見出し画像

エヴァを何度も観るヲタク、100プペ目指すサロンメンバー。

シンエヴァがラストランを昨日から始め、動員数が先週比で9000%増だったそうだ。

公開から3ヶ月経っているのに東京の劇場などではチケットが予約できずに一部予約サイトがフリーズしたらしい。

入場者プレゼントに特製のブックレットの追加、一部カットの差し替えを行い、3月8日に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版3.0+1.0』から名前を新たに『シン・エヴァンゲリオン劇場版3.0+1.01 』と変えて最後の上映が始まった。

自分は今回、シンエヴァを3回既に観ている。

観に行くたびに新しい発見があり、そしてまた違った感動があり、キャラクターの行動や心情について考え感情移入し、4回目はもういいかなと思っていた最中、追加特典と新規カットが発表された。

これは…行くしかあるまい。

劇場ポスターも刷新され、始めは謎に包まれていた光景もいつの間にか主要キャラクターが勢揃いし、背景も真昼の海から夕方の太陽が沈みゆく浜辺へと変わった。

作品そのものがファンに向けて別れの時を告げているような、リアルタイムで終劇へ向かう新たな形として、文字通りのラストラン。

後輩はかれこれ10回ほどエヴァを観に行ったらしい。

友人は最終作であるエヴァを理解し、そして劇場で感動をしたいから30回は観に行くと去年から息巻き、そして公開延期のニュースを聞いては悲痛に暮れていた。

かくいう自分も、気に入った映画は何度も観たいタチだし、公開されるバージョンが違えばそれも観たいと思ってしまう。

思い返せば、『ララランド』はなんやかんや3回ほど観に行ってたし、『シンゴジラ』は今だって気が向いたら作業用BGMのように何度もタブレットで流している。

好きな映画は飽きないし、観るたびに、カットの度に、監督の意図が伺えるので面白い。

何度も観に行くことをステータスとして捉えるのではなく、何度も観に行くことで自分の中の理解度を深め、そして異なる角度で感動をする。

この前、『ヲタク』になりたいと思って配信サービスで見ることができるアニメを倍速で本数をこなすように見ている若者が記事にされていた。

これは違うのではないかと思っている。

歴戦の猛者であるヲタクの先達の風上にも及ばない自覚をしているけれど、自分も一端のヲタクであることだって自覚している。

むしろヲタクは気に入った作品を何度も何度も反芻している人種ではないのではないか?というのが自分の中の『ヲタク像』だ。

作品に対して愛憎とも呼べる感情を傾け、時には製作者よりも深い造詣を持つ化け物へと変態を遂げる。

それがヲタクではなかろうか。

まぁ、偉そうなことを書いているけど、結局は金を公式に落としている人間が一番偉いんです。

昔は「ワンピースを全巻持っている!」というオタクアピールがされていたけど、次で100巻を迎えるご長寿作品を追っているとなるとそれはもう立派なオタクではないか?とすら思ってしまう。

経済を回してくれてありがとう、人間。

さて、本題に入ろう。

昨年末に公開され、ファン、いや、「サロンメンバー」と書いた方がそういった方々は喜ぶのだろうか。

そんなサロンメンバーが何回観に行ったかを示す「プペ数」でマウントを取る光景を見せられた映画、『えんとつ町のプペル』

以前話をする機会があった絵本展をする予定の友人も、何プペかして、劇場で記念撮影をしていたのを彼のSNSで見た覚えがある。

そのまた別の友人も一度観た後、チケットを貰っているから友人を誘って観に行ったと聞いた覚えがする。

その話をしてくれた友人に対する勉強代として、自分も「1プペ」した。観ない限り文句も批判もつけられないから。

まぁ、作品の感想については以前書いているのでよかったらそれを読んでもらえると助かります。

作品そのものに愛や関心の有無があったことも影響するけれど、プペルは自分の中で2回目に行こうと思えた作品ではなかった。

先入観が影響したことや、説教じみた勧誘ビデオを観たことについての気持ち悪さが勝ったからだろうか。

あの映画で感動したポイントは、自分がそんな風な感情を抱いたのに、上映中、目の前の男性は頷きながら涙を流し、後ろの男女二人組は上映終了後に「やっぱりよかったですね!それでは次の回を観にいきましょう!」と話していたところだ。

何をどう捉えたらあの作品を複数回観に行くポイントがあるんだ?どこに感動するポイントがあったんだ?自分が間違っているのか?

そんなセルフ疑心暗鬼に入る瞬間、高校の頃に友達と興味本位で観に行った某宗教団体の映画が終わった時に、信者と思われる方から感想を聞かれた日のことを思い出した。

あの人たちは何かしらのメッセージを受け取るために、啓蒙のために観ているのかもしれないと、今になって考えられた。

あの信者、あぁ、『サロンメンバー』たちもあの映画から何かしらのありがたいお題目を求め、自分が持つ夢を肯定されるために観に行ったのかもしれないと考えるとそれはそれで納得がいく。

じゃあ、エヴァを何度も観に行く人間と何が違うのか?

入場者プレゼントを目当てに何度も劇場に足を運ぶガンダムのファンは?

上映終了後にある舞台挨拶を目当てに行くるろうに剣心のファンは?

鬼滅の映画を「○回乗車した!」とテレビで言っていたファンんは?

エンドゲームを公開初日に観に行って、違うバージョンを観に行った自分は?

ガルパンを何度も何度も観に行って話題になったガルパンおじさんは?

セリフが言われるタイミングまでぴったりに脚本をそらんじる畏敬を超えて気持ち悪さが勝ってしまう友人は?

何が違うんだ?

少なくとも、自分は映画を観に行った回数を競った覚えがないし、義務感に苛まれて映画を複数回観たことはない。

作品の布教をすることはあっても、80セットも脚本付きチケットを仕入れて売り捌こうとしたことはないし、そもそもそんなマルチ商法まがいの方法を選ぶことはない。

やるとしてもチケット代を出すからよかったら観に行かないかと誘うくらいだ。

限定的で閉鎖的なコミュニティの中で、ファンに鑑賞回数を競わせられた覚えもない。

観たいから観ている。ただそれだけの話であり、きっとそれは100プペした人だって同じことなのだろう。

作品における信仰と、製作者における信仰、そして、その作品に触れている自分自身の思索。

今の自分では、この奇妙な感覚が言語化することができなかった。

分断を図る気もないし、対立構造を作りたいわけでもない。

それでも、あの映画を複数回観ていることで優越感を持っている人間と、観たいから観て、そして新たな情報が欲しいから見に行っている人間を一緒にされることに違和感があったので書いてみた。

もちろん商業的な意見や批判はあるだろう。

それなら最初から今回新しく配るはずだった冊子も公開日から配布すればよかったじゃないか!とかの意見はあるだろう。

週ごとに入場者プレゼントを変えることで集客を図る方法だって度々懐疑的な目で見られていることだって知っている。

正直フィルムをランダムに配布する入場者プレゼントはどうかと思っている。それなら最初から有名な場面を配布すれば…と思ったけど、逆にコアでマニアックなシーンのフィルムを欲しがるのがヲタクなんだよなぁ〜と痛感している。

その点で言えば、大したプレゼントもせずにリーダー?教祖?と同じ時間に映画を観ることができることだけで満足をして、複数回チケットを買う流れを作ることができた経営手腕には毎度脱帽する。

リアルタイムで感動を共有する瞬間が希少とされる現代だからこそ使われるモデルであり、システムなのだろう。

『アヴェンジャーズ:エンドゲーム』の公開日のクライマックスの劇場内で、近くにいた外国人が歓声をあげた瞬間の高揚感もそんな感じのものなのだろう。

ウォルトディズニーが存命の時に、彼と同じタイミングで映画を観られる権利を売れば売れただろうか?

ビジネスモデルとしては本当に面白い方だ。やり方がアコギに感じてしまって個人的な好感度がないだけ。それだけ。

とりあえず、入場者特典があるうちに最後のエヴァを観てきます。

これで4エヴァですね。

もう一回観たいと思わせられる作品を作れなくとも、次も読みたいと思わせられるようなnoteを書けるように頑張りたいところ。

明日もよければ読んでください。

ではまた明日。


この記事が参加している募集

スキしてみて

映画館の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?