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安心感は幸せ行きの切符

幸せ、を考える時、

人其々に違った「幸せのカタチ」がある、と思っています。

この世に生まれたからには、

経済的に豊かなこと、
誰もが知るほど有名なこと、
圧倒的な権力を握ること、
容姿が美しいこと、

それを追い求め、手に入れることこそが幸せだ。

いやいや、もっと身近に幸せは有るんだ、

暖かな友人に囲まれること、
愛すべき家族に恵まれること、

そこにこそ、幸せはある。


誤解を恐れずに言うなら、
それらは、幸せを手に入れる為の手段だと思うんです。

幸せになるには、こう在らねば
幸せになるには、こう在るべき
という、目的達成の為の手段だと思います。

経済的な成功、地位、名声、権力、美しさ、それらは皆、ある物を手に入れる為の手段です。

そして一見、目的に見える、暖かな友人、家族という愛情に由来するものも、大きな意味では、ある物を手にする為の方法、の域を出ていない様に思います。

但し、愛情由来の手段は、ある物を手にした時、目的にもなり得るという点で、

経済的な成功、地位、名声、権力、美しさ、とは性質が異なります。

愛情由来であっても、なくても、例に挙げたものは全て、自分の外に在りますが、

あらゆることの、答えや目的は、自分の内にある、と考えます。

誰もが求めて止まない幸せは、自分の内にある、と考えます。

幸せに最も近い、イコールで結んでも構わない程近いものは、

安心感、です。

自分の存在そのものに対する、安心感、です。


経済的成功、名声、権力、美、その全てを手に入れても、自分の存在に対する安心感が無かったなら、その人は幸せにはなれません。

億万長者になっても、有名人になっても、美しくても、不幸な人は沢山います。

そんな人が自らの生命に終止符を打つこともあります。

それが物語る、と思います。


愛情由来の方法、と表現した愛すべき友人、家族に囲まれた人生は、

そもそも、自分の存在に安心感を持っていなければ、仲々手に入らないと思います。

その意味で、自分の内に安心感を見出して初めて手に入る愛すべき人々に深く関わる人生は、手段でもあり、目的でもあり、幸せ、とも言えると思うのです。

愛無き場所に、愛はここにある、と言い張ることは、世の中に少なくありません。

その最たるものが、機能不全家庭です。
DVで苦しむ恋人達もそうです。

愛と信じて、傷つけます。
与えていると思い、奪うのです。

それでも、そこに愛はある、と言い張りますが、
愛は傷つけず、愛は奪いません。


心のこと、の最も残酷な仕組みとして、
自分の存在に対する安心感、を人生の最初に手にする人と、

安心感の代わりに、どうしようもない不安と無価値感を背負わざるを得ない人が在ります。

安心感は自分という存在を尊重され、肯定的に受け容れられる環境に包まれることで育まれます。

つまり、親から充分な愛情を注がれた人は、人生の最初から安心感を与えられる、ということです。

愛情溢れる親は、子供に巨万の富よりも大切な幸せ行きの切符を手渡します。


先に触れた様に、機能不全家庭は愛と信じて傷つけ、与えるつもりで奪う場所です。

そこには尊重する、ということはありません。
肯定的に受け容れる、ということも無いのです。

貶められ、虐げられ、否定され続けます。

安心も安全も無く、有るのは不安と危険です。

そこに生まれ、そこに育った子に、自分という存在に対する安心感など育つ訳がありません。

愛溢れる家庭に育った子は、親から幸せ行きの切符を手渡され、

機能不全家庭に育った子は、親から無価値感という重い荷物を背負わされます。


では、人生の最初に重い荷物を背負わされ、切符を貰いそびれた子は、幸せにはなれないのでしょうか。



外に起きる出来事も、他人の心も私達にはコントロールすることは叶いません。

私達がコントロール出来るのは、自分の心だけです。

言い換えると、自分の心はコントロール可能なのです。


本来、価値の無い生命など無く、過酷な環境を生き抜く中で、強く心に刻み込んだ無価値感は、自然の摂理に反する、単なる思い込みです。

思い込みは、私達がコントロール出来る心の中の出来事です。

単なる思い込みは、取り去ることが出来るのです。

親から背負わされた重い荷物を降ろし、貰いそびれた切符を手にすることは、

いつでも、何歳であっても、出来るのです。


人生の最初に貰い損ねた幸せ行きの切符は、

少し苦労を重ねた分、

ひとつ先の駅まで行ける切符に変わっています。

より深い人間性と、

大きな幸せに、

辿り着く切符です。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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