三宅 流

映画監督。ドキュメンタリーを中心に製作。日々感じたこと、プロジェクト、映画の感想、勉強についてなどを書いていきます。 公式ページ https://www.kukkyofilms.com/

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    最近の記事

    日々の哲学〜『言葉の服』(堀畑裕之著)より

    『言葉の服』の中に「日々の哲学」という一節がある。「哲学」というと何やら難しいものをイメージしてしまうかもしれない。 しかしここで書かれている「日々の哲学」はもっとささやかなこと、誰にでもできることだ。 日々出会ったこと、心が動いたこと、感じたことを言葉にしてくことだ。「なぁんだ」と思うかもしれない。しかし私たちは案外日々の色々なことをやり過ごして、忘れ去りながら暮らしている。色々なことがただ過ぎゆくままに生活しているかもしれない。 ぼんやりとしてやりすごしていることをあえて

      • 井筒俊彦『意識と本質』(12)

        井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →XI章のまとめはこちら 前章までは、「本質」肯定論の2つ目の類型、深層意識に生起する「元型(アーキタイプ)」イマージュに本質を見出す立場について語られた。 この最終章では、「本質」肯定論の3つ目の類型、表層意識において事物から普遍的「本質」を実在するものとして見る立場につ

        • 井筒俊彦『意識と本質』(11)

          井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅹ章のまとめはこちら 前章では、「元型」となる10個の「セフィーロート」について説明した。しかしこの10個の「セフィーロート」はそれぞれ独立して存在しているわけではない。緊密な相互連関を通じて、全体が構成する一つの有機的体系においてこそ、「セフィーロート」は初めて「セフィ

          • 井筒俊彦『意識と本質』(10)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅸ章のまとめはこちら 言語アラヤ識(深層意識の始点)で形成される意味分節体には即物的なものと非即物的なものの二種類ある。経験的事物性の裏打ちのある即物的意味分節体の大多数は、即物的イマージュを生み、そのまま深層意識を素通りして表層意識に現われ、そこで事物を「本質」的に認知

            井筒俊彦『意識と本質』(9)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅷ章のまとめはこちら 個々の事物を個々の事物としてではなく、その「元型」において把握するということは、事物をその存在根源的「本質」において見るということにほかならない。「元型」は「本質」である。だが、それが深層意識に、「想像的」イマージュとして自己を開示する「本質」である

            井筒俊彦『意識と本質』(8)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅶ章のまとめはこちら 前章では無分節的に、直接無媒介的に事物と対峙し、事物を無「本質」的に見るあり方を、禅を例に触れた。 しかし、この本の本筋は、普遍的「本質」・マーヒーヤを単なる抽象概念ではなく、濃密な存在感を持ったリアリティとして実在するものとしてとらえ、その実在を

            記事掲載のご案内〜File.38 身体をとらえる映画/表現 三宅流さん(映画監督)〜

            Arts United Fund(AUF)にコロナ禍の中、活動のご支援を頂きました。そのご縁でインタビューして頂きました。 映画の道を志した若かりし頃から今に至るまでの道など、色々と懐かしい話になりました。まだまだ予断を許さない状況ですが、新たにまた一歩踏み出していきたいと思います。聞き手はライターの佐野亨さん。色々と引き出して頂き、自分にとっても発見がありました。 身体表現の実験映画からドキュメンタリーへ。自分としては自然な流れで違うものを撮っている意識はなかったのです

            井筒俊彦『意識と本質』(7)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅵ章のまとめはこちら 実際の禅の修行の過程は、「悟り」を頂点とした三角形の山の形で表すことができる。(この三角形の底辺の2点ABは経験的世界である。)底辺のAから頂点に向かう一方の線はいわゆる向上道、頂点から経験的世界の底辺Bに向かい下降線はいわゆる向下道である。向上道は

            井筒俊彦『意識と本質』(6)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅴ章のまとめはこちら 禅は、「本質」によって固定された経験的世界を、無に等しい虚像だと捉える。例えば「花」を見る時、「花」を見る我々と、見られる「花」、すなわち主体と客体、意識と対象に分かれる。経験的世界においては我々は「花」を見て、それを「花」として認識する。しかし禅に

            井筒俊彦『意識と本質』(5)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅳ章のまとめはこちら この章で井筒は、意識を二つの異なる方向性、垂直方向と水平方向で考えて論を進める。 まずは垂直的、縦の深まりの方向として意識に表層・深層という二層構造を想定した上で、深層意識のさらに先に、例えば禅におけるメタ意識としての「無」意識や、前章で触れた宋儒の

            井筒俊彦『意識と本質』(4)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅲ章のまとめはこちら 〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅳ章〜 前の第三章では、井筒は普遍的「本質」である「マーヒーヤ」が単なる抽象概念ではなく、実在するものとしてとらえる三つの類型に分けた。ここでは1つ目の類型・「マーヒーヤ」を深層意識でとらえようとする詩人・マラルメと、中国宋

            井筒俊彦『意識と本質』(3)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅱ章のまとめはこちら 〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅲ章〜 井筒は「本質」という言葉を、西洋中世のスコラ哲学の術語(quidditas)に対応するものとして使いつつ、その意味を可能な限界まで拡張させ、東洋哲学のコンテクストに導入して、実験的に作り出された東西思想の出会いの場で

            井筒俊彦『意識と本質』(2)

            井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 →Ⅰ章のまとめはこちら 〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅱ章〜 井筒俊彦は、「本質」には二つあり、この二種類を意識的、方法論的に明確に分けた哲学の例としてイスラーム哲学を挙げている。神を唯一の例外として、あらゆる存在者に二つの「本質」を認め、区別している。ひとつは「マーヒーヤ」(m

            井筒俊彦『意識と本質』(1)

            井筒俊彦著『意識と本質』。ただ読んでいるだけでも刺激的ではあるが、より体系的に理解したいと思い、章ごとに自分なりにまとめを書くことでより理解を深めたいと思った。このトピックは個人的な勉強と備忘を兼ねたものなので、語の使い方や解釈に誤りがあるかもしれないが、まずは気楽に書いてみたい。 【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】 〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅰ章〜 私たちがこの世界の中でいろいろなものと出会う場合、これは「花」これは「机」として意識の中でと