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今、我が故郷に思う事

ひょんな事から実家に帰ってきて一年が経った。

大阪府茨木市、大阪市と京都市の中間に位置し、大阪梅田には約20分、京都河原町へは約30分で着く事ができる。総人口は29万人弱、市の北部は田山が広がり、南部は鉄道が通り住宅が広がる。この南部の住宅地で私は生まれ、そして育った。

地元へ帰ってきたと言っても、一人暮らししていた上新庄という土地は片足だけ大阪市に突っ込んだような大阪市に端っこで、各駅停車でなければ茨木市へは電車で10分とかからない所の為、大した話ではないのだが、それでも住んでいるのとただ近いのでは見える景色が大きく違う。

私はもうすぐ34歳になる。この歳で見る茨木は、街が重ねた年月によるものもあるだろうが、それでも古めかしさが際立って見える。幼少期によく玩具を買ったりガチャポンをしに行ったジャスコはいつの間にかイオンに名を変え、JR側にある別のイオンモールに地位を奪われた。その影響か旧ジャスコ周辺、所謂阪急側は寂れてしまった。かつてあった家電量販店、テレビゲーム機専門店、マクドナルドがなくなり、シャッターが閉まったままだったり変に更地が多くなったりして見た目にもスカスカになってしまった。

この一年、実は同級生を一人も見かけていない。おそらくより栄えた街へ出てしまったり嫁いだりで多くの者が流出し、取り残されたのが私の親の世代だ。私の両親も例外ではない。その人口層に合わせてか、阪急側はコンビニよりも整骨院が多いなんて具合である。

ジャスコがあった周辺から駅を挟み反対側には、現存できている事が奇跡にも思える商店街がある。確かに、今も残る弁当屋の惣菜屋、パン屋の惣菜パンは美味いが、特記できる部分が本当にそこくらいしかない。古くからこの街に住む市民の愛でなんとか保っているのだろう。

この街も、私が子供の頃にはこんなに高年齢層と古い街並みがノスタルジックに佇む街ではなく、子供の方が多く、どちらかと言えば子育ての街だったと思う。私の入った小学校は、私が入学した時点で全生徒数が1100人を超えるマンモス校だった。玩具店やケーキも多く、駅前のマクドナルドも親子連れや学生達で栄えていた。人の話し声がもっと幼くキャッキャとキラキラしていた。街も万博の頃の活気を忘れておらず、まだまだ成長の余地を感じさせる若芽の様な凛々しさがあった。それも今や夢の跡で、取り壊される事なくただただ雨風に晒されて錆びている建物が点々としていたり、歩道脇のツツジは手入れもされずに生い茂って、その隙間からは草が剃り残しの髭みたいにあちらこちらから葉の先を出している。市役所前の噴水の水は、記憶が正しければリーマンショックの時から止まったままだ。

物を捨てられない母の住む実家は、色々な物が雑多に置かれてゴチャゴチャとしている。手入れされていない歩道のツツジを連想させた。私は両親にはこの街に留まって欲しくはない。街と共に止まってしまった様に見えるからだ。このままこの街に残れば、おそらく二人は街と共に変わることなく死んで行くだろう。私自身にもその懸念がある。このまま残ればこの街の気だるさに飲み込まれてしまうだろう。悔しくもあるが、昔の姿を失ったこの街に大した未練ももうないのだ。

両親はもう、自らの力でこの街を出て行く力や強い意志はないだろう。ならばまず私が外へ出て引きづり出すしかない。この街と共に気だるく生きて留まっている父と母に、また未来への希望や展望を見出させるには、この街の外に目を向けさせるしかない。

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