納得できない人生の歩み方
健康的でいられるのは、なにより憧れるのだけれど、「痛み」を手放したとき、これほどまで、人生が退屈でつまらないものになるとは思わなかった。だからこそ、きっといまも、心地のよい「痛み」を求めているんだろうし、健康的に生きられないのは、おそらく、そこからくるのだろうと、おもっている。
なぜだか、じぶんが生きてることに、気持ち悪さがあり、逆に、その気持ちわるさがあることが、「生きているんだな」っていう、安心感につながったりする。
例えば、本来なら人からされたくない行為、「なんでするんだろう?」と思うようなことをされると、傷がつくときがある。でも、それによって、虚しさをうちけし、孤独感をわすれようとするところが、じぶんにはある。
ひとって不思議ですよね。「なんでこんなことするの?」って思うことでも、平気でやれちゃったりするから。壊れてしまったら、壊れちゃったでいいかなって思うぐらいだし、「こういう人じゃないと仲良くなれない」みたいな制約もなければ、友達と、そうでない人との境界線も知らずに生きてるから、きっと深く傷つくこともないんだとおもう。でも、全く気にしてないかといわれると、そうじゃないんよね。なにかしら心に残り続けてるものはあるんよ。
傷つかない人って、ほんと羨ましいなっていつも思う。癒えない傷をもって、生きなければならないのは、あまりにも地獄だし、ぬぐえない思いとか、重苦しい痛みとか、それらすべてなくなっちゃえばいいのになって思う。けど、それらすべてがなくなってしまったら、自分にはなにも残らない気がした。打たれ弱いからこそ、強く生きたいと思えるし、もっていないものがあるからこそ、価値をかんじられるんだ。胸が張り裂けるような悲しみも、底のない絶望感だって知ってる。一回、ダメになった人のほうが、痛みをよく味わってるから、人に優しくなれるのだと思う。
あるものがあって、ないものがないのは仕方がない。できないことだってあると思う。けど、できないことをできないことだと認識し、諦めることができて、はじめて自信がつくのかなって思った。自信とは、自分を信じてあげられるようになること。そんな自分をずっしりと受けとめられる体勢をつくることなんだ。なにもできないことに、もどかしさを感じるときもあるでしょう。でも、自分のことを自分自身が、受けとめられるようになると、こんな自分でも許してあげようと、いまよりもちょっと、やさしくなれると思うのです。
ダメになってしまったなら、ダメなままで、生きていくしかないかもしれない。でも、漕ぎずらいポンコツ自転車でも、慣れてくると、まえに進むことができる。立ち止まっていちど、じっくり考えてみてもいい。だけど、答えなんてそうそうに見つかるものじゃない。やれることを、やっていくしかないんだよな。たとえ、そこに希望がなかったとしても。
いつかさ、あなたにとって、
納得のいく答えが見つかるといいよね。
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