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井筒俊彦『意識と本質』(3)

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅱ章のまとめはこちら

〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅲ章〜

井筒は「本質」という言葉を、西洋中世のスコラ哲学の術語(quidditas)に対応するものとして使いつつ、その意味を可能な限界まで拡張させ、東洋哲学のコンテクストに導入して、実験的に作り出された東西思想の出会いの場で多様な「本質」のあり方を描き出す。

何か(X)が今、ここに現前している。我々がそれを認識する。そこで「…の意識」が我々の内に生まれる。「Xの意識」とは「Xの存在の意識」もしくは「存在するXの意識」である。しかしスコラ哲学ではこうしたXの知覚が成立する以前のもっと原初的な「Xの意識」を考える。

その原初的な「Xの意識」の段階では、例えばまだ「花」ではない。まだ花として存在していない。ただ渾然と、無分節的に、「何か」が我々の意識に向かって自らを提示しているだけだ。この状態におけるXはまだ、いわば「どこにも裂け目のない一つの存在論的塊り」である。

裂け目も接目もない塊りに認識の第二段階で、理性が割れ目をつけて、「本質」と「存在」に分ける。ここで初めてXが「存在する何々」として意識される。例えば「存在する花」として。この「存在」と「本質」の組み合わせは「Xは実在する」と「Xは…である」という二つの命題がここで成立する。Xが存在する、だが、ただ存在するだけでなく「…として(例えば花として)」存在する、ということになる。

「存在」はXを現実化し、現前させる。Xは存在することによって最も切実に現実であり、リアルである。
しかし「存在」はXをリアルにはするけれども、決してXを花たらしめはしない。Xは存在することによって花であるのではない。そこに別の原理である「本質」が働く。花はその「本質」つまり花性のゆえに花なのである。

しかし逆に、Xの「本質」はXを「…」として規定はするけれども、Xの存在を保証しはしない。花性は、それ自体としては、どこまでもただ花性であって、現実には一輪の花も咲かせはしない。「本質」と「存在」とが組み合わさって、はじめてXは「存在する花」になる。「花」という語は、Xの「存在」に何の関わりもなく、ただ「花」であるというXの「本質」を措定し、固定するのである。それによって流動してやまぬ「存在」の渾沌の只中に、花という一つの凝固点が出来上がる。

「存在」の様々な凝固点、つまり存在する様々なXに向かって我々の「我」は絶えず脱自的に走り出していく。それがその都度、ある一定の対象に焦点を合わせた「Xの意識」であるが、意識は必ずそこにXの「本質」を感知するからこそ意識の焦点をXに合わせることができる。Xの中に何らかの形で「本質」を感知しない限り、意識はXに向かって脱自的に走り出すことはしない。

ここで「Xの本質」を成立させる「本質」とは一般者である。花性はこの花、あの花というある特定の個別者に限定された性質のものではなく、どの花にも共通する一般的性質である。であるからXは花として意識されることによって、まさにその瞬間に、花一般というクラスの一成員となる。クラスの一成員となった花は、その個別性を奪われてしまう。個別者を真に生々しい個別性において捉え、それを言語表現の次元に移そうとしたリルケの悩みはここにあった。

個々の存在者の中に「このもの性」の「本質」、「この花」たらしめる「本質」があるのではないかということからイスラムのスコラ哲学では個体的リアリティーの本質を「フウィーヤ」として捉え、一般的な「本質」である「マーヒーヤ」とふたつにわけて「本質」をとらえた。「この花」の「この」に力点をおくか、「花」に力点を置くかによって「本質」論が全く異なる二つの方向に展開する。

個々の存在者それぞれを、かけがえのない独自のものとしてとらえようとする個体的リアリティー「フウィーヤ」を徹底的に推し進めた場合、もう一方の普遍的「本質」である「マーヒーヤ」は理性の抽象作用がもたらした概念的一般者となり、その実在性が奪われてしまう。

しかしこのような個体主義に真正面から反対してマーヒーヤの実在性を疑わない思想家が東洋、西洋にも少なからずいた。マーヒーヤ、普遍的「本質」を抽象概念としてではなく、濃密な存在度を持ったリアリティーとして。その実在をどの意識の層でとらえるかで、井筒はそれを三つの類型に分ける。

1つ目は、普遍的「本質」・マーヒーヤは存在の深部に実在し、存在の表面には出てこない、つまり表層的「…の意識」の「…」として認知されるものではない、という主張する立場。従ってこのような「本質」は一種の深層意識的現象としてみなされ、我々認識主体の側も、物の表層構造しか見えない日常意識のかわりに、非日常的な意識、深層意識によって事物の深層構造を見ることができるようになる必要がある。東洋哲学の範囲では宋学の「格物窮理」がこの立場の典型である。

2つ目は、同じく普遍的「本質」・マーヒーヤは深層意識次元に現れるが、シャマニズムや神秘主義を特徴づける「根源的イマージュ」の世界の成立する意識領域がその場所となる。全ての存在者の普遍的「本質」が濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、元型として現れてくる。イブン・アラビーの「有無中道の実在」、スフラワルディーの「光の天使」、易の六十四卦、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロート」などこの類型は東洋哲学においては非常にたくさんの例がある。

3つ目は普遍的「本質」を意識の深層ではなく表層で、理知的に認知するところに成立する。ただ理性的に、表層意識的に、「本質」の実在を確認するにとどまる。その構造を分析し、そこから出てくる理論的・実践的帰結を追求する。古代の儒学・孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカは特有の存在範疇論など。このタイプは「本質」が概念的一般者、普遍的概念であることに最も近い位置づけになる。

以上、井筒は「存在」と「本質」が「意識」を生み出すプロセス(あるいは順番が逆)を通じて「本質」の様々な様態、類型を描き出した。次章は1つ目の類型、宋代の「格物窮理」、そしてマラルメの詩を通じて深層意識次元でとらえる普遍的「本質」・「マーヒーヤ」へアプローチしていく。

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