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「可哀想の君へ」~妊娠・出産体験記①

先日、学期末ということで、息子の幼稚園で生活発表会があった。

息子のクラスの出し物は、「桃太郎」の劇。

息子はおじいさん役を見事にこなしており、トップバッターで「山へ芝刈りへ行ってくるぞ!」とはっきりとした発声で言えていたのには驚いた。

実は息子はとても緊張しやすいらしく、こういった発表会系はことごとく苦手だったのだ。

去年などは、生活発表会で歌の出し物があったのだけれど、息子はまったく歌えずに突っ立っていた。

それが、今年は微笑みさえ浮かべて、堂々とセリフを言っているではないか!

どういう風の吹き回しなのだろう?

と驚いたのだけど、やっぱり精神的に余裕ができたのかもしれない。

息子の成長は、素直に嬉しかったし、妙に胸のつかえが取れて、ホッとした。

去年までの生活発表会と大きく異なる点としては、引っ越しをして新しい幼稚園になったということと、ママが仕事を離れたということ。

去年までの息子は保育園に通っていたのだけど、「生活発表会」なるものがあっても、正直まったく当日まで関わってあげることができないでいた。

そして、当日に観に行って、「まったく歌えない息子にビックリ!」というダメな母親だった。

そんな時によく聞いたのが、「お母さんがご自宅で練習に付き合ってあげないからでは?」という声。

そう。以前の私は、息子の生活発表会の練習など全く付き合う余裕もなく、仕事に邁進していた。

私のことをよく知っている方であればお気づきだと思うのだけれど、私自身は休むことが苦手な人間だ。

けっして子育てを手抜きしたかったわけではないし、子どもにも愛情は持っているのだけど、やらなければならない案件があると、どうしてもそちらを優先してしまう。

そんなママはことごとく家族に不評だったし、自分でも申し訳ない、でも治すことができない、というジレンマに陥っていたと思う。

実は、この仕事モードと家庭モードの両立には、早くから苦しんだ。

特に苦労したのは、やはり妊娠・出産の時期。

すべてを書くと大変な量になってしまうのだけど、今日は少しだけでも、胸の内をお話できればと思う。

息子への敬意も込めて。



結婚の頃


私が結婚したのは、24歳の時。

家族からの紹介で、お見合い結婚だった。

私自身が、親がある程度年を重ねてからの子どもだったこともあり、花嫁姿を心待ちにされていたように思う。

私としては、27歳ぐらいまでは少なくとも仕事で実績を積み上げたいと思っていたので、かなり迷ったのだけど、せっかく良いご縁をいただいたので、家族の推薦を信じて飛び込んでみることにした。

とは言え、私の周りでは結婚している同年代の女子はほとんどおらず、少し肩身の狭い思いもした。

既婚者だから仕事ができない、というレッテルも貼られたくなかったので、独身時代よりもさらに仕事に邁進することにした。

その結果、27歳になる頃には、いわゆる一分野のプロジェクトリーダーに抜擢されるまでには成長していたと思う。

ただ、そうなると難しいのが出産のタイミングだ。

子どもを産むかどうか、というそもそもの問題もあったのだけど、実家からは「早く孫を」という雰囲気もあったので、どうにもこうにも引き延ばしづらい。

しかし、仕事においては、既に代わりが利かないポジションにまで入り込んでおり、上司にも「急な産休とかはやめてね」と言われたりしたものだ。

(上司がそんな事言ってはハラスメントになるのかもしれないが、実際に回らないのだから仕方がない)。



衝撃の病気発覚!


結局、私は全く妊娠・出産の気配のないまま3年を過ごし、さすがにそろそろどうなのか?と実家に苦言を呈されるようになった。笑

そうは言っても27歳。まだ比較的若いし、同年代で結婚している女子は少ない方だった。

それでも、念のために身体の健康チェックぐらいは行った方が良いだろう、と思って婦人科に通い始めた。

そして、そこでまさかの現実を知ることになる。

若いとタカをくくっていた私の身体だけど、実は度重なる仕事のストレスで、体内のホルモンバランスが崩れており、自然妊娠が難しい状態に陥っている、と判定されたのだ。

確かに、生理なんて60日に一回ぐらいしか来ないけど、その方が楽なのでいいや、と思っていた。(すみません!)

「生理周期乱れすぎなのに放置しすぎです!」と婦人科の先生に怒られ、その日から正常な周期に戻るよう、薬の処方が始まった。

さらに検査を勧めると、「多嚢胞卵巣症候群」という名前の難しい症状を持っていることが分かった。

要は、「卵巣に小さな嚢胞が多数できて排卵がうまくいかない病気」、とのこと。

まあ、病気と言ってもそんなに重いものではないのだけれど、

「卵胞が育たず定期的に排卵が起きないため、⽉経周期に異常(無月経、希発月経)があらわれ、不妊の原因にもなる」

というやつだった。

この治療がまたやっかいで、定期的に体の周期のチェックが必要なため、始業前に婦人科に通うことになった。

通院が必要となると、上司にも報告が必要なので、やむを得ずお伝えした。

すると、女性の上司は親身になって心配してくれたが、

男性の上司は、

「タノウホウ……何それ?大変そうだけど、分からなくてごめん。
というか、今抜けないでね~!
ホント、12月とかマジで忙しい時期は困るので、計画的にお願いしますよ!」

という反応であった。笑

まあ、そうなるわな。気持ちも分からんでもない。

大丈夫です、出産まで話いってませんから、落ち着いてください。

という感じだった。

そういうわけで事態は一転し、全く体の調子など気にせずに仕事に邁進していた私が、健康重視の生活を目指すことになった。


「病気をつくっている」自分


ただ、この時、自分のなかでは、すでに答えがあった。

私には「病気をつくっている」、という自覚があったのだ。

生理周期が飛ぶ、排卵がない、ということは……妊娠・出産への拒絶だろうな、ということが直感的に分かっていた。

そんなに仕事が好きなのかい!と突っ込まれそうなのだけど、結婚が早かった分、周りに後れを取りたくない、という気持ちが人一倍強かった。

休み返上で働くのは当たり前だったし、原稿の締め切り間近では、二日連続徹夜の日もザラにあった。

そして、そんな自分がカッコいいと思っていたのかもしれない。

妊娠・出産は女性のキャリアとしては一番の悩みどころ。

出産して現場に復帰できなくなった人を何人も見てきた。

自分はそうはなりたくない、と心のなかで念じつづけた結果、生理を止める、まで行ってしまったのだと思う。

でも、考えてみたらちっぽけな世界でジタバタしているだけの、愚かな私なのだった。

自分の仕事はたまたま、代わりが利かない、というところまで言っていただけるようになった。

けれど、実際には自分がいなくなったとしても、会社の組織としての業務は滞りなく進んで行くだろう。

残念だけど、世の中そんなものだ。

忘れられるのではないか、という恐怖心が余計に体の反応に出ていたのかもしれない。

「生理不順なので妊活できません」と義実家に言いたかったのかもしれない。

でもそんなものは全部、自分の恐怖心やエゴが作り出した幻想だ。


「祈り」 

ところで、「子どもは天からの授かりもの」だという。

それなのに、どうして私は、自分の都合ばかり考えているのか?

これではあまりにも、生まれてくる子どもが可哀想ではないか?

ある時、そう気づいた私は、悩んだ挙句、結局、「祈り」という手段を使うことにした。

「私のところに生まれてきたいと思っている方、もしいらっしゃるのであれば、夢に出てきて教えてください」

そうお祈りしてから眠りにつくようにしてみたのだ。

すると、かなーり早くから夢に出てくる人がいた。笑


夢の中では、5歳ぐらいの男の子。

自宅のリビングで、一緒にテレビを見ている。

髪の毛は真っ黒ではなく、薄茶色。

色白で、ふわふわの肌。

何の疑いもなく、こちらを見つめている純粋な目。

「ママ、ボクだよ」

まっすぐな眼差しが、そう伝えている気がした。


この夢を見た後、起きたときには、感動して涙を禁じえなかったのは言うまでもない。

私のところに生まれようと待っている子がいる。 

あの子のために、身体の調子を立て直さきゃ。

ほとんど確信めいて、そう思えた自分がいた。


生活の立て直しー妊娠へ


そこからの私は、心を入れ替えて規則正しい生活を送るようになった。

毎日、生まれたいと言ってくれたあの子に、お祈りすることにした。

そして、神様、願わくは、我が子をお授け下さい、と自然に祈る自分がいた。

また、時を同じくして、婦人科の担当医師からも、同じような事を言われた。

「私たちもこの仕事を長くやっているんだけど、最後は『祈ってください』と言うしかないの。医学としてはベストを尽くしてる。でも、最後に授かるかどうかは、神のみぞ知る世界なのよ」

なんと、長年婦人科系の病気を見ている主任女医さんだったが、「最後は祈れ!」というご指示だった。

私もご指示通りに祈ったし、指示がなくても祈っていたと思う。

すると、翌月。

薬や注射の効果もあり、排卵を確認。

無事に妊娠することができた。

薬と注射の副作用で体調はあまり良くなかったが、結果がかなり早く出たことにホッとしていた。

(※個人差がありますし、何年もかかる方もいらっしゃいます。決して、自分が治療を始めてすぐに授かってラッキーだった、という意図ではありません)

担当の女医さんによると「軽く奇跡」。

ここまでの症状の人で、治療開始後すぐに授かる人はいない、とのこと。

「日頃の行いが良かったのね」とまで言われた。


「妊娠糖尿病」を発症

こうして無事に第一子を妊娠できた私だったが、その後も試練は続いた。

妊娠中期からは、「妊娠糖尿病」を発症し、「糖」にあたるような炭水化物をほとんど取れなくなった。

「妊娠糖尿病」と上司に報告すると、「やっぱり、甘いもの食べ過ぎなんでしょう?」と言われたが、実際には甘いものの食べ過ぎで妊娠糖尿病になることはない。

妊娠糖尿病は、妊娠中に診断される糖代謝異常の一種で、従来の糖尿病とは異なる。

詳しい原因は分かっていないらしいが、胎盤からインスリンの働きを妨害するホルモンが分泌され、血糖値が高くなってしまうという症状だ。

放置しておくと、胎児に栄養が行き過ぎて巨大児になったり、心臓肥大、低血糖などの異常が出るので危険だそう。

妊娠糖尿病になった場合、血糖値を一定に保つため、食事の方向性に制限が課される。

これはかなり大変だった。

私の場合、パンを一個食べるだけでも、おにぎりを一個食べるだけでも、基準値を超えてしまうのだ。

結果的に、毎回、食前と食後に針を刺して血糖値を図りながら、大量の野菜を摂取し、炭水化物はほんのひと口の白米のみで過ごすことになった。

一番辛かったのは、原稿を書くなど頭を使う仕事の時に、ほとんど糖分を取れなかったこと。

そういえば、ツワリなどもあった気がするが、ほとんど気合で乗り切ったので覚えていない。

たしか、「気持ち悪いと思うから気持ち悪いのだ!」という謎の精神論を掲げ、胸やけが気になる自分をスルーしつつ、唯一受け付けるマックのフライドポテトをよく食べていたように思う。

(ツワリ中になぜかフライドポテトを食べたくなる人は多いらしい。)

妊娠糖尿病の食事制限の結果、妊娠中に逆に痩せる、というありがたい効果もいただいた。

こうして思い返して書いてみると、私の出産までのストーリーはかなり重めだが、自分ではそんなことすら考える余裕もなく、ただ必死だった。


仕事優先の計画出産


出産予定日は、会社の繁忙期とは全く関係ない季節に決まった。

「よくやった!ありがとう!」と男性上司に褒められ(おーい!笑)、職場での仕事の引き継ぎもある程度行った。

ただ、私がライターとして主に担当している案件で、どうしても入稿や締め切りが出産期間にかかってしまう案件があった。

最後まで自分の手でやり切りたい!

その思いが強かったため、最低限の案件は病院内でもメールでやり取りできるようにした。

さらに、各所にご迷惑が掛からないよう、あらかじめ出産予定日を決められる計画出産という方法を取った。

計画出産とは、要は、「無痛分娩」というやつだ。

出産適正圏内に入ったら、日にちを決めて入院し、陣痛促進剤で出産を促す。

陣痛が来たら、麻酔を打って痛みを和らげながら出産する。

アメリカなどでは一般的な方法だそうだ。

この方法だと痛みも緩和できるし、何より出産予定日を決められるので、関係各所にご迷惑をかけない、というのが魅力的だった。

(……というか、産休になってないじゃないか、という突っ込みは、ご容赦ください。
そういう業界で、ある程度抜けられないポジションを築いてしまったのです。
決してブラックやパワハラとかではなく、自分の意志で選んだと思います。)


出産の日


しかし、計画なんていうのは、破られるためにあるのだろう。

出産予定日を指折り数え、ほとんどの出産準備品を買い終えたある日。

深夜に「プチッ」と、体の中で何かが弾けたのを感じた。

これが、今思えば破水の瞬間だった。

私は深夜1時半頃に破水し、予定日より数日前に緊急入院となったのだった。

え?破水が先?

と一瞬驚いたが、破水のタイミングは赤ちゃんの都合、と伺っていたので、息子が出たいタイミングだったのだろう。


「頑張ろうね!」とお腹に声をかけながら、病院へ向かったのを今も覚えている。

というわけで、無痛分娩の予定はしていたものの、朝方、先生が駆け付ける頃までには、ちゃんと陣痛に苦しんでいた。

(人間心で出産予定日は決められないってことね。)

(陣痛もちゃんと経験できてよかった。)


そんな風に感じていた。

また、とても痛みに強い性格だということが再認識された。

担当医師から「これだったら麻酔なしでも余裕でしょ」と言われるほど、耐えられるタイプだったらしい。

「いやいや、そこは打ってくださいよ!」とお願いし、朝には麻酔を打っていただいた。

そこからは、痛みマックスの地獄から、天国へとパラダイムシフト。

疲れ果てて、午前中はぐっすり寝ていた。

お昼前頃に、気がつくと叩き起こされ、「生まれますので力んでください!」とのこと。

あわてて力んでみたけど、麻酔が効いているので、まったく力めているかどうかが分からない。

それでも、主治医に促され、2,3度力を込めて力んでみたところ、

感覚はないのだけど、何かがにゅるっと出た感覚。

次の瞬間、

「オギャ~~!!」

という、赤ん坊の泣き声が室内に響き渡った。

ドラマなどでよく観る、出産の瞬間。

それが自分に訪れたことが、とても不思議な感覚だった。


「可哀想の君」


小さい。

赤ちゃんって、こんなに小さいの?


最初に息子を観た時の感想はそんな意外なものだった。

そして、まだ半目しか開けられていないなかで、必死にママを見ようとしている!

その必死さを感じて、あまりの必死さに、「可愛い」ではなく、「可哀想」という感覚を受けた。

「可愛い」と「可哀想」は同じ「かわいい」から由来する言葉だと聞いたことがあるが、本当にそうなのかもしれない。

可愛いのだけど、可哀想。

あまりに健気で、あまりに無力だから。

つまり、私の中で「可哀想」とは、「切なさを含んだ可愛さ」なのだ。

必死に半目を開けてママを探そうとする息子の様子を見て、そんな哲学的なことが頭によぎっていた。

今思うと、麻酔のお陰で考えることができたのだろう。

産後の壮絶な瞬間に、思索を耽る余裕があったことには、心から感謝しかない。


これから先、どんなことがあっても、私はこの子を護っていかないといけない。

可愛い君へ。可哀想の君へ。

ようこそ、この世へ。

こんなママを選んでくれて、ありがとう。

その時の息子の、必死に片目をこじ開け、ママを探す表情は、今でも忘れない。

この子の信頼に応えたい。

ただ、そう思っていた。

また、息子という存在を与えてくださった、大いなる存在にも、自然と感謝と感動を覚えた。

私にこの子を与えてくださり、ありがとうございます。

必ず、立派に育てます。

親として、そう決意した瞬間だった。


そして、そんな決意と感動がありながらも、3日後には、病室で入稿原稿の最終確認をしていたことも、併記しておこう。笑


これから

あの時、必死に片目を開けようとしていた息子が今、5歳となり、生活発表会でセリフを流ちょうに言えるようにまで成長した。

生まれた瞬間から、仕事と隣り合わせだったママを見てきた君は、今、何を思うのかな。

仕事に追われていない、優しいママが好きかな。

noteの記事には追われているけどね!笑

この先私がフルで働くか、子育てに時間を割くか。

どちらの形でもいいのだけど、息子に対し、社会に出るということの大変さは、教えていければいいな、と思っている。

生活発表会での成長ぶりを見ると、ママとの時間が増えたことは、息子の精神安定には良さそうだ。

これからのことは、もう少し、様子見させてもらうつもりだ。


息子へ


いつも本当にありがとうね。

書くことは得意でも、幼稚園の持ち物を入れ忘れちゃうママでごめんね。

君がしっかりしてくれているお蔭で、今のママがあるよ。

いつも助けてくれて、引っ張ってくれて感謝してるんだ。

頼もしい男の子になってくれて、ママもとっても嬉しいです。

「可哀想の君」なんて言ったら、「そんなことない!」って真っ先に言われそうだね。笑

あなたが大きくなった時にも読めるように、このnoteも書きました。

あなたの優しさに救われている人も、きっと何人もいるはずだから、自信持ってね。

それから、その記憶力の良さは、きっとこの先、生きていく上での力となっていくよ。

勉強も一歩ずつ、コツコツと頑張っていこうね。

これからも、大切な君の成長を、心から楽しみにしています。

長く一緒に、よろしくね。



〈完〉



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