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心のコップは、やり場の無い怒りでいっぱい

心の奥の方に閉じ込めた怒りは、ぶつけ易い方向に向かって放たれます。

家庭内であれば、怒りは子供に向けられ、虐待を招きます。

学校や職場などのコミュニティであれば、いじめになります。

スーパーやコンビニなどで店員さんに食ってかかる人も、

執拗なクレーマーも、煽り運転を繰り返す人も、

やり場の無い怒りをぶつけ易い標的に向かってぶつけている場合が大半だと思っています。

やり場の無い怒りに衝き動かされている本人は、自分がぶつけ易い標的を探し、その標的に向かって怒りをぶつけている、などとは思っていません。

至って真っ当な理由で、正当な怒りを、正しい方向に向けてぶつけている、と思っています。

誰もが社会生活を営んでいれば、湧き上がる感情を100%解放出来る訳ではありません。

怒りを噛み殺す場面も多々有ろうかと思います。

ストレスフルな現代を生きる限り、不可避なストレスを発散する術は重要だと思っています。

趣味に没頭したり、家族との団欒を活力に変えたり、恋人や友人と過ごすひと時に癒やされたりすることで、リフレッシュ出来る訳です。


しかし、冒頭に触れた、ぶつけ易い標的を無意識のうちに常に探している様な状態の場合は、単発的な日々のストレス、という枠には収まらない深刻さがあります。

日々の単発的なストレスを発散することで、活力を得られる人は、

心の中に、怒りを貯めるコップが有るとすると、その人のコップにはまだまだ余裕がある状態だと思います。

コップの半分とか、三分の二とか、人其々、状態は違っても、まだ余裕がある、ということです。

ところが標的を探す人のコップは、既に怒りが満タン状態です。
表面張力でやっと持ち堪えている程の満タンです。

だから、スーパーのレジでの些細なやり取りで、怒りが抑えられません。
だから、ゆっくり走行する前のクルマを煽ります。


どうして、今にも溢れてしまう程、怒りは蓄積してしまったのでしょうか。

大半の場合は、その人の幼少期、親との関係性に於いて、怒りを貯めるコップは満タンに近い状態にまでなっていたものと思われます。

日々の単発的なストレスとの違いは、主に発生時期と発生頻度の二点です。

発生時期が人生の極めて早い時期である幼少期ということは、
自然の節理に沿って、子供は親を100%信頼する時期です。
子供は幼く弱い存在なのですから、親に守ってもらうこと前提に保たれる生命なのです。

その時期に親から貶められようが、虐げられようが、子供は親を慕います。

親に守ってもらうこと前提の生命なのですから、貶められてもその事に対する怒りは感じてはならない感情です。
虐げられても親に対する怒りは心の奥に閉じ込めます。

言うまでもなく、幼少期は子供の身体も心もどんどん成長する時期です。
どんどん成長する柔らかな心は、その時期だからこそ大きな傷を負うことは明白です。


発生頻度ですが、親が我が子を怒りの標的にしてしまう、ということは、
親の心は、子供に怒りをぶつけることで保たれています。

子供を貶めることで、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚します。

実際には、子供を貶めたところで自分の価値が上がることなど無く、
貶めても、虐げても、怒りをぶつけても、得られるのはその場限りの錯覚です。

だから、今日も、明日も、明後日も、親は子供に怒りをぶつけ、
子供は、やり場の無い怒りを心のコップの中に貯め続けます。

親に守られるべき心柔らかな時期に、飽くこと無く毎日繰り返される理不尽に、
心のコップはやり場の無い怒りでいっぱいになってしまいます。


ネガティブな感情の中でも、怒りは最も激しい感情と言えます。

レジのいざこざや、煽り運転にとどまらず、度々繰り返される無差別に他人を傷つける通り魔的な事件なども、やり場の無い怒りを誰彼構わずぶつけたものなのは、わかり易いと思います。

虐待もいじめも、やり場の無い怒りに衝き動かされた結果ですが、

やり場の無い怒りが他者に向かず、自分に向いてしまう事も多くあります。

自分を傷つけたり、生命を捨ててしまうことすらあります。


他者に向くにしろ、自分に向いてしまうにしろ、

やり場の無い怒りに衝き動かされている最中は、

どうして、抑えられない感情に振り回されているのか分かっていない事が殆どだと思っています。

抑えられなくなる前に、

何も見えなくなる前に、

心は、見つけて欲しい、と叫んでいる様に思うんです。

心を、見つめて欲しく思います。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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