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井筒俊彦『意識と本質』(4)

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅲ章のまとめはこちら

〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅳ章〜

前の第三章では、井筒は普遍的「本質」である「マーヒーヤ」が単なる抽象概念ではなく、実在するものとしてとらえる三つの類型に分けた。ここでは1つ目の類型・「マーヒーヤ」を深層意識でとらえようとする詩人・マラルメと、中国宋代の儒者たちのアプローチについて語る。

詩人・リルケは「もの」をその具体性の極限においてとらえようとした。個別的リアリティー「フウィーヤ」としての本質を「意識のピラミッド」の底辺、すなわち深層意識においてとらえようとした。

マラルメの「もの」の「本質」はリルケとは逆に、個物の個体性を無化し尽くしたところに「冷酷にきらめく星の光」のように浮かび上がってくる普遍的「本質」すなわち「マーヒーヤ」を言語的意識の極北に求めた。
日常の経験的事物の世界、そこでの事物や現象は「偶然性」によってつねに流動し続け、繚乱と花咲き乱れる。マラルメは「絶対言語」と呼ばれる詩的言語によって語ることで、それらの事物を殺害し、「虚無」の世界において、無化し、消滅させる。そしてその「虚無」の絶望のあとに、彼が「美」と呼ぶ世界が開けてくる。「美」の世界。時間の支配、偶然の桎梏を超脱した、永遠的実在としての普遍的な「本質」だけが棲むところ。万物が無生命性の中に凍てつき結晶した氷の世界。
彼が用いる「絶対言語」によって、事物は経験的次元において殺害され、その事物の普遍的「本質」は「実在するもの」としてたち現れる。もちろん詩人は普通の言語を使って詩作しなければならない。しかし彼は普通の言語を絶対言語的に使う。例えば「花」という言葉。それの呼び出すものは、ごく平凡な、どこのどの花にでも無差別的に当てはまる一般的「本質」によって規定された感覚的花の形姿にすぎない。それは移ろいやすいもの。だが詩人が絶対言語的に「花」という言葉を発するとき、存在の日常的秩序の中に感覚的実体として現れていた花が、発音された語の引き起こす、空気の振動と化して消え散っていく。花の感覚的形姿の消失とともに、花を見ている詩人の主体性も消失する。生の流れが停止し、あらゆるものの姿が消える。この死の空間の凝固の中で、一たん消えた花が、形而上学的実在となって、忽然と、一瞬の稲妻に照明されて、白々と浮かび上がってくるのだ。花、永遠の花、花の永遠不変の「本質」が。

中国の宋代の儒者たち(朱熹や程頤・程顥兄弟ら)もまた、普遍的「本質」を真に実在するリアリティーであると信じ、それを深層意識において把握しようとする。その探求は彼らの実践的側面において、烈しい精神訓練に基づく辛苦の道だった。その訓練の方法は「静坐」と「窮理」とのふたつに分かれる。
人の心の状態には、心が動いている状態である「己発」と、心が止まっている状態である「未発」がある。一見、人の心は常に連続して動き続けているように見えるが、実際は、ある一つの心の動きが弱まり、消えて次の心の動きが始まる、という断続した動きを取り続ける。Aという心の動きからBという心の動きに移る間に僅かな心の空白の点が生じる。これが「未発」である。日常生活を送っているさなかでは、通常、次々と心が動き続けているように感じていて(己発状態)、この切り替わりの瞬間の静(未発状態)はほとんど意識されることは無い。
「静坐」は第一段階として、まずこの心と心の切り替わりの瞬間である「未発」を意識的に捉えようとする。そして第二段階で、意識で捉えたその「未発」の状態を心のなかで長くキープしようと訓練する。修行が進む内に最初は心の中は「己発」状態がほとんどで、その中で捉えられる「未発」はポツリポツリと瞬間的だったのが、次第に心の中で「未発」状態が占める割合が多くなり、やがて比率は逆転して、心の中で「未発」のほうがむしろ通常状態になり、「己発」は、心の静である「未発」と「未発」の間に瞬間的に点在するわずかな「動」へと変わる。これはまずは表層意識における心の訓練である。
そして意識の表面上でとらえた「未発」の領域が、意識の深層に深まっていき、ついには意識の最後の一点、意識のゼロ・ポイントに到達する。表層意識における「未発」の水平的な広がりが、同時に深層意識にある意識のゼロ・ポイントに向かう垂直的深化でもある。意識のゼロ・ポイントは心のあらゆる動きが終局する絶対的「静」であるが、今度は逆にあらゆる心の動きがそこから発出する出発点、意識の原点として自覚し直さなければならない。ここに至ってはじめて「静坐」の道程が完成する。
このゼロ・ポイントの絶対的「静」の側面を「無極」といい、あらゆる「動」が始まる出発点としての側面を「太極」という。すなわち朱子の「無極而太極」(無極にして太極)である。
宋学においては意識と存在は不可分なものである。意識のゼロ・ポイントはすなわち存在のゼロ・ポイント。存在の「無極」がそのまま存在の「太極」に転じ、そこから形而上的「未発」が形而下的「己発」として発動していく。この微妙な一点に、全存在界を統合的に基礎づける純粋な形而上学的「理」が成立し、この絶対的「理」は自己分節を繰り返しながら、無数の個別的「理」となって我々の経験的世界の事物に「本質」的根拠を与えていく。そして「理」とは、普遍的「本質」。それは概念ではなく、「実在する」普遍的「本質」である。

窮極的一者である「太極」は唯一の「理」であるが、この「太極」は万物の一つ一つにも、いわば小さな「太極」として内在する。しかしそれらは唯一の「太極」自体と違ったものになって個々の事物の小「太極」になるわけではない。この唯一の「太極」「理」には形而上的側面と、形而下的側面があり、それが我々の経験的世界に現れるとき、我々普通の人の目には形而下的側面しか見えない。しかしその「太極」の形而上的側面は経験的世界においても保持されている。ただ普通の人々には、経験的事物の深みにひそむ、この形而上的側面が見えない。表層意識において、形而下的側面における「理」は無数の、それぞれ違った具象的「理」となって現れてくる。人には人の、人だけに固有の「理」、花には花の「理」というふうに。
「窮理」とは第一段階として、こうした個別の事物の「理」の追求から入る。最初は存在世界全体の深層構造を見通すことなしに、ただ目前のあれこれの事物の考察から始めるので、個々の「理」がばらばらに見えるだけである。この段階では個々の「理」の形而下的側面しか見えない。しかしこうして個々の「理」の追求を積み重ねていく内に、ある時突然、ある種の異常体験、貫通体験がその人に訪れる。突然深層意識が拓かれ、「太極」の意識と存在のゼロ・ポイントから無数の事物が溢れ出し、全ての「理」の形而上的側面が、その究極の一点において一挙に見えてしまう体験がおきる。それを「脱然貫通」と言う。それは存在の再深層の開顕であり、「窮理」を行なうその人にとって意識の最深層が拓かれる体験である。修練を通じて事物をそういう形で、そういう次元で見ることのできる意識のあり方を獲得出来た時、全存在界の原点である「太極」そのもの、「理」そのものから広がる存在界全体を一挙に見通すことができる。
そして不思議なことに万物の唯一の窮極的「本質」である「太極」は、同時にあらゆる事物の「本質」が無に帰して消滅しまう全存在界のゼロ・ポイント「無極」でもあるのだ。

マラルメの「本質」探求と、宋儒の「窮理」は同じ型に属するものである。しかしマラルメは経験的事物を「絶対言語」によって殺害し、その「虚無」のあとに事物の永遠不変の「本質」が形而上学的実在となってたち現れるあり方だった。しかし宋儒は経験的事物を殺すのではなく、躍動する生の中に個々の「本質」を見出し、その探求の先に、より高次の形而上的絶対無である「無極」に出会う。そこには虚無や絶望の影はない。「無極」はすなわち「太極」。あらゆる存在がそこから湧出する始点でもある。唯一絶対の「本質」が個々の事物の形而下的「本質」を生み出していく。意識においても存在においても。
「無極而太極」無極でありながら同時にそれがそのまま太極である、と朱子は言う。無・即・有。「理」の形而上的極限における無と有の、この矛盾的相即のうちに、宋学的「本質」把握の東洋的性格を見るべきであるのかもしれない、と井筒は言う。


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