見出し画像

井筒俊彦『意識と本質』(6)

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅴ章のまとめはこちら

禅は、「本質」によって固定された経験的世界を、無に等しい虚像だと捉える。例えば「花」を見る時、「花」を見る我々と、見られる「花」、すなわち主体と客体、意識と対象に分かれる。経験的世界においては我々は「花」を見て、それを「花」として認識する。しかし禅にとってそれは、もともとありもしない「花」の「本質」を意識主体が妄想して、「花」である実体として描きだした虚像にすぎない。禅は全ての存在者から「本質」を消去し、そのことにより対象を無化し、全存在界をカオス化する。しかしそれは禅の存在体験の前半にすぎない。禅は一旦カオス化しきった世界を、それまでとは全く違った新しい形で秩序を取り戻す。無化した「花」を、花の「本質」を取り戻す形ではなく、無「本質」的に「花」を蘇らせる。この世界の全ての事物は、互いに区別はされつつも、「本質」的には固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融け入り、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融け入る。道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空広くして天に透る、鳥飛んで、鳥のごとし」である。鳥が「鳥である」、のではなく、「鳥のごとし」と言う。しかもその「鳥のごとし」が無限に遠く空を飛ぶ。この鳥は鳥という「本質」に縛られていない。だが「本質」がないのに、この鳥は鳥として分節されている。禅のこの存在体験を井筒は、禅独特の無「本質」的存在分節、と言う。

禅において実存認識の段階を示す三つの言葉がある。「無心」「有心」「執心」である。「無心」とは、実在を絶対無分節的に見る境地。そして絶対的無分節の存在は分裂して主・客の対立が現れ、主体的側面が我意識となり、客体的側面が対象的事物の世界として確立され、「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」という形での経験的世界が現れる。そして存在を様々に分節し、個々別々の事物を出現させる。これが「有心」であり、普通の人々の通常の意識のあり方である。「有心」は現実を「本質」的に分節し、個々別々のものとしてしか見ることができない。存在は究極的には絶対的無分節者であり、分節的意識が作用し出すやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を隠す。つまり普通の心の状態「有心」では存在の真相を全く見ていないということになる。「執心」とは、特定の事物に対する欲情的、妄執的な態度を表す。愛憎に縛られ、欲にくらんだ目には、実在の真相など見えるはずがない。「執心」は「有心」のひとつの派生態である。人がある対象に執着するのは様々な事物が差別され、様々な存在者として分節されるからである。

我々は例えば花を見る時に、瞬時にそれが「花」だと認識する。なぜそれが可能かというと、我々の住む文化共同体のうちに、存在の分節の仕方があらかじめ備わっているからだ。存在の分節の仕方はそれぞれの文化が持つ「本質」の体系によって異なる。ギリシャならギリシャ、中国なら中国特有の「本質」体系がある。そしてこの「本質」はそれぞれの文化が持つ言語と密接に結びついている。だから我々がその文化共同体に育ち、その共同体の言語を学んできたならば、その文化が持つ「本質」体系は私たちの意識の深いところにまで浸透し、私たちの現実の認識の仕方を決定づける。この意識の深みの部分を井筒は「言語アラヤ識」と呼ぶ。「言語アラヤ識」の領域においては全ての「本質」が完成された形で収まっているわけではなく、まだ「本質」として結晶化されてない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら漂っている。この場で存在の潜在的な「種子」が形成され、機会あるごとにその潜在性を脱し、我々の表層意識において「本質」を作り出して経験的事物を分節する。だから言語は「本質」と深く結びついている。表層的にも潜在的にも。

禅は、絶対無分節の存在真相を認識するために、「本質」と深く結びついた言語、「コトバ」による分節構造を壊し、カオス化しようとする。そしてそれによって絶対無分節の存在を知った後、「本質」にとらわれない新しい形で、現実世界をとらえなおそうとする。その具体例をいくつか見てみる。
…禅師は手にした杖を持ち上げる。「このものをなんと呼ぶ。もし杖である、と言えば分節の網に引っかかる。杖でない、と言ってもやはり分節の網に引っかかる。である、とか、でない、とかいうことを離れてみたら、究極的にどうなるか」と。そして相手の答えを待たず「お前たち本当のところがわかりたいか。である、の、でない、の言ってるからいけないのだ。大地山河、全部一挙に粉微塵にしてしまえ」と言う。これは杖であるとか、杖でない(無分節を分節と同平面に並べて相対的な分節否定と考える立場)とか言ってないで、全存在界を一挙に粉砕し尽くし、絶対無分節の境地に入り込んでみろ、というのだ。(「五燈会元」)
…禅僧・百丈懐海が浄瓶(手を清めるための水を入れる瓶・日用品)を取り出し、一同に問を発する。「これを浄瓶と言ってはいけない。とすれば、お前たち、これをなんと呼ぶか」と。首座(堂中の大衆第一座を占める人)がまず答えて言う「木切れとは呼べますまい」と。百丈は若き潙山霊祐に答えを促す。潙山はいきなり浄瓶を蹴飛ばしひっくり返して、そのまま堂外に出ていってしまう。百丈、笑って「さすがの第一座も潙山めにやられたな」と言った。(「無門関」)

それを「浄瓶である」、と言えば、コトバ本来の作用のためにたちまちそれは「本質」的に分節されて動きが取れなくなり、実在の根源的自由性が完全に見失われてしまう。この浄瓶を「浄瓶である」という「本質」で狭く分節してしまわずに、しかも浄瓶の実在性そのものを全体如実に表すには何と言ったらいいか。首座は「木切れとは呼べますまい」と答えて何とか分節を逃れようとするが、結局、分節意識の圏外に出ることはできない。潙山の浄瓶を蹴飛ばしてひっくり返すという行為は一見乱暴に思われかねないが、非合理な行為があってはじめて、肯定的、否定的、あらゆる存在分節を一挙に超出するということが起こる。まさに先の「大地山河、全部一挙に粉微塵にしてしまえ」、すなわち絶対的無分節的境位の現成である。

存在の実相を把握するためには、「本質」体系を壊し、まず絶対無分節の境位に立たなければならない。「無」とか「無心」とかいわれる境地。しかしこれだけでは禅の存在論、意識論の半分に過ぎない。その「無心」の境地をもって、「有心」の見ていた経験的世界を「無心」の目で見つめ直す必要がある。そうしてはじめて、存在の無「本質」的分節ということがわかってくる。絶対無分節が出来合いの「本質」に頼らず、無分節がそのまま全存在のエネルギーを挙げて自己分節し、経験的世界を構成していく姿、その全体こそが禅の見る存在の真相だ。

だがいくら無「本質」的といっても、それが存在の分節である限りはコトバを離れてしまうわけにはいかない。沈黙は「もの」を分節しないからである。だから、何とか言わなくてはならない。杖は「杖」という語の意味作用によってはじめて「杖」として分節される。但し、それを「本質」ぬきで、「本質」を喚起せずに、やれというのだ。禅的状況において使われたコトバが、時として著しく不自然な、歪曲されたもののような印象を与えるのはこのためである。なぜなら、常識的な言語状況においては、言語の意味作用はすなわち「本質」喚起作用にほかならないのだから。花を花として「本質」的に固定させずに、しかも花として分節することは普通の人にはほとんど不可能だ。この不可能なことを禅は厳として要求する。「このものをなんと呼ぶ。もし杖である、と言えば分節の網に引っかかる。杖でない、と言ってもやはり分節の網に引っかかる。である、とか、でない、とかいうことを離れてみたら、究極的にどうなるか」と。
一見不自然で不可能な、こんなコトバの使い方が、現実に禅者にできるとすれば、それはただ、「もの」をその名で呼んで分節しながら、同時にそれを絶対無分節者としても見る目が働いているからである。そしてこのようなコトバの使用法の上に、「無心」の形而上学ならぬ、形而下学が禅独特のダイナミックな存在論として成立する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?