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【読書コラム】お前が始めた物語だろ - 『射精責任』ガブリエル・ブレア (著),村井理子 (訳)

 本屋に行ったら、強烈な一冊が目に飛び込んできた。

 赤地に黒文字で『射精責任』である。まじまじと眺めるのが躊躇される反面、一度見たら忘れられないインパクトがあった。

 そのときは手元に取ることをしなかった。なんなら、表紙を見たのだって正味の話、一秒か二秒。下手したら、もっと短い可能性もあった。

 しかし、数日に渡って、『射精責任』というありそうでなかったフレーズはわたしの頭の中をぐるぐると駆け巡り、結局、Amazonで電子書籍を購入していた。

 そもそも、どういう本なのだろうと知らずにページをめくってみれば、2022年のアメリカで巻き起こった中絶禁止を巡る実に真面目な提言であり、一気に最後まで読み進めてしまった。

 ニュースで繰り返し報道されているので、ご存知かもしれないが、昨年、アメリカのいくつかの州で五十年ぶりに中絶が法律で禁止された。アメリカ最高裁判所が憲法上の中絶の保障を否定したことに起因し、保守派の判事を意図的に登用したドナルド・トランプの最大にして最後の「功績」と言われていたりもする。

 端的に狂っている。ディストピアもいいところ。

 だが、これは現実であり、長い時間をかけて少しずつでも前進していたはずの女性の権利は見るも無残に打ち砕かれ、すべてがリセット。振り出しに戻ってしまった。

 そのとき、ガブリエル・ブレアは改めて、根本的なことを問い直した。望まない妊娠は罪なのか? 中絶の禁止はその罪を贖うための罰なのか? セックスを楽しんだ以上、そのリスクをないことにはできないと本気で言っているのか? もし、そうなら、射精した側の責任こそ問われるべきじゃないのか?

 出産するのは女性である。妊娠するのも女性である。そのため、どちらの場合も主語は常に女性であった。結果、女性にしか責任がないかのように考えられ、法律もそのように形作られてきた。

 例えば、望まない妊娠をした女性がこっそり出産、新生児を殺害してしまう事件は日本でも多発しているけれど、逮捕されるのはいつだって女性。最近はSNSを通して、父親である男性に対する批判が可視化されるも、法的に裁かれるのはいつだって女性だけなのだ。

 これはどう考えてもおかしい。だって、卵子だけでは妊娠できないのだから。もっと言えば、精子が卵子の中に入ってこなければ、受精卵が生じることはない。その現象を論理的に紐解いたとき、射精こそすべてのはじまりなのはあまりにも明白! あらゆる妊娠は男性が始めた物語なのである。

 この当たり前な事実がないことにされている現状をガブリエル・ブレアは嘆き、真っ正面から我々に問いかける。実際、わたし自身、妊娠・出産の主体が男性であるなんて考えたことがなかったので、『射精責任』という言葉はコペルニクス的転回であり、コロンブスのたまごでもあった。

 ところで、表紙の存在がこれほどまで、看板となり、宣伝効果を発揮した例をわたしは知らない。たしかに、『射精責任』とデカデカ印刷された紙の本を買うのは恥ずかしい。でも、誰もが視線を奪われずにはいられないパワーワードと考え尽くされたデザインは秀逸も秀逸。絶対に忘れられないだろう。

 そのため、読了し、ここに書かれている内容の革新性を確信した後、わたしは本屋で『射精責任』の紙バージョンも購入した。もちろん、中身は電子版と一緒である。

 なぜ、そんなお金の無駄とも思えることをしたのか。理由は簡単。通勤のとき、電車の中でこれみよがしに『射精責任』を読んでやろうと思ったのだ。あえて、カバーをかけることなく。

 山手線を乗り降りする老若男女の脳内にサブリミナル的が如き方法で『射精責任』をインストール。そのうちの何割かでも本書を読んでくれたとしたら、世の中、変わるかもしれない。

 ささやかながら、毎朝、毎晩、この本を武器に社会と戦っているのだ。


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