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井筒俊彦『意識と本質』(11)

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅹ章のまとめはこちら

前章では、「元型」となる10個の「セフィーロート」について説明した。しかしこの10個の「セフィーロート」はそれぞれ独立して存在しているわけではない。緊密な相互連関を通じて、全体が構成する一つの有機的体系においてこそ、「セフィーロート」は初めて「セフィーロート」として機能する。
カッバーラーにとって「セフィーロート」の全体構造が、すなわち神の内的構造なのである。人間の主体的体験から見るなら、それは深層意識に映じた存在構造であると言える。
この神のあり方は『旧約聖書』の神とは大きく異なる。『旧約』のように人格的な神が始めから超越的に実在していて、その神が自らの創造的意志によって存在世界を無から作り出すのではない。カッバーラーの神もある意味では世界を無から創造するが、この無は唯一存在する神のまわりにまだ何もない、という意味での無ではなく、神そのものの内部の底にひそむ根源的無である。
神の内なるこの根源的無は、神がそこから神として顕現してくる神的実在性の究極的基底であり、神以前の非人格的リアリティーであって、この段階では神はまだ神ではない。根源的無それ自体の中に絶対無限定的に充溢する存在エネルギーが流出し、「セフィーロート」体系として自己限定的に展開した段階において、「セフィーロート」の全体構造そのもののうちに、初めて我々は人格的神の姿を見ることになるのだ。

存在エネルギーの充溢の極としての無を、カッバーラーは「エーン・ソーフ」と名付ける。「エーン・ソーフ」とは果てなし、終わりなし、限りなし、つまり、「無限」を意味する。絶対無としての無ではなく、限りなき有への展開に向かっての、無、である。絶対無分節的有。未展開の有。これが展開すれば、経験的世界が現われる前の段階の第一次的段階で、先ず「セフィーロート」の構造体が現われる。したがって、「エーン・ソーフ」は全「セフィーロート」の太源であり、全存在界の始点である。

以下10個の「セフィーロート」がどのような構造体を個性するか、主に4つのモデルを説明する。

モデル1
無限大の円の一番外側が第一「セフィーラー」(「王冠」)。そこから中に向かって次々に小さくなる同心円が九つの層をなして、最後に第十「セフィーラー」(「王国」)に達する。この図形は、「セフィーロート」の流出展開を、神的存在エネルギーの収縮という形で呈示する。いわば神の自己収斂の軌跡が「セフィーロート」構造体を構成していくのだ。
神が自ら身を縮める。そうしなければ、あまりにも充実しきった神的存在の中には何ら動きの生じる余地もないのだ。神々を縮めると、円の外周部にいくらかの隙間ができる。この「原初の空間」が成立してはじめて、「神の内なる神以外の何か」が存在する場所ができる。神のこの自己収斂が進んで、その過程の極限、すなわち円の中心点に達するとき、そこに第十「セフィーラー」(「王国」)が現れる。

モデル2
第二モデルは第一モデルの逆で、形式上はごく普通の流出論的ヴイジョンに基づく。第一モデルが収縮モデルであるのに反して、第二モデルは放散モデル。存在の始点「エーン・ソーフ」が無限大の円の中心に置かれ、それを存在エネルギー発出の始点として、それの自己展開が階層的に次々に「元型」的存在領域を構成していく。完成した形としては第一「セフィーラー」(「王冠」)を中心とし、第十「セフィーラー」(「王国」)を外周とする同心円の重なりである。外円の終端「王国」は、別名「シェキーナー」すなわち神の偏在。「王国」はそこに達するまでの神的エネルギーの転界の諸相をすべて内含することを意味すると同時に、「シェキーナー」(偏在)の名のもとに、一切万有に内在して働く神的実在の普遍性を「元型」的存在次元において呈示する。神は自己に内在する一切の存在可能性を十方に拡散させて「元型」的世界を創造し、そうすることによって自ら万物に内在する存在リアリティーとなるのである。

モデル3
モデル1,2は存在エネルギーの流出過程を段階的に示すだけであって、「セフィーロート」相互間の関係を示さない。真の意味で「セフィーロート」構造体を示すものは第三と第四のモデルである。
第三モデルは円周モデル。円の中心に第六「セフィーラー」(「美」)を置き、上部の頂点には発出点としての太源「王冠」を、下部の最低部には経験的世界に直結する「王国」を置く。円周の右側には慈愛、生命などのように存在の明るい側面を代表する「元型」、左側には峻厳、審判、威光など存在の暗い烈しい側面を代表する「元型」が並ぶ。中心の「美」は「神の心臓」に当たり、親和力の源泉であり、それの働きを通じてすべての「セフィーロート」が互いに調和協調し、一つの渾然たる統一体を形成する。

モデル4

第4モデル・セフィーロートの木

「セフィーロート」構造体としては最も完璧な、古典的な形。「セフィーロートの木」と呼ばれる。「セフィーロート」構造のマンダラ性はこの第四モデルに至って最も明確に現われる。第一から第三のモデルが円形を基本としていたのに対して、この第四モデルは三角形が基本になって構成されている。分解してみると全体が三個の三角形の組み合わせになっている。そしてこれらの存在エネルギーすべてを下から受け止め、統合する形で、第十「セフィーラー」が一番下に立つ。
最高位の第一の三角形は、「王冠」(Ⅰ)を頂点とし、「叡智」(Ⅱ)と「分別知」(Ⅲ)とを底辺とする。全体としては神の自意識の内実を表すが、三角形自体の内部に段階的展開がある。
「王冠」は「エーン・ソーフ」、すなわち有を内に含んだ無。そこから神的「叡智」が輝き出てくる。この境位において、神はもはや絶対無ではなく有であり、一者である。第二「セフィーラー」「叡智」は神の自意識の始まりであり、神的エネルギーの流出の最初の段階だが、まだ未分節のままの存在流出。次に分節が起り、第三「セフィーラー」「分別知」が現れる。
この最初の三角形の底辺の両端は男性・女性としても理解される(頂点の「王冠」は両性具有的)。「叡智」は男性的能動力で父、「分別知」は女性的受動力で母として形象化し、両者の性的結合「結婚」から第六「セフィーラー」(「美」)が生まれる。
第二の三角形は「美」(Ⅵ)を頂点とし、「慈悲」(Ⅳ)と「厳正」(Ⅴ)とを結ぶ線を底辺とする逆三角形。第一の三角形が、全体として叡知的であったのに対して、第二の三角形は神的存在の動的側面を表す。神は「慈悲」と「厳正」をもって存在世界を形成し、かつこれら二つの相反する態度で世界に働きかけるのである。この鋭い矛盾対立を、第六「セフィーラー」、「美」が調和的均衡にもたらすのである。
第三の三角形も逆三角形。「把持」(Ⅶ)と「栄光」(Ⅷ)とを結ぶ底辺が、上位の「美」(Ⅵ)のエネルギーを受けて新しい機動力に変じ、それが三角形の頂点、第九「セフィーラー」「根基」(Ⅸ)に流入する。全体は宇宙形成的機動力の三角形である。ここで上位の「セフィーロート」すべてのエネルギーが合流し融合して一体となり、その「根基」(Ⅸ)がそっくり流れ落ちて一番下の第十「セフィーラー」、「王国」に至る。
「王国」はこうして神的エネルギーの全部の受容者という資格において、経験的世界の存在「元型」となる。経験的世界の一切万有に、第十「セフィーラー」「王国」が内在するのは、まさにこのゆえであり、この側面において第十「セフィーラー」は神の「臨在(シェキーナー)」と呼ばれる。
第十「セフィーラー」「王国」は存在における女性的純粋受容性の「元型」である。だから、「カッバーラー」の「想像的(イマジナル)」空間では「王国」は娘という形で現れる。第六「セフィーラー」「美」が「叡知」を父とし、「分別知」を母としてその結婚から生まれる息子であったのに対して、「王国」は同じ結婚から生まれる娘。つまり「美」は兄で、「王国」は妹。しかも「セフィーロート」相互間のエネルギー流通の原理に従って、兄と妹は性的結合関係に入る。
兄弟結婚、これをカッバーラーではもっとお伽話的に、聖王と高貴な姫君の結婚としてイマージュ化する。第十「セフィーラー」はイスラエル宗教共同体の「元型」という資格も持っているので、この結婚は神とその選民、イスラエルとの結婚でもある。

以上、「セフィーロートの木」の内的成立を3つの基本的三角形の積み重ねとして分析したが、この「セフィーロート」体系の構造化には、もう一つ別の非常に重要な原理が同時に働いている。
この見地から見る場合、「セフィーロート」は三本の縦の柱に分けられる。すなわち右側の柱(Ⅱ―Ⅳ―Ⅶ)、左側の柱(Ⅲ―Ⅴ―Ⅷ)、そしてこの二つの柱の間に中央の柱(Ⅰ―Ⅵ―Ⅸ―Ⅹ)。右柱は明るくて理知的、男性的、左柱は暗くて情的、女性的。中柱が左右対立し反抗し合う諸力を調和させ、統一する。
神はその存在原点から、左右に対極的エネルギーを流出させ、そうすることによって神として自己顕現する。が、同時に、神は自己内奥から発出する二元的存在対極性を、いわば中庸の徳によって解消してしまう。中央の柱は、こういう意味での中和力の働きを表すのである。
この「セフィーロートの木」の構造を、宇宙的に巨大な人間の身体として「想像」することが、カッバーラーの伝統の中にある。神的エネルギーの凝集点を、身体的に位置づけようとするのだ。

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