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負の連鎖を断つことでは無く、生きづらさを手放すことが主眼

機能不全家庭の親は、心の中に、確かな【自分】という意識、が育っていません。

自己不在なのです。

確かな【自分】という意識は、幼少期に親から、肯定的に受け入れられることで育ちます。

自己不在の親は、かつて親から否定、拒絶されながら育った経緯があります。

だから、【自分】が育たなかったのです。

【自分】は、心の核であり、その人の人生の主役です。

心の核が満足に育っていないのですから、情緒は幼いまま、です。

見た目は立派な大人で、子を持つ親でありながら、情緒は極めて幼いのです。

愛情は、情緒の成熟があって初めて持てるものです。


幼い子供は小動物の可愛らしさに魅了されます。
ウサギを飼いたいと親にせがんで、買ってもらいます。
その子は、フワフワの小さなウサギを可愛らしいと思っています。
可愛らしいからと、無理やり抱っこし、撫で回します。
たまらなく可愛いと思っているから、自分の感情のままに、突っつき回してしまいます。
ウサギは小さく、か弱く、儚い生命です。
体力も、ストレス耐性も、小さな体躯なり、です。

その子は、可愛くて突っつき回しますが、ウサギはその子の、幼い愛情、によって、天に召されます。

情緒未発達の愛情は、とても独りよがりで、待つこと、慮ること、が出来ません。
小さな生命を、尊重、することが出来ません。

心が幼いまま親になると、我が子を愛することが出来る程には、情緒が成熟していません。

それでも、赤ん坊の小さな手を可愛いと思います。
ぷっくらとしたほっぺを可愛いと思います。

その可愛いと思う感覚を、情緒未成熟な親は、愛情だと思いますが、

それは、幼い子供がウサギを可愛いと感じる感覚と同じです。

情緒未成熟な親は、幼い子供がウサギを愛でるのと同じ様に、我が子を愛でます。

我が子の成長を待つことが出来ません。
我が子の心情には無頓着です。
その親は、自分の気分のままに、我が子を愛でます。

幼い子供が可愛さのあまりウサギを撫で回し、突っつき回す様に、

我が子を可愛さのあまり突っつき回します。

過干渉であったり、無関心であったり、その時々の自分の気分で我が子に接します。

全部、自分の気分であり、自分の都合であり、
我が子の気分や都合を考慮することはありません。
つまり、親が自分の感情を子供に押し付ける、という状態です。

本来、子供が未熟さ故の感情を親にぶつけ、親はその未熟な子供の感情を受け入れるのが役目です。

ところが、親の心が未成熟だと、親が子供に未熟さ故の感情をぶつけ、
子供が親の感情を受け入れるカタチの親子関係に陥ります。

子供が、未熟な親の感情の面倒を見る、ということです。

傍から見ると、立派な大人である親は、親にしか見えませんし、
幼い子供は、当然、その子供に見えますが、
心理的には、親子の役割りは逆転しているのです。


幼い子供は、白くてフワフワのウサギを可愛いと思うあまりに、撫で回し、突っつき、
ウサギは、天寿を全うすること無く、その儚い生命を散らします。

未成熟な親は、我が子の小さな手を、ぷっくらとした頬を可愛いと思い、心理的に撫で回し、突っつき、結果、自分の感情を幼い我が子に押し付けます。
子供は、感情を受け入れてもらえないばかりか、親の感情の面倒を見ることになります。

その子は、肯定的に受け入れてもらう機会を完全に失い、心の核である【自分】は成長の歩みを止めてしまいます。

その子の情緒は育ちません。


情緒が育たなかった子供は、本当は心は幼いままですが、
親の感情の面倒を見なくてはならないので、
傍目には、良い子、しっかりした子、手のかからない子、に見えることが多くあります。

心の中は、赤ん坊のままなのに、親の感情を受け入れる為に、
無理をして、背伸びして、つま先で立っているのです。

未成熟な心を持つ親の子供は、

心は育たず、親と同じく、

未成熟な心を持つ大人になります。

そうやって、未成熟な親が、子供の心の成長を阻害するので、

その親子関係は親から子、子から孫へと世代間で受け継がれます。

それが機能不全家庭が連鎖する理由です。 


機能不全家庭に生まれ育ち、生きづらさを背負って人生を歩き、
そして、生きづらさに気がついて、
その生きづらさを手放そう、と思う人は多くいます。

気がついたことが既に尊い、と私は思います。

大変な勇気を讃えたいと心底思います。

大変な勇気を持っておられる方の中で、
「私は負の連鎖を断ち切りたいのです」と仰る方も少なからず居られます。

ここで注意したいのが、これから生きづらさを手放すのは、自分自身であり、向き合うのも自分自身、だということです。

忌まわしい家系の負の連鎖と向き合う訳ではありませんし、
家系の負の連鎖を断ち切ること、が目指すところでは、ありません。

負の連鎖が断たれるのは、その人が生きづらさを手放した、結果、です。

主眼に置くのは、自分自身の生きづらさからの解放です。

機能不全家庭に育った人は、心の中に、確かな【自分】という意識が育っていません。
【自分】の外郭線が、自他の感情を分ける境界線です。

だから、【自分】が育っていなければ、感情の境界線も必ず曖昧なのです。

生きづらさを手放す時、向き合うのは【自分】です。
家系でも、親でも、ありません。

「負の連鎖を断ちたい」と言う時点で、家系や親子関係と自分の抱える生きづらさが、ごっちゃになっています。

自分と向き合う時、曖昧な境界線を明確にすることは、重要です。

心理学者アドラーの言う、「自分の課題」「他者の課題」そして「課題の分離」とは、
自分と他者の間の感情の境界線を明確にすることを指しています。

心の未成熟は確かに、世代間で連鎖しますが、

生きづらさに気がついて、

手放したい、と願うなら、

連鎖を断つ為、ではなく、

生きづらさを手放す為、であり、

向き合うのは、【自分】なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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