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モーリス・ブランショ『待つこと 忘れること』(平井照敏訳)

モーリス・ブランショ『待つこと 忘れること』ようやく読了。今まで読んだブランショの中でも特に難物で、一日数ページ読むとその日の読解エネルギーを使い果たしてしまう、そんな感じで時間がかかってしまった。読み終えたあとも果たして内容をしっかりとらえることができたのか甚だ疑問だ。
どうにか通読を終えた、というところが正直なところ。
同じセンテンスの中で語られたことが打ち消され、反転し…反転というよりは少しずらされながら、ベケットともデュラスとも違う捉えがたさ。ブランショのこの本以前の過去作よりもはるかに捉えがたい。

一つ導きの糸となったのは、近年SNS上で多く出会うようになった訃報たち。SNSで出会う、見知らぬ人の訃報、少し知っている人の訃報、親しい人の訃報…多くの訃報が親しさの濃淡に関係なく、同じように流れていく。そして自分自身の死も、見知らぬ人の訃報、少し知っている人の訃報、親しい人の訃報として目にされ、流れていき、忘れられていくのだろう。自分自身が多くの訃報の砂粒のひとつになって流れていってしまうような。
SNSが盛んになる以前に比べて訃報との距離感が近くなることで、どこか死との距離感が遠ざかっていくような感じ。
死を忘れ、忘れられていく死
(私が)死を忘れ、忘れられていく(私の)死。
()内が「私」に限らず、無限に入替え可能な、さらさらとどこまでも流れ落ちていく限りない多くの砂粒たちにような、そんな風に感じるときのような、ある種の浮遊感のたよりなさの中にいるような…
そうした感覚が、テキストの中に出てくる「忘却」や「期待」という捉えがたい概念にとりかかるひとつの手がかり、足場となって、ひとまずは何となく読み進めることはできた。その手がかりはほんの入口に過ぎず、その先に広大にうねり続ける静謐な点があるのだろうと思う。今はまだこの作品について何かを語るのは難しそう。時間をおいてもう一度読んでみようと思う。

自分が次に作りたい作品のうちの一つのコンセプトに関わってくる、という根拠のない予感から読み始めてみた。20代の頃から手元にありながら、手を付けることができなかった本。刺激と手がかりは与えられたが、同時に大きな宿題も与えられた気持ちでもある。自分のこちらの方面の創作はまだ道のりが遠そうだ。

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