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【料理エッセイ】上野でデ・キリコ展を見て、辛いというか痛いで有名なデリーのカシミールカレーを食べてきた

 上野でデ・キリコ展をやっている。大学時代、シュールレアリスム(文学が中心だけど)の勉強をしていたので、見に行かなくちゃと前々から思ってはいた。でも、なんだかんだ忙しかって、5月も終わりを迎えてしまった。

 開幕から時間が経つとタイミングを逃してしまった感じがあって、少しモチベーションが下がってしまう。みんな、もう感動を味わっているわけで、いまからわたしが行ったところでなんになるのだろうと卑屈な考えも湧いてくる。

 ただ、そうは言っても10年ぶりの大規模回顧展だし、日本の経済力が衰退していくとしたら、次回がいつになるかわからないわけだし、重い腰を上げて、どうにかこうにか鑑賞してきた。

 当たり前だけど、行ってよかった。

 特に今回はキリコの「形而上絵画」(命名はアポリネール)と呼ばれるジャンルに焦点を当てていて、一般に知られているシュールレアリスムとは異なる角度から光を当てていたので面白かった。

 この「形而上絵画」はかなり独特で、キリコが若い頃に読んだニーチェやショウペンハウアーの影響を受けて作り出した表現手法で、例えば、人物をマネキンとして描いたり、哲学的な主題をモチーフにしたり、古典を引用したりしている。文学で言えば、モダニズムに似ている。

 なんでも、アンドレ・ブルトンはこの「形而上絵画」に現代の神話を感じ、そう紹介する形でキリコをシュールレアリスムの流れに取り込んでいったとか。

 キリコ自身はブルトンのやり方に抵抗感を示したという。当時、流行となっていたシュールレアリスムの文脈に載せられることで、自分の作品が商品扱いされるのではないかと憤ったようだ。

 実際、ブルトンはそうやってシュールレアリスムの絵画を高値で売買したり、レーモン・ルーセルの演劇をわざと絶賛することで事件化したり、話題作りに余念がなかった。いまで言うインフルエンサーみたいなものだから、芸術に対して真面目なキリコが反発を覚えるのも無理はない。

 ただ、ブルトンによるキリコのシュールレアリスム解釈は魅力的。具体的にはその「夢」っぽい雰囲気に注目していて、時代の無意識が反映されていると指摘している。特に『子どもの脳』という作品にフロイト流の精神分析を施しているが、父親(旧世代の権力)を否定したというオイディプス・コンプレックスを読み解く点は至極納得。面白い。

 おそらく、この鮮やかな解説によって、キリコのイメージは固定してしまった。現にわたしもキリコをシュールレアリスムのアーティストとして認識していた。

 日本で最もよく知られているキリコの作品は『通りの神秘と憂愁』だと思うけど、これを見てシュールレアリスムを感じない人がいるだろうか? 

 遠近法の狂った寂しげな景色。車輪で遊ぶ女の子。向こうから伸びる怪しげな影。これぞ、まさに超現実って感じだよね!

 ところが、今回の展示に並んでいるのはシュールレアリスムと色合いの異なる作品ばかりで、そうか、わたしが知っているキリコはその膨大な世界観の一部でしかなったのだと思い知らされた。

 まず、最初に飾られている自画像の変遷から価値観を揺さぶられた。演劇の衣装デザインに凝っていた時期があることも、イリアス・オデュッセイアを元ネタにした彫像をいくつも制作していることも、本の挿絵を相当担当していることも、個人的にはビックリだった。そんなに色々な仕事をしていなんて!

 ちなみにわたしは学生の頃、シュールレアリスムと仕事の関係に興味があってけっこう調べた。結局、時間が足りなくて、ブルトンの金銭事情が中心だったけれど、派手な活動とは裏腹に日銭も地道に稼いでいたとわかり、めちゃくちゃ共感を覚えたものだ。

 一応、『シュールレアリスム宣言』を読むと労働を否定しているので、ブルトンは仕事を拒否しているように思えるが、ここでいう労働とはマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにした道徳を伴う労働のことである。

 生きていくために働かなくてはいけないのは当然だけど、生きていけるのに働くなんておかしいだろ、って話なのだ。「働かざるもの食うべからず」にノーを突きつけている。

 仮に、必要最低限の暮らしをするのに年間120万円必要ならば、その人は月に10万円分の仕事をするだけでいいはずなのに、なぜか、我々は真っ当な社会人であろうとするため、長時間労働に勤しんでしまっている。それは労働が道徳的な価値を伴っているからで、これさえ無視してしまえば、人間は労働から自由になれるとブルトンは考えた。

 だから、月に10万分の仕事をすればいい人は空いた時間で、自分のやりたい仕事をすればいいのである。決して、怠けることを推奨しているわけではない。

 それこそ、小説を書きたい人は空いた時間を小説執筆に全振りすればいい。歌手になりたい人は音楽活動に全フリすればいい。絵師になりたい人はイラスト作業に全フリすればいい。食い扶持を確保しながら、やりたいことをやればいいのだ。

 そうすれば、書きたくないものを書かなくていいし、歌いたくないものを歌わなくていいし、描きたくないものを描かなくてよくなる。プロになり、それ一本で食っていこうと囚われているから、みんな、やりたいことができなくなっているのである。

 もちろん、いい年をして、バイトしながら役者をやっていると言ったら、まわりからバカにはされるだろう。でも、それは労働に道徳的価値があると信じられているからで、この前提がなくなれば、見え方は簡単に一変してしまう。

 従って、シュールレアリスムとはこの労働中心社会で自由を取り戻すための活動であり、やりたいことをやりたいようにやる生き方が求める闘争なのだ。(暴論)

 そういう意味で、好きなことを好きにやっていたキリコは一周まわってシュールレアリストだったように思われてくる。その枠組みすら窮屈と感じ、自由を求めて飛び出してしまったことも含めて。

 約80点の展示作品を堪能し、ギフトショップで図録を購入。ホクホク気分で東京都美術館を出てみれば、ちょうどお腹が空いてきた。

 さて、なにを食べようか。考えながら、とりあえず上野公園をテクテク歩き、不忍池の方へと降りた。やたら"くさくさ"している景色に雨の匂いを感じた。

 傘を持っていなかったので、早々に、お店へ入って帰宅する必要があった。なにかないかなぁ。とりあえず彷徨っていると目の前にデリーがあった。

 いつも行列ができている人気のカレー屋さんだけど、ランチタイムを少し過ぎていたので、幸運にもすぐ席を案内してもらえた。

 ここは辛いというより痛いカシミールカレーが有名。後で大変なことになるんだよなぁ。心配が頭をよぎる。とはいえ、わかっちゃいるけどやめられない。わたしの中の植木等がしゃしゃり出てきて、気づけば、それを注文していた。

  

 久々に食べたけど、やはり一口目から刺すように辛かった。でも、尋常ではなく美味しいから困ってしまう。ヒーヒー声を漏らしつつ、次から次へと食べ進めた。

 どうにか完食。汗をダラダラかき、顔の穴という穴から液体が流れ出てきて、瞬間的に風邪をひいたみたいになってしまった。ガチの激辛を食べると悪寒が走るものである。

 いやはや。早速、後悔の念に苛まれていたところ、新たに客としてやってきたお兄さんが隣で、

「カシミールカレーのホット」

 と、慣れた様子でオーダーしていた。

 メニューには載っていなかったけれど、たぶん、裏メニューで辛さを増しているのだろう。まさか、これより上があったなんて……。

 空いているのをいいことに、わたしは水を何杯もお代わりしながら、お兄さんのカシミールカレーのホットがやってくるのを密かに待った。

 数分後。卓上に置かれたそれは血のように赤い色をしていて、ファーストインプレッションで戦意喪失ものだった。

 なのに、平然と食べ始められるお兄さんを見て、わたしはその日一番の超現実を感じた。こんな代物を胃に収めれるなとは。あんた、最強に自由だよ!




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