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井筒俊彦『意識と本質』(12)

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→XI章のまとめはこちら

前章までは、「本質」肯定論の2つ目の類型、深層意識に生起する「元型(アーキタイプ)」イマージュに本質を見出す立場について語られた。
この最終章では、「本質」肯定論の3つ目の類型、表層意識において事物から普遍的「本質」を実在するものとして見る立場について語られる。

西洋の哲学史で代表的なのはプラトンのイデア論。経験的世界の事物を内在的に、超越的に規定する普遍的「本質」が「イデア」である。ソクラテスから続く系譜において、ひとつひとつの事物に「それが何であるか」を問い続け、その答えとして得られる「定義」によって不変不動の普遍者を理性的に定着しようとする、その探求はまさに「本質」の探求であると言える。しかしソクラテスからプラトン初期にかけて、その関心は主に人間の倫理的側面における「本質」に限られていた。例えば「勇気(男らしさ)とは何か」という問い。色々な勇敢さがあるが、それらの人が全て「勇敢な人」とよばれるからにはそれらを通じた普遍的性質が実在しているに違いない。すべての個々の場合を貫通して常に同一であるもの、「勇気」という言葉がそれを指し、プラトン的に言えばそれが「勇気」のイデアなのである。
しかし一つの言葉で表される様々な個物には共通のイデアがある、と考えると倫理的価値を超えて、日常のあらゆるものにそれぞれイデアがあるはずだとプラトンは考えた。机のイデア、ベッドのイデア、そして髪の毛、泥、垢、その他下品なものにもそれぞれイデアがあることを認めざるを得なくなり、この世の一切の感覚的事物に絶対的存在根拠を認める時、プラトンのイデア論は、まさに普遍的「本質」実在論にまで発展するのである。

東洋哲学で対応するものとして、まず孔子の「正名論」がある。
「正名」「名を正すこと」。「名」を「実」に向けて正しくすること。「実」にピタリと焦点を合わせた形にすべての人が「名」を使うような社会状況を作り出すこと。「実」とは孔子にとって個体の物ではなく、物の「本質」を意味する。
現実の世界に存在する一切の事物には、普遍的な「本質」があり、それがすべての「もの」をその「もの」たらしめている、と孔子は確信していた。「名」はこの意味での「実」に対して志向的に制定されたものだから、「名」と「実」の間には一対一の関係が一直線に結ばれているはずだ。しかし人間世界の現実においては「名」と「実」との間にずれがあり、「名」が正しく使用されないことは社会秩序の乱れを意味した。
例えば「王」という語は王の「本質」を真に体現している個物のみに使われなければならない。王の「本質」を体現していないような人物を「王」と呼ぶ時、「名」と「実」の関係が乱れる。孔子は現実の社会の中で己れの「正名」の理念と正反対の状況をそこに見た。王という「名」に値しない人物が、自らを王と称して憚らず、臣下の方でも平気でこれを王として仕えている。このように言葉が「本質」からずれ、「名」と「実」が一致していない状況は、家庭内でも個人の内面でも至るところで起きていると孔子は考えた。
父の「名」で呼ばれるものは父の「実」を体現するものでなければならない。この同じ人は、妻に対しては「本質」的に夫でなければならないし、以下、子、兄、弟などみな同じ。家族の成員の一人一人が、それぞれの己れの「名」を示す「本質」を具現する時、初めて家は正しく治まり、ひいてはそれが天下泰平の始源となる、と孔子は考えた。

この孔子に対して正面から対抗したのが荘子である。不変不動の「本質」を倫理主義的に組み上げ、存在世界をひとつの永遠的価値体系に作り上げてしまった孔子の世界像に対して、なんと不自由な世界か、と荘子は言う。善はどこまでも善、悪はどこまでの悪で身動きがとれない。正邪、善悪、美醜、その他一切の区別は相対的なものであり、人間生活の社会的歴史的に条件付けられた慣習に過ぎない。存在の真相は「渾沌(カオス)」であり、見せかけに過ぎない事物の区別を、あたかも永遠不変の「本質」に根拠付けられた絶対的なものと考えるなら、存在の真相である渾沌(カオス)、本来無分節的な存在リアリティーが傷ついてしまう、と荘子は孔子を批判する。
しかし、「本質」をめぐる孔子と荘子の鋭いこの対立は、「本質」をはさんで肯定的、否定的と分かれて同じ次元で対峙するわけではない。実は表層意識と深層意識の存在観の対峙なのだ。日常的意識に現れる存在風景と、非日常的に現れる存在風景がとが有「本質」、無「本質」という形で対立するのだ。荘子の「渾沌」とは、すべてが無のうちに消尽してしまう直前の境地。ここにおいては存在は一切の「本質」的区別を失って渾然たる無差別性を露呈する。
これに反して孔子の正名論は、表層意識で成立する立場。この次元の存在は言葉の意味指示に従って明瞭に区別され、それらのものの内部に「本質」を認識する。「本質」によって固定された「もの」の世界。孔子はそれらの「もの」に倫理的見地から正負の価値符号をつけて一つの価値体系を作り出すのだ。

もっと純粋に普遍的「本質」実在性を主張するものとして、インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派の思想がある。
我々が現実と疑わない経験的世界を心の生み出す幻影としてその実在性を否定し、普遍的「本質」を概念以外のなにものでもないとする大乗仏教に対抗して、ヴァイシェーシカは経験的世界を客観的に実在するものとしてとらえ、心の動きによって変わるものではないとする。そして個別者だけではなく、個別の「もの」を内面から支える「本質」、「普遍者」もまた外的に実在すると考える。
ヴァイシェーシカは、個々に違う「花」から「花」という抽象概念を取り出してくるのではない。まずXを花として認識する一段前の、より原初的な認識段階があると考え、これを「不定覚知」と呼ぶ。花を見ているのだけど、花を花としてみていない。「これ」と「あれ」の区別はされているが「花」という言葉が意識に浮かんでおらず、まだ「本質」の規定をうけていない不定的なXが現れているだけ。
「本質」規定は、認識の第二段階で初めて起こる。これを「限定知覚」と呼ぶ。「花」という言葉が意識に浮び、それがXと結びつくことによって、Xは花であるものとして現れる。この段階でXは「本質」的限定を受ける。
「本質」的限定を受けたXは、人の主観的体験としては個物ではあるけれども、構造的に普遍性にからみつかれた個物であり、純粋無雑な個物ではない。有「本質」的に「…」として意識されたXは、もうそれだけで普遍者化されているのだ。個体としての「花」の認識は、それに内在する普遍者「花」を通じてのみ可能なのである。
ヴァイシェーシカは普遍者を外界に実在するものとしてみる。すべての個体的花に内在して、それらを花であらしめる普遍者、花性が、そのまま外界に存在する、というのだ。外界、すなわち我々の日常的経験世界に内在して、そこで通常の知覚の対象となるものであるからには、それを認知する意識は当然、表層意識でなければならない。それは意識の深層領域に起る異常な存在体験において、時には狂気とほとんど紙一重のところで顕現するような「本質」ではない。いわばごく平凡な普遍者だ。平凡でないところは、それが概念的普遍者ではなく、外界に実在する普遍者である、とするところである。

東洋哲学においては、認識とは意識と存在との複雑で多層的なからみ合いである。そして、意識と存在のこのからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしてもその実在性を肯定するにせよ否定するにせよ、「本質」というものの実在性の問題に向き合わざるを得ないのである。

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