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"無心でいられることが唯一の救いであることに気づいた"

久しぶりにnoteと向き合います。

研究者になりたいと思ったのも、「やりたいこと」があるからではなくて、ひとに合わせたり、いっしょに何かをすることが苦手だった幼少期を過ごしたからこそ、人とあまり関わらなくても良しとされる生き方に、つよい憧れがあったんだろうなと思います。

どんなに就職活動をしていても”働きたい会社”が見つからないのは、根本的に”会社勤め”したくないからだと思う。「働きなくない」とは種類が違くて、どこで働くかを自分は重要視しているので、会社に入ってはたらく道以外にも無数に「選択肢」は存在しているので、そのなかで自分に合った生き方をみつけていけばいいんじゃないかなって思います。ましてや専門領域がコンピュータを得意とする分野なので、実力があれば個人で稼ぐことも全然できるし、強みを伸ばすことも可能なので、そういった生き方には、本当に憧れます。

できるなら人とも会いたくないし、関わりたくないので、ひとりぼっちで孤独になりながらも、「すきなこと」やって生きていきたいなって思いは、今も昔も変わっていません。

幼少期のころから、生きづらさ的なものがあり、自分と向き合っていくなかで、将来についてずっと考えていたんですね。「どういった生き方をしようかな」「どうしたらもっと(精神的に)気楽に生きられるかな」ってね。研究って、仮説を立てて検証するみたいな、試行錯誤をするプロセスがあるんですけど、それが個人的に好きではあって、数学の証明とかも、複数のパターンを想像して、「これはどうだろうか?」「いや、こっちの方がいいんじゃないかな」と、ひとつひとつの仮説を検証していくと思うんです。そんな数学が大好きだったから、「数学者」を目指していたんですけど、気づいたら、想像していたのとは違った世界に身を置いていました。人生なにが起こるか本当にわからないものですね。

でも、幼少期に抱いた「学者になりたい」といった夢は消えずに生き続けているし、むしろ近づいているので、間違いなく良い方向性には進んでいるのだろうと、いまは確信に変わっています。結果的に、夢が叶わなくても、「やりきった」と言い切れる領域に自分を持っていくことが今の最大の目標です。

よく「飯を喰うために働け」と言われ育ってきたのですが、飯を喰うために働くというマインドがそもそも貧しいなと思っていて、仕事において、嫌なことをして対価を得るという側面はあっても、そんなクソつまんねぇ生き方だけは絶対にしたくないなって思ってました。そんな思考を変えてくれたのは「働きなくない」と愚痴りながら働くサラリーマンとはなしたのがキッカケです。でも、働くことってたぶんそう単純なものではなくて、”金を稼ぐ”という目的はあれど、仕事って自分と向き合うためにある贅沢なものだと、ぼくは思っているんですね。

みんなそれぞれ価値観は違うし、生き方もばらばらで、「この人が言うことは絶対に正しい」と思えることも、あとから振り返ってみたら、「全然大したことなかったな」と思うことは多々あります。相手に生き方を強要する必要なんかないし、自分が信じたい道を突き進むことが「正解」なように感じます。と、あまり自分らしくないですが、人生論について語ってみました。

noteを書いてると、自分のことを客観視することができ、"本当の気持ち"に正直に向き合える気がします。「内省できるものを一つ持つといい」と青木真也さんが言っていましたが、僕にとって、noteがそれに当たるのかなと思いました。

誰かのために書いてると思うから、見返りがなくて苦しくなるのであって、自分と向き合うために、文章が書ければ、人に対する見方も、言葉遣いも、発信のカタチもちょっとずつ変わっていくんだろうなと思います。

1年前まで、フォロワー数や「いいね」数で、他人と競い合ってきた人間として、その努力は無駄であったと思わないけれど、ときに人を傷つけ、そして自分も傷つき(決して、他人を傷つけるつもりがあったわけではないが、)なにをしたいのか分からない日々がよく続いた。

ちょうどこの記事を書いたのを機に、「もう一度やり直してみよう」と思った。そこから半年かけて、ようやく自分が求めるスタイルにありつけた。周りの人から「こうした方がいいよ」と親切にアドバイスをもらうことがあったから、頑張れた部分は大きいけれど、逆に、毎日苦しんでいる自分もいた。

「人の役に立ちたい」と熱心にアピールする人が多いけど、自分にはその気がさらさらなかった。むしろ、自分と向き合うために、noteと向き合っている。なにかに悩んだ時ほど、じぶんはnoteを開く。”文章を書くこと”で無心になれて、「何も考えなくていい」と思える経験は初めてだったかもしれない。そして気づいた、「あぁ、これが20年以上、探し求めていたもの(価値)なんだな」って。

自分のためとは言っても、誰もが見れるオープンな場所に公開している以上、間違いなく"承認欲求"は人一倍あるはずです。そして、周りがどう見ているのかとか、曝け出している自分を知られることへの恥ずかしさみたいなものが、他の人よりも、たぶん薄いんだと思う。もちろん全くないわけではないけど、結局「気にしない」かどうかだけのように感じます。メンタルが強いかどうかではなくて、「気にするか気にしないか」ただそれだけなのかもしれないですね。

これからも引き続き、「内省できるもの」の一つとして、noteで書くことを通じて、自分と向き合っていこうと思います。誰かのためにではなく、まず自分のために文章を書いてみるのもいいかもしれないですね。そうして成るべき姿が、いずれ見つかるのだと信じています。

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