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他者をコントロールしようとする程に、自分を見失う

幼少期に親の顔色を気にしなければならなかった人は、その後の人生に於いても、

どうしても、他者の目を過度に気にしがち、です。

自分の感情よりも親の感情を優先しなくてはならない生育環境を生きたのですから、

その感覚は、本人の自覚の有る無しに関わらず、心に深く刻み込まれています。

つまり、他者の目を過度に意識する人は、そうしたくてしている訳では無く、
他者の目を意識せざるを得ないから、そうなって、います。

その人にとっては、いつも他者を気にする事は、当然の在り方、であり、無意識に、オートマチックに、他者を気にします。

理屈では、自分を持つ事の大切さ、などは解っているのです。

解っていても、常に親の顔色を伺わなければならなかった幼少期の体験が、心の根元に近いところに打ち込まれたクサビとなって、自己不在、他者主導の、心の構え、になってしまうのです。

幼少期に始まって大人になっても、同じことを繰り返している、という事です。

本来、自分の自由な領域である筈の、心、に親はズカズカと入り込みました。

そんな育ち方をしたら、その子にとって、心、は他者が入り込むのが当然の領域になってしまいます。

やがて、学校に通う様になっても、社会人になっても、他者に簡単に、心、を明け渡すことになってしまいます。

他者が気になって仕方が無い状態は、つまり、心を他者に明け渡してしまっている状態、です。

けれども、物心ついた頃には、その人の心には、いつも親が居座っていたのですから、

後の、親以外の他者の侵入も、言ってみれば、馴染みのある感覚、であり自分が他者に心を明け渡している、という自覚が無いのです。

ちゃんと、子供の心は子供の領域、である事を尊重する親元で育った人は、

他者との心理的な距離を測りながら人間関係を構築し、生きています。

時に近くなり過ぎたり、遠く離れ過ぎても、距離を微調整しながら生きているのです。

心に他者が入り込む事を許しませんし、また他者の心に不躾に踏み入る事が無い様に気がけます。

この心理的領域を明確にすることは、人生を歩む上で、重大な要件と言えます。

他者に心を明け渡す人は、その重大な要件がスッポリと抜け落ちたまま、人生を歩んでいる、と言えます。

心理学者アルフレッド・アドラーの言葉を借りるまでも無く、

人の悩みの全ては人間関係に起因すると言っても過言ではない、と思っています。

それ程の重要な要件が、スッポリと抜け落ちたまま歩む人生が、生きづらいものになってしまうのは、当然至極です。


私達が自由に出来るのは、自分の心だけです。

人生に起きる出来事も、他者の心も、変える事は出来ません。

他者を過度に気にする人は、唯一コントロール下に置くことが出来る自分の心、を操縦する事を丸々放棄して、

コントロール不能な外の出来事や他者の心を、なんとかコントロールしようと無駄な努力を続けているのです。

他者の目が気になる状態は、なんとかして、
自分を良く思って欲しい、
自分を好意的に見て欲しい、
褒められたい、尊敬されたい、
と、他者をコントロールしようとあがいている状態です。

すると、どうしても、眼の前の人の自分に対する高評価が欲しくなり、

相手や周囲の顔色を見て、その場その時で、自分を変える事になります。

過度に他者の目を気にする人は、他者をコントロールしようとする人であり、

コントロールしようとした瞬間に、他者の顔色が気になり、

逆に、他者に心を明け渡し、自己不在、他者主導の状況を創り出します。


コントロール可能な、自分の心、を放ったらかして、
コントロール不能な、他者の心、をコントロールしようと執着しているのですから、

その心理状態を貫き通す限り、労多く実り少ない人生にならざるを得ない、と言えます。

コントロール出来ないものをコントロールしようとすれば、
途端に世の中は思うに任せない世界になり、
他者は自分の意を汲まない不届き者ばかりになってしまいます。


他人の目が気になって仕方が無いことに気がついた人は、

ずっとそうやって生きるしか無かったのですから、

重々しい気分に執らわれても、その生き方を貫いた事は、

生きることに必死だったのだと思います。

必死に生き抜いた先で、その生き方を手放したい、と思えたなら、

それは、そう生きたからこそ辿り着いた結論、だと思います。

無駄なことは何ひとつ無く、

遠廻りでは決して無い、と感じます。


気がついて、手放すことを望むなら、

いつだって出来るのです。

自分を取り戻し、

自分の人生を歩めます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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