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想いを伝えるということ

これは、別に「好きだー!」という愛の告白の類に限らない話です。というより、もっとささやかな日常の想いや心の内で起きたことについてのこと。

「想いを伝える」ことのインパクトを感じた最初の記憶は、高校一年のときのこと。

担任でもなんでもない、現代文の先生に年賀状を出したときのことです。

私は物心ついたときから本が好きで、
学校の図書室に入り浸っていて、
暇があればずっと本を読んでいるような子でした。

居場所のなさを感じたり、家でも辛いことが多かったので、
本の世界に希望を見出し、時にその世界に逃げ込んでいたともいえます。

中学校のときも、一時期クラスにあまりなじめない時があって、そのときは休み時間にもずっと本を読んでいました。

だからといって、=(イコール)国語の授業が好きとは限らないのですが、高校1年生時の現代文の先生の授業はとても好きでした。
どこがと言われるとうまく言語化ができないくらい、今となってはおぼろ気なのですが。

もう定年近い、当時の私にとっては「おじいちゃん」に近いようなその先生に、なんとなしに思い立って年賀状を出しました。

そこに「先生の授業が好きです」と書き、そのお返事に先生は「私の授業が好きだと言ってくれて、とても嬉しく思います」と書いてくれたのです。

そして、
”おそらく現代文や、私の授業が好きだということは、どこか生きづらさを感じやすい人なのではないかと思うけれど、応援しています”といった旨(言葉はあやふや)も添えられていました。

そのシンプルなやりとりに、
「喜んでもらえた」「受け取ってもらえた」という嬉しさと、とても大切な深い部分を共有しあえたような温かい感覚を感じて、ものすごく力づけられたのです。
先生にも少なからずプラスのインパクトをもたらすことができたのではないか、という肯定感・効力感のようなものも生まれたと思います。

もし私が、別に敢えてわざわざ年賀状を出さなくても、と億劫がっていたら。担任でもないクラスの、一人の生徒だし、と遠慮していたら。
そのやりとりは発生しなかった。

私の想いは先生には伝わらなかったし、存在しないのと半分同じになってしまっていたと思うのです。

日本人は特に、敢えて言葉にしないというか、
ちょっとしたことを褒めるとか、小さな気持ちを伝えることへのハードルがまだまだ存在するように感じます。

"言わなくてもわかるでしょ"というハイコンテクスト文化。

別に自分なんかが言わなくても、という気持ちになったり、相手に受け取ってもらえないかもしれない不安から躊躇してしまうこともあるかもしれません。

でも、それでも伝えてほしい。

期待していたような反応がなかったとしても、意外と伝わっていることだって結構ある。

自分も相手も少し心が温かく元気になるようなやりとりが、増えるといいなあ、なんてことを思っています。



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