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井筒俊彦『意識と本質』(10)

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅸ章のまとめはこちら

言語アラヤ識(深層意識の始点)で形成される意味分節体には即物的なものと非即物的なものの二種類ある。経験的事物性の裏打ちのある即物的意味分節体の大多数は、即物的イマージュを生み、そのまま深層意識を素通りして表層意識に現われ、そこで事物を「本質」的に認知させる。これに反して、経験的事物性を欠く純粋に非即物的な意味分節体の方は、非即物的イマージュとなって深層意識に出現し、一種独特の「想像的(イマジナル)」空間をそこに作る。
即物的イマージュが深層意識に入って、そこで「想像的」イマージュに変質する場合もある。仏教の蓮の花や、クンダリーニヨガの蛇などがその顕著な例である。
即物的であれ、非即物的であれ、深層意識に現われてきてそこに一定の場所を占め、そこに働く限りにおいては全てのイマージュは「想像的」性格、つまり表象意識の立場から見て象徴体と呼ばれるような性格を帯びる。要するに深層意識は一切を「想像」化する特殊な意識空間なのである。
その中でも中心的役割を果たすのは非即物的イマージュの中の、特に「元型」イマージュである。
「元型」とは意識・存在の創造エネルギーのもっとも原初的な凝集点であり、それらの自己顕現である「元型」イマージュは、深層意識の目で見た事物の「本質」を形象的に提示する。それは表層意識の見る事物の「本質」とはまるで異質なものである。表層意識の捉える「本質」は基本的に概念的普遍者であるのに反し、「元型」的「本質」は、具体的普遍者。すなわちそれは、意識・存在のゼロポイント、「無」から「有」に向って動き出す、その起動の第一段階に現われる根源的存在分節の形態であって、あくまでも概念化を拒む。それは深層意識的に、象徴体験的に、生きられなければならないものだ。

「元型」イマージュには主に4つの特徴がある。
第一の特徴は、「元型」イマージュは「文化的枠組」に根本的に条件付けられる。
表層意識の見る概念的普遍者の場合と違って、「元型」的「本質」のこの具体的普遍者・象徴的普遍性には、人間の意識深層そのものを根本的に規制する「文化的枠組」の性格が濃密に反映している。つまり、時代と地域の違いを超えて全ての民族、全人類に共通する普遍性はありえない。仏教徒がその瞑想的ヴィジョンにおいてキリストやマドンナを見ないように、また逆にキリスト教徒の瞑想意識の中に真言マンダラの、如来や菩薩の姿が現われないように。「元型」的「本質」は、ある特定の文化的コンテクストに密着した深層意識が事物の世界に認知する「本質」である、と考えられる。深層意識に生起する「元型」そのものが文化ごとに違うのである。ただどの文化においても人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する、そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、そういう意味で、人間意識の深層機構自体に組み込まれた根源的存在分節として「元型」なるものが認められるのである。
第二の特徴は、事物性からの遊離(非即物性、脱即物性)がある。これについては先に述べた。
第三の特徴は「説話的自己展開性」あるいは「神話形成的発展性」。
深層意識に現われた「元型」イマージュは通常、著しい展開性を示す。それは全ての「想像的」イマージュが持つ本性的傾向だ。普通の表層意識的イマージュは本性的に安定していて、ともすれば凝固しがちであるが、「想像的」イマージュは機会さえあればすぐに説話的に展開しようとする。展開してお伽話となり、伝説となり、神話となる。「元型」イマージュを中心にして、そのまわりに他の「想像的」イマージュが結集し、自然にそこに物語が形成されていく。多くは「聖なる」物語、象徴的物語。このような物語が特に象徴的であると感じられるのは、それの中心をなす「元型」イマージュの展開が、存在の深層意識的「本質」構造を指し示すからである。物語の中で働く個々のイマージュそのものよりも、中心的イマージュを取り巻きつつ、互いに結びつほぐれつしながら進展していくイマージュ群の力動的な連鎖が、ある独自な仕方で存在の「本質」構造を形象的に写し出すのだ。
第四の特徴は、「元型」イマージュが持つその構造性である。
物語として進展する「元型」イマージュは常に動いており、それをめぐるイマージュ群の相互関係も、それにつれて不断に変化する。ところが「元型」イマージュには、変化して物語り進展するかわりに、全部が安定した一挙展開的構造体として現成するという、全く別の側面がある。深層意識を満たす全ての「元型」イマージュと、それに伴う副次的イマージュが、整然たる秩序にずらっと並んで一つの全体構造をなし、全体構造として機能する。真言密教の両界マンダラやカッバーラーの「セフィーロート」構造体などがそうである。
ここにも、動きがないわけではない。動きはたしかにある。というより、至るところに生々躍動する宇宙的存在エネルギーの沸騰がある。だが、「元型」イマージュが神話や物語として展開する場合とは違って、それは無時間的な動き、いわゆる「全体同時」的動きである。

ここでは空海の真言密教、ユダヤ教神秘主義カッバーラーを例に見ていく。

深層意識で行なわれた存在分節は表層意識に達し、「本質」とともに経験的世界の無数の事物を生み出す。空海はこの存在分節の過程を逆に遡行し表層意識から深層意識への深みへと追っていき、ついに意識の本源にまで達する。空海はこの意識の本源、そして存在の本源を大日如来として形象化する。絶対無分節者としての大日如来は「空」。しかし空海はこの「空」を「無」ではなく、「有」の充実の極としてとらえる。内に充実しきった「有」のエネルギーは外に向かって発出し、一切万有になる。その絶対的究極の始点において大日如来はコトバを発する。その最初の一声は「ア」音。いわゆる「阿字真言」である。絶対的無分節者が分節に向って動き出す第一歩。この最初の声とともに意識が生まれ、全存在世界が現われ始める。絶対的無分節の自己分節はそのまま進んで一切万有にまで展開していく。
胎蔵界マンダラでは、存在の本源である中心点から発する創造的エネルギーが四方に拡がって周辺部に達し、そこから翻って中心部に戻る。ゼロと多との間の交互の存在(そして意識)振幅が見られる。しかしそれは水面の波紋の動きのように時を追って次々に移っていく動きではない。始めから全体が無時間的に出来上がっている。母の胎内に宿された胎児はその状態で出生の時を待っているのではなく、胎児は始めから生まれている。大日如来、すなわち絶対的無分節の「元型」的自己分節とは一切が同時に現勢態にあり、潜性体の潜む余地はない。
胎蔵界マンダラに比べて、金剛会マンダラは一見時間的であるように見える。羯磨会を発出源として意識・存在エネルギーが現象的世界展開の道を次第に下向していく「下転門」、同じエネルギーが逆に上昇していく「上転門」。深層意識の諸段階ごとに存在界は変貌し、違う様相を表していく。マンダラ瞑想を通じて大日如来の悟りの境地に達しようとする修行階梯の構造としてみれば、金剛会マンダラは明らかに、次第に深まりゆく意識の変化を時間的過程として呈示する。金剛会マンダラは事物の「元型」的「本質」構造を、深層意識の展開と還元の過程という動的な形に組み替えて形象化する。しかし本来的には全てが始めから完成しきっているこの「元型」空間では、いわゆる時間的過程ではなく、構造的過程である。そこに現われるのは一つの無時間的空間なのである。
マンダラは第一義的には、深層意識に現われるすべての「元型」イマージュの相互連関システムである。ここではいかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。すべてのものの一つ一つが輻輳する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。マンダラ空間は、このような存在界全体の「元型」的「本質」構造なのである。

ユダヤ教神秘主義「カッバーラ」では存在の「元型」的分節の基礎単位と、それを喚起する根源的イマージュの構造体系があり、それは神の外、つまり経験的世界の存在構造ではなく、あくまでも神の内部における存在構造の形象化であることとする。神の内面から外面に現れた根源的イマージュは、人間の表層意識においてシンボル・象徴として捉えられる。
カバリストによれば、神は巨大な、絶対無限定的な存在エネルギーである。この存在エネルギーは内から外に向かって充溢するが、その充溢には幾つかの発出点が始めから用意されており、発出点の各々において、無限定のエネルギーが原初的に限定される。それがカッバーラの見る「元型」である。「元型」は数限りなく様々なイマージュを生み出していく。神の内的構造を原初的に規定するそれらの「元型」をカッバーラでは「セフィーロート」と言う。神の「元型」をカバリストたちは便宜的に十個に限定する。
十個の「セフィーロート」は、神的生命の自己表現の形、すなわち存在世界の深層構造を呈示する。以下、十個の「セフィーロート」について簡単に説明する。

第一、「ケテル」、意味は「王冠」。存在流出の究極的始源であって、それ自体は厳密に言えば、流出ではない。純粋「有」、絶対的「一」である。一切の「多」を無分節的に内蔵する。

第二、「ホクマー」、「叡智」。神の自意識。神が自らを観想するのである。絶対無分節的覚知。イマージュとしては、際涯ない空間の広がりの中に、独り燦爛と輝く巨大な太陽。この太陽から不断に発生する光線の一つ一つが、もっと下の存在段階で結晶して経験的事物の「元型」となる。

第三、「ビーナー」「分別知」。神が自らをそこに映して、自らの内面をあるがままに眺める鏡に譬えられる。「ビーナー」では神は自らの一者性のうちにひそむ多者を見る。あたかも多くの小面をもつ多面体の宝石のプリズムを通った光のように、「神の顔」は無数に分れ、小面ごとに異なる顔になって映る。ここに最初の存在分節が起る。存在の「種子」を内蔵する「ビーナー」を宇宙的「子宮」として形象化する。だからイマージュとしては、第二の「ホクマー」が父であるのに対して、「ビーナー」は母である。

第四、「へセド」、「慈悲」。「ホクマー」を父とし、「ビーナー」を母として生まれる最初の子供。神の「慈悲」は広大無辺四方八方に拡がって、至るところ、あらゆるものに生命と生命の歓びを与える。言い換えれば、神的「有」のエネルギーは存在すべきすべてのものに存在を与えるのである。すなわち、「慈悲」は神の創造性の肯定的側面を表わす。何ものをも排除せず、どこまでもすべてを肯定するのだ。

第五、「ケヴーラー」、「厳正」。第四の「へセド」が肯定的であったのに対して、これは否定的、抑止的原理。神の「慈悲」はあらゆるものに惜しみなく存在を与える。しかし神の存在賦与には自ら厳正な制限が課されるのであって、ここに「ケヴーラー」が存在エネルギーの抑止力として現われてくる。「慈悲」の段階ではまだそれぞれ一定の自性を得ていなかったすべての存在可能性が、ここでははっきりと識別され、厳正な基準による存在範型となる。

第六、「ティフェレト」、「美」。この美しさは、カッバーラーの「元型」体系においては、すべて対立し矛盾する者同士の局所的、または全体的、融和と調和の美である。一切の事物は、「元型」的存在の次元において、「ティフェレト」を通じて相互浸透的に調和する。すべての「元型」が、同時に現在しながらいささかも混乱することなく、しかも互いに透明。「ティフェレト」は、こういう意味で、全存在世界の「元型」的中心。あたかも車輪のすべての輻が轂に向って集中するごとく、すべての「セフィーロート」のエネルギーがここに集まる。

第七、「ネーツァハ」「把持」、永遠不断の持続性。神の創造力の働き、すなわち存在流出の連続性をあらわす。先行する第六「ティフェレト」に流入してきて、そこで互いに融和し合った諸「元型」のエネルギーの充溢が「ネーツァハ」という一つの新しい「元型」となって現われてくるのである。神的実在のエネルギーが一瞬も絶えることなく続くから、世界の存在性は把持される。

第八「ホード」、「栄光」。「元型」としての「ホード」は、第七「ネーツァハ」とともに第六「ティフェレト」から発出するが、「ネーツァハ」が、どこまでも、いわば千篇一律に創造を持続していくのに対し、「ホード」はその創造力の横溢を受け止めて様々に形成し変化させる。例えば巨大な光源から発出する光線を、様々に屈折させてあらゆる方向に放散する多面鏡のように。神に源を発する存在エネルギーは、「ホード」のこの屈折力を通って、はじめて一切万物を「元型」的に分節するのである。

第九、「イェソード」、「根基」。「ティフェレト」から発出して二分し、存在流出の陽性的(男性的)側面を具現する「ネーツァハ」と、それの陰性的(女性的)側面を具現する「ホード」とが再び結合することによって生起する新しい「元型」である。その性質は徹底的に男性的で、形象的には男根。宇宙に遍満するダイナミックな生殖力。およそ生命を持つものの生命力の源泉。創造的世界(被造界)の「元型」的根柢。

第十「マルクート」、「王国」。上位の、先行する全ての「セフィーロート」のエネルギーが一つになってここに流れ込んでくる。全「セフィーロート」系列の終点として、神のあらゆる側面を己のうちに再現しつつ、全被造界そのものの「元型」をなす。神的実在の世界は、「元型」構造的に、ここで終端に達し、その下には被造界が展開する。従って、被造界の側から見れば、「マルクート」は被造界が超越界につながる連結点である。つまり人間にとって「マルクート」は、神の国に上る登り口であり、神の家の敷居に当る。

以上、「セフィーロート」、すなわち神の内的構造を規定する十個の根源的「元型」、である。しかし、「セフィーロート」を個別的に知っただけでは、カッバーラーの見る存在の「本質」構造はまだ全然わからない。存在の「本質」構造は、これら十個の「元型」が相互に連関して作り出す全体システムによってはじめて明らかになるのである。
次章ではこのユダヤ教密教の「セフィーロート」マンダラともいうべき「元型」の相互連関のシステムを考察する。

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