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『沖縄久高島のイザイホー』

先日、紀伊國屋ホールで『沖縄久高島のイザイホー』(岡田一男監督)を観てきた。12年に一度行われてきた祭礼「イザイホー」のひとつひとつの要素が丹念に記録され、また祭礼の準備から終わりのあとの時間までも描かれていることで生活やコミュニティーとの密接なつながりの中に存在するものとして体感することができた。おそらく綿密なリサーチと周到に練られた準備によってでなければなし得なかったであろう。この映画が撮影された1978年以降、一度もイザイホーが行われていないことを考えると、このような緻密な形で記録を残してくれた制作チームには敬意と感謝の念を抱かずにはいられない。

生者と死者が混ざり合う場、神と人が混ざり合う場、こうした場に包まれて暮らしていれば、自身の生と死を、親しいものの生と死を安心し、納得して受容することができるのかもしれない。

現代社会では、死の姿や、神の存在が日常から排除され、見えなくなってしまってる。ただ合理的な社会の中では、生きることや死ぬことが魂のない無機質な流れ、砂がさらさらと流れ落ちていくだけのような存在になってしまう。魂から引き離されて死ぬことの怖ろしさよ。

12年に一度とはいえ、子供の頃に祭礼を身近に感じて暮らしていれば、やがて成長し、年齢ごとに役割を果たしていき、祭礼を中心とした価値体系の中で、神を感じ、生を受容し、死を受容することができる世界に包まれて在ることができる。祭礼が途絶え、子供時代にそれを感じることができなければ、魂が包まれていたその世界自体が自身から遠く離れ、消えていってしまう。しかしこうした丹念に記録された映像が残されれば、祭礼が持っていたあの魂を包み込むような世界の存在に気づき、あるいは思い出し、人々をその場所に再び近づけてくれる、そんな役割の一端を担うことができるのかもしれない。


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