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「塾には行かせた方が良いですか」

 ママ友、英語教室の生徒さんに塾の相談をよく受けるけれど「意味がある場合とほとんど意味がない場合にクッキリ分かれる」と伝える。
なんでもそうだけど、お子さん自身。
昔話の隣の家の人みたいに「あれをすれば自分だって...」と思うのは仕方ないけれど、ダイエットや英会話に代表される様に世間で言われている方法が全て万人に当てはまるとは言えない。というより、そうでないことの方が多い。学びだって、人の数ほど方法があるのだ。

英語教室に行けば英語ペラペラになりますか

 答えは「なりません」
それが手っ取り早い。
要は方法じゃないんですよ、ご本人なんです。

 ご本人がそっぽ向いてたら、他のことに集中していたら、イヤイヤ来ていたら…もちろんどんな場所でも学びは少なめです。英語に関してはそこにいる限りゼロではないですが、ペラペラとは程遠いでしょう。
 そこで私が考えた一番の方法は「英語を学びにくるんだぞ〜」と思わせずにただ楽しい場所にすること。人にとって何が楽しいかっていうと、実は不思議がることだったり、ちょい難しいことを「うーん」と考えること。
大人になるとそんな内面を問われる様な質問を投げかけられたら「本心を言ったら人からどう思われるか」「うまく言えなくて恥をかくのではないか」みたいな余計なものが多過ぎて、敬遠されることもあるけれど。
そこは何のしがらみもない子どもの特権。例えば「自分史上一番いい匂いって何の匂い?」なんて質問はみんなワイワイ答えてくれる。そして人の答えに興味を持ったり、不思議がったりする。
 そこで思う。「人って、本当はこうして人のことを知る、自分を伝えるのが好きなんじゃないかな」本能的に人間って、周りの人の考えや想いを知りたいっていう動物なんじゃないかな。それが生きる上で必要なスキルなんじゃないかな。

 かわいそうに、そんな私たちも周りの目を気にするあまりに、また同調圧力(聞かれもしてないのに決めつけられて、はみだしそうになったら戻される)によってこの学びのベースにもなる本能を抑え込まれているのかな。
それが社会を動かしている大人の生態だと思うと、恐ろしいですね。

 今起きていることは、「学ばせよう」「勉強させよう」と思っている大人たちが、なんとか自分たちの力によって子どもたちを動かそうとして失敗している状態。いわゆる教育崩壊。

ところで、塾は…

 はい、塾に関しても進学先の高校なり大学に関しても、全ての答えは「お子さん自身」が知っています。

 だからおうちの方は一切口も手も出さないで、という意味ではありません。大人だから出来ること、大人じゃないと出来ないことをするんです。そして邪魔はしないこと。

 大人だから入ってくる情報をただ伝える。「この学校はこの場所にあるらしいね」「この塾にはこんな先生がいるらしい」
気をつけるのは、そこに過度なバイアスがかからないこと。(「この学校は将来も約束されていて、先生も素晴らしく、学ぶ環境は整っていて生徒はみんな優秀らしいぞ。ここはおすすめだな」など)
 でもお子さんのことを知っているおうちの方だからこその、ゆるやかなバイアスはありかな?とも思う。「ここはそれぞれに合わせた進度みたいだね。ゆったりしているなら、合いそうだね」など。
 何にしても最終決断はお子さんにさせることだと思う。そして一度決めたことが違った、とその子が気付いた時に「お前が言ったんだろうが」とか「自分で決めたことは突き通せ」などと言わないこと。
誰しも間違うことだってあるし、自分で決めたことに価値があるだけで、その後のことは大人にだってわからない。何事も見えない部分があるし。
それを背負わせることには毒しかない。もし本人が「自分が決めたことだから」と貫き通そうとした時にただ見守り、落ち込んだらサポートすることだ。これも本人の決断。

 そんなスケールで考えていると、塾に行かせるか否かの答えが見えてくる。ある生徒は学校の宿題も追いつかない状態で毎日苦しんでいるとする。その子にはトレーニングが必要だ、と親が強制的に塾に入れた時に学校の宿題も十分に出来ない状態の子が、塾の宿題というタスクが増えて、叱られない様に適当に勉強する振りをする、という習慣がつくことも多い。そもそも本人に目的なんてないから、叱られない様に護身がまず働くのは当然。

 本人が決めること。そのプロセスを大切にすることは大事。考える癖は日常生活の中でつけることが出来る。また、思考停止も然り。考える、決断する隙を与えずに常に誰かによってコントロールされるならば、当然自分で考えるという習慣はつかない。

ちなみに私の方法は

 これは一つの方法としてご参考まで。もちろん、これも人の数ほど方法はあるから、本当に私のオリジナル。私や私の生徒たちにはピッタリきている方法。

 それは先ほども書いたけれど、「楽しむこと」
そして目的をあまり設定しないこと。少なくとも子どもたちには。
「今日はこれを学びます。ここを目指してね!」という方法は学校でも多く取られているし、それはそれで良いと思うけれど。
私は心の中にいつも大きな目標「楽しむこと」だけを据えて、子どもたちが今学んで欲しいことを少しスパイスとして混ぜ込みながらレッスンプランを考える。目的は「楽しむこと」。その楽しみの中には「知る楽しみ」「伝える楽しみ」が含まれるように、スパイスを選ぶというシンプルな方法。
 なぜ目的を設定しないかというと、目的に突き進む間に大人が子どもたちを見る目にフィルターがかかるから。「目的達成」という文字がずっと頭にあると私自身楽しめないから。むしろ、レッスンの中で子どもたちから出てくる言葉や表現の中に「この子は、今日こんなことを楽しんだ(学んだ)んだな」「この子は今日はこのくらいこれが出来る様になっていたな」そんなことを感じ、次回に繋げる。子どもたちはただ楽しかったな、と思いながら家に帰ってくれたら、それで良い。自分に力がついているかどうかなんて、今知らなくてもいいし、なんなら気付かなくても良い。意識しなくても良いのだ。

 高学年、中学生くらいになった子どもたちが「先生、英語がね、全然嫌じゃないっていうか、めっちゃわかる」って不思議そうに言ってくれる。
感謝されるけれどそれは私のおかげじゃなくて、君が学びを楽しんだことの積み上げ。英語と仲良くしてたから、親友になっちゃったんじゃないの?
学びってそういうもの。「楽しい」の積み重ねはやっぱり「楽しい」よね。

 すぐに自分の目に見える答えを期待するのは、ナンセンス。
じっくり探す、考える、見つめることの尊さ。子育ても、学びも同じ。
私はね。
そう思う。

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