事という大きく2つの仕事を持っています。俗にいうパラレルキャリアと言われる形です。 決して楽ではありませんが、それぞれに感じている意義があるため続けています。  コーチとしての私は、クライアントさんと一対一で向き合い、みなさんが自分自身や自分の人生についてどのように感じているのかをじっくり聴きながらサポートします。 その時、私は家族でも友人でもなく、ただ一人の人間として、第3者としてニュートラルに関わります。 クライアントさんの現在地・実

        • 悲しみと絶望の中にいるとき、支えてくれた曲7選

          人生の中で本当に追い詰められたとき、悲しみや絶望の中から抜け出せずにいたとき。支えになってくれたものの中で、音楽の存在は小さくありません。 いじめに遭ったときも。 親友が事故で亡くなったときも。 ベッドから起き上がれず、一人ぼっちで毎日天井を見あげて「死にたい」と泣いていた時期も。 あの時も、あの時も。 生きてると色々なことが有りますよね。 人に頼るのが極端に苦手だった私にも、大体はその時々で誰かしらが力になってくれたおかげで今生きていると思っていますが。 家族にも

          • 「この仕事はどうしたらもっとラクになるか」という視点

            「どうしたら自分が/自分たちがもっとラクになると思う?」 かつてその昔、部署内でも最も多忙なチームのマネージャーだった私は、上司から何度もこの問いを投げられていました。 恒常的に激務なのに人はなかなか増やせない状況で、でも「その中でも出来ることは、本当にない?」と。 おかげさまで今では、このフレーズが定期botかのように私の脳内に立ち上がるようになっています。 前任者から引き継いだ仕事をそのまま踏襲して行う、ということはよくあることですよね。 私は数回転職をしていますし

            「心配」は相手のためではない

            「あなたのことが心配で言っているの」「私を心配させないで」 という言葉は時に、いえ結構な割合で、相手の負担になります。 それがどういう意図から発せられているかによりますが、相手のことを想っているようでいて、「私が心配な気持ちになって不快だから、不安にさせないようにして」が根底にあることが多いからです。 相手のためじゃない。 そういうケースの場合は、”あなたはそれを乗り越えられない、失敗する、うまく対処できない、、”などの相手への信頼のなさがどうしてもそこに含まれてしま

            置き去りにしてきた自分を迎えに行こう

            大雑把なのに、あるところにはとても細かく 合理的なはずの人が感情に振り回されたり 弱くて甘えん坊かと思いきや、強さを見せる 優しいけど、たまに毒を吐く そんなふうに、人はもともといろんな顔を持っています。 ですが。 知らず知らずのうちに、人の期待に応える。 周りの思う"自分らしさ"に自分を合わせる。 そしてどんどんその枠にはまっていく・・・ということがあります。 窮屈。 または、 傷ついた自分の要素をなかったことにする。 これもよくあります。 たとえばですね。

            傷ついていること自体を否定される傷〜人の痛みは理解できるか

            心の傷は目にみえないところが厄介です。 私たちは、生きている中で様々な傷を負います。もちろん大小あるし、数の多い少ないもあるでしょう。 私はいわゆる「機能不全家族」で育ちました。 同じような境遇の人が世の中に沢山いることを知っています。私が育った家もそうですが、特別に問題はなく、それどころかはたから見たら何不自由なく、親も立派でとても良い家族に見えている家族すらも沢山あります。 でも、特に現代の核家族化した社会の中で、家族はどんどんブラックボックス化していて、どの中でど

            想いを伝えるということ

            これは、別に「好きだー!」という愛の告白の類に限らない話です。というより、もっとささやかな日常の想いや心の内で起きたことについてのこと。 「想いを伝える」ことのインパクトを感じた最初の記憶は、高校一年のときのこと。 担任でもなんでもない、現代文の先生に年賀状を出したときのことです。 私は物心ついたときから本が好きで、 学校の図書室に入り浸っていて、 暇があればずっと本を読んでいるような子でした。 中学校のときも、一時期クラスにあまりなじめない時があって、そのときは休み

            今思い返すとまあまあデンジャラスだった出来事

            学校にテロリストから脅迫があった あれは小学校3年生頃であったでしょうか。 通っていた某日本人学校に、テロリストから脅迫があったということで、ざわついた時期がありました。 詳細はわからないけれど、私たちが誘拐される危険がある、ということでしたかと。 一時期は行きも帰りも必ず親が付きそう形になり、親が都合がつかない時は近所の日本人同士で調整してお迎えに来てもらっていました。 皆普段は普通に市バスや市電で通学、一部エリアを除いては、子ども同士で暗くなるまで出歩いていても大丈夫

            人はどうやって立ち上がり、回復していくのか

            人の生命力と回復性を表現したパフォーマンス。 フランスのアーティスト、ヨアンさんによるものです。 これは人生のプロセスそのものの表現ともとれるのですが、それ以上に、トラウマからの回復の道のりはまさにこんなふうだなと感じます。 つまり、直線的ではないのです。 コンディションは3歩進んで2.5歩下がるし、もう大丈夫かなと息をついたら突き落とされ、やっと普通の生活ができるようになった、、と思ったら振り出しに戻るようなこともあります。 そのたびに何度も何度も立ち上がって、人生

            自分らしく生きるための1歩

            今日のランチに何を食べるか選べる状況だったとして。 みんなで入ったお店で、みんなが唐揚げ定食を選んだところになんとなく合わせたとして。なんとなくどんぴしゃでない感覚がありながらも、これはこれで美味しいしまあいいやという感じでそのまま食べ終えたとして。 帰りに他の席に座っている人が食べていた麻婆豆腐定食を「ああこれがよかった!」しくじったー。 と思う。例えばそんなこと。 今の仕事で取り組んでいることで、なんとなくこれではうまくいかないのではないか・もっと良い表現があるのでは

            「こんなこと言って大丈夫かな」を越える

            この世にはいろいろな見えない枠がある。 世間の常識。 既存の価値観。 ポジティブのほうが良くてネガティブはダメ。強くあるべきで、弱いのはダメ。 ○○であるべき。 こういうときは●●するものだ。 無数にある、その見えない枠に、私たちは怯え、自分の本当の声を出せない事が多いのではないでしょうか。 この世の中は、ジャッジに溢れすぎているし、前に進み続けることをよしとされすぎているから、「キモチ」が知らず知らず誤魔化され抑圧されて、行き場を失いがちです。 この枠から出てしまったら

            お給料はガマン料、ではない世界がいい

            「お給料はガマン料」という言葉は好きじゃない。そういう価値観に染まっていない組織・世界をつくりたい。 このまえ、部門のメンバー皆さんにそういうお話をしました。 大体、この言葉って誰が言い出したんだろう。 と思ったら、美輪明宏さんだったらしいですね。美輪さんのことは好きですし、世間に浸透しているのとは異なる意図だったようですが、この言葉が独り歩きしてきたことで沢山の人を縛っている気がします。 思い通りにいかないことは沢山あるけれど、お金は、「生み出した成果や価値」「誰か

            寄り添うことへの覚悟

            人の可能性。個人的には、そこへの願いや祈りのようなものを受け取った映画だった。 上映終了する前にスクリーンで、と先日「前科者」を観てきた。 悲しい背景をもつ前科者と、彼に寄り添う保護司をそれぞれ森田剛さん・有村架純さんが演じている。 今回間接的にではあるけれど、自分の傷に触れる部分もあり、正直「しまったな」と途中で後悔した。またそれとは別にしても苦しい展開で、目をそらさず観ることが辛くて、途中で席を立って帰ろうという衝動にかられた。(あくまで私の感じ方であり体験です)

            身体の声をどこまで聴けているか?

            心と身体がつながっている。ということはある側面本当で、そして意識的に「同期させる」こともとても大事。 昨年心身ともに弱りまくって、回復のプロセスをたどる中で体感しました。 頑張ることがデフォルトになっていたり。 または成し遂げたいことがあったり。 好奇心旺盛であったり。 特に強いられているわけではなくても、精力的に活動したりしている人もとても多いと思います。 かくいう私もそういう傾向はあって、そこへある時期公私で思いがけず負荷が一気にかかって、気づけば神経系が疲労困憊状

            「恵まれて育ったけど生きづらい」人へ

            普通にご飯をご飯を作ってもらい、旅行に行くことも習い事に行くこともできた。特に裕福でなくても不自由なく、恵まれて育った。まして暴力など受けていたわけではない。 でも、とにもかくにもモヤモヤといつもどこか満たされず、焦りが消えない。悲しさや重苦しい気持ちに支配されている。人との距離感がうまくとれない、人の反応に非常に敏感、謎の心身の不調が消えないなど・・ 一見、社会的に問題なくうまくやっているように見える人でも、強烈な生きづらさを抱えている人が多くいます。 それは一般的に