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日本の若者はグローバル社会を生き抜けるか

世界の若者たち

 先日ウクライナから日本に来ている学生たちと話す機会があった。18-19歳の学生たちは日本語も勉強中ではあるが、主な意思の疎通は英語を使って行った。彼らが話す英語を聞きながら、「話している」と感じた。自分自身のことや、日本に来て感じたこと。ウクライナという国のこと。表情豊かに話す彼らの言葉から言葉以上のものを感じて、更には一人一人の人柄や経験もよくわかった。聴いていて楽しかったし、彼らにとても興味を持った。
 大変な状況下だが、こうして磨いてきた語学を使って自己表現をし、自己アピールする人たちには多くの会社が興味を持つ。きっと彼らは日本で仕事を得ることが出来るだろう。

 彼らはこの18-19年の間に他言語を使えるレベルまで学び、またいろいろな場所で経験をしていた。「英語教室のアシスタントをしたことがあります」「教育に携わったことがあります」と自分の経験を自分の魅力の一つとしてアピールしてくれた。
 私はふと日本の18-19歳の子達のことを考えた。アルバイト禁止の高校は多く、中学高校と長時間の学校生活や膨大な宿題、部活…と子どもたちの行動範囲はかなり限られている。しかも残念ながら今の学校での英語教育では英語のアウトプットまでは至っていないのが現実。中学校や高校の入学式や卒業式では校長や教育長などが口を揃えて「グローバル社会の今、世界の若者と肩を並べて切磋琢磨できる人材を…」なんて言ってるけれど、やってることと言っていることのギャップが凄まじい。

 今私が出会った留学生と肩を並べて切磋琢磨出来る若者は、日本にどのくらいいるだろう。そして今後それが期待できるだろうか。

テキストブックイングリッシュ

 前述の通り、私は今の学校教育"だけで"英語を使えるレベルに育てるのは不可能だと思っている。実際英語を話す多くの友人たちは、学校教育プラス海外生活や留学等、何かしらの経験をしている。
 
 私は仕事柄多くの日本の方の英語に触れることがあるが、100人規模で話しても「英語で表現している」と感じるのは数名いるかな、という感じ。大体は英語を"意思伝達"ではなく"情報伝達"に使っている。「〜学校を卒業しました。学生時代は〜をしていました。一週間アメリカにホームステイにいきました」など。私が英語を話しているな、と感じる人たちは必ず言葉の中に自分の考えや感情が入っている。リアルタイムにその時の自分を表現していて、言葉を超えてその人が伝わってくるものだ。

 そんな風に偉そうにして、あなたはどうなんだ、と言われそうだが。
英語教育に携わり英語指導を生業としているにも関わらず、私は自分の話す英語に納得がいっていなかった。以前英語ネイティブの友人に言われた言葉「あなたの英語は"テキストブックイングリッシュ"だね」がずっと心に引っかかっていた。彼にとっては褒め言葉のつもりだったのかも知れないけれど、正直ショックだった。なぜだろう。きっともっと自分を上手に自然に表現しているつもりだったのかも知れない。私は正しい文法、語彙で話すことを意識し過ぎていたのかも知れないと思った。

 それから、私は人の英語をたくさん聴いた。ネイティブがどんな風に英語を話しているか。そして気に入った表現は大いに取り入れた。何度も口の中で真似をして、実際使ってみた。一度失敗しても、次の機会を作ってまた話した。それを繰り返していたある日、他のネイティブの知人に「君は英語を"話してる"よね」と言われた。「どうかな。でもね、話すのがすごく楽しいよ」と答えると「それだよ!」と。
 まだまだ十分でないと思うけれど、英語を聴いたり話したりする中で「楽しい」と思い出してからは、何も気にならなくなった。人がどう思うか。この表現が正しいのか間違っているのか。間違っていたらきっと相手に通じないだろうし、そんな顔をされたらまた別の表現を試してみたらいい、そんな気持ちになった。
 そしてそれは世界の多くの英語非ネイティブが言っている英語学習方法と同じだ。「使ってみる」それに勝るものはない。人の顔色を気にする傾向の強い日本の学校現場で英語を使うことが難しいのは、そういう性質も手伝っていると思うし、更に「飛び出る杭」にならなければそこから突き抜けることは難しい。学生時代に周りの人からクスクス笑われていた子が、卒業後会ったら全てを手にしていた、というのはよくある話。でも多くの人たちは、クスクス笑われたくないからその場に溶け込んで馴染む。日本で英語を実践的に使えない理由だ。教育の内容もあるが、互いに足を引っ張り合う環境を変えなければ英語で自己表現なんて、夢みたいな話だ。

英語より大事なもの

 英語講師だから、英語の話を熱く語ってしまったが、実は英語で自己表現は、そんなに高過ぎるハードルでもない。中学英語で十分可能。ある程度学校教育を受けてきた人にとって英語を使うことは簡単なことなのだ。
それを邪魔しているのは、前述した「人の目を気にする」。「間違ったらいけない、恥ずかしい」というマインドセット。これは多くの海外から来た英語講師が言う。日本人はそこを超えないと英語は使える様にならない。

 でももっと大切なのは、英語でも日本語でも「語れる自分」「語りたい自分」があるかどうかだ。もちろん経験も大事。家庭と学校の行き来で教科書と睨めっこ。上下関係はせいぜい数個年の違う先輩後輩か先生。
若い頃からアルバイトや社会経験、ボランティアをする海外の子どもたちに経験の差がつくのは当たり前。これは学校だけでなく家庭の判断でも出来ることかも知れない。

 そしてその中で何を考え、何を想うのかを伝えること。

 私たちは学校で受け身の授業スタイルが当たり前になっている。大人数で黒板の方を向いて先生の話を聞く。ノートを取る。自分の意見や想い、考えを求められることが時々あっても、型にはめた答えや先生や友人たちが賛成してくれる答えでなければいけない、そんな圧力を感じながら自分の気持ちよりも型を大切にする。進学や就職の面接でも型にはまった回答をしなければ受からないと信じて、SNSで「受かるための回答」を探してはそれを暗記する。そんな中で、若者が「自己表現」をできるのか。これは子どもに携わる多くの大人たちが向き合うべきことだ。私たちが求めてきた結果だ。
 型にはめるのは、楽だ。教えることは型の存在と当てはめ方。気に食わない答えは訂正して覚えさせれば良い。子どもに自由を与えたら、何を言うかわからない。はみ出しすぎた回答に大人はどう答えれば良いのか。そんな手間を考えたら、型は楽。それを続けてきた現在が、これだ。

 本気で対話を教えるには、大人自身が「対話の姿勢」を見せることだ。自分の想いや考えを話し(その発言が圧力にならないように)、子どもの言葉にもただ耳を傾ける。同じ目線で意見の交換をして、子ども相手であろうが敬意を持って人として扱う。それは学校でも家庭でもどこでも大人が子どもたちに見せられる人としてのモデル。

 自分の経験や想いを流暢な英語で豊かに語る人と、暗唱の様にただ覚えてきた言葉で自分のことを語る人と、どちらが自分のしたいことに近付けるか。こどもたちのこれからを考えるのであれば、大人ができることはまだまだたくさんありそうだ。今までの教育を振り返って、時代が違うことを感じながら、共に教育のあり方を考えていけたら良い。くれぐれも、これ以上「こうあるべき」で邪魔をしないように。


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