P.N:明星一号/note title:薄明光線

1988年昭和最後の生まれ。大阪・北摂出身。自称エッセイスト。R2.11.27より、毎…

P.N:明星一号/note title:薄明光線

1988年昭和最後の生まれ。大阪・北摂出身。自称エッセイスト。R2.11.27より、毎週金曜の23:00頃に小読み物を連載しております。フィクション、ノンフィクション混合。大阪の某音楽専門校のギター専攻卒。ご用事ございましたらTwitterの方にお願いします。

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後部座席の優しい宇宙

確か6歳だか7歳の頃の日曜日、父と母と3つ下の妹と、揃って車で大型ショッピングモールへ買い物に出かけた。ファミレスでは、父がどれでも好きな物を頼んでいいと言うものだから、少し照れる気持ちもありながらステーキを注文し、口いっぱいに頬張った。腹いっぱいになって、はしゃぎ疲れて帰る家路。 車の後部座席で妹と並んで横になり、エンジンの振動に揺られ、まどろみながら聴くカーステレオ。そこから流れるスピッツの「ロビンソン」が好きだった。 "誰も触われない 二人だけの国 君の手を離さぬよう

    • 今、何気ない日々が幸せだ。

      思えば半年以上、ここに何も書く事ができずにいる。何かを記しておきたい気持ちはありながらも、何も綴るものがないのである。 最近は日々に満足している。大型二輪の免許を取り、比較的安価なものではあるがバイクも買った。最近は雨でない限りはほぼ毎日、仕事後のわずかな時間であってもバイクに乗り、大阪市の海側を走ったりしている。港を出入りするトラックドライバーをターゲットとしているような、駐車場が大きなコンビニで缶コーヒー片手に休憩して和んだり、帰ったらカロリーオフの缶ビールを開け、毎日

      • 週一投稿を終了致します。

        皆様、いつもお読み頂きありがとうございます。 タイトルにあります通り、3年前の11月より継続しておりましたnoteへの週一投稿をこの節目に終了し、不定期投稿に戻す決心を致しました。 最近は書く事を楽しむよりも、期日を守って投稿する事に注力してしまい、書く事そのものが億劫になっている状況でした。毎投稿いいねを下さる方もいらっしゃり、そんな皆様の期待にお応えしたいと思っている中で、皆様により良い物をお店する為には、自身が執筆を楽しむ気持ちを取り戻す事が最優先だと感じ、この決断

        • 動けぬならば思考を旅へ。

          今の仕事は通しシフトの日の勤務が12時間にも及ぶ。休憩時間も入れると14時間拘束になるコールセンターの業務なのだが、大変暇な日もあり、酷い時だと一度も電話が鳴らず椅子に座り続けるだけでその日を終える事もある。「この椅子が国際線の座席ならば、ニューヨークくらいなら余裕で着いてしまっているな。」なんて考えてしまう。 丁度10年前の秋、アメリカを旅行した事があった。3週間にも及ぶ旅行の最終日に、かなり安いコースではあったが、ハドソン川を周遊するディナークルーズを予約し、自由の女神

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        後部座席の優しい宇宙

          嫌いなものが多過ぎる②

          私の特に嫌いなもの、“雨天”。 “雨”ではなく、“雨天”である。雨天に付随する嫌な事象を挙げる。交通の混雑。電車の遅延の可能性が上がる。衣服が濡れる。傘やタオルなどの余計な荷物が増える。結局降らなければ準備が無駄になる。屋外のイベントが中止になる。気分が落ちる。気圧変化による体調不良。湿度によるジメジメとした不快感。水害。挙げても挙げてもキリがない。多過ぎる。私は大阪在住の為、飲み水は琵琶湖の水だろう。琵琶湖の上だけ降ってて欲しい。 ある朝、自転車通勤のところをバスに変更

          嫌いなものが多過ぎる②

          やり残したセーブデータ。

          先日、久しく会っていなかった友人から連絡があった。 夜中に突然、Twitterにダイレクトメッセージが届いていて驚いた。僕が悪いのだが、彼女とは僕から連絡を絶っていた。厳密にはどちらから連絡を絶ったのかは判断が難しいところなのだが、まあトドメを刺したのは僕の方だった。Twitterでは本名を明かしていないので、どう見つけ出したのかは驚いたが、よくよく考えれば私のハンドルネームは散々ゲームでも使い回らされたものだったので、昔から僕を知る彼女からしたら本名を晒しているのとそう差

          やり残したセーブデータ。

          今日も気を遣って生きている。

          健康や体型に気を遣って、食べたい物を我慢し、起床時間は仕事に決められ、勤務中にやむなく発生する暇の過ごし方も他人に決められる。果たしてこれは生きていると言えるのだろうか。 こうして書き連ねると、自分の人生には自分の意志がほぼほぼ反映されていないように思える。 自分以外の全ての他人の顔色を伺い、他人の言葉に気を張り、自分の言葉の扱いに気をつけて、気を遣って気を遣って生きていくのに疲れてしまう。 気遣い甲斐が無いくらいに他人は平気でこちらの意図を裏切ってくる。 生きづらい。

          今日も気を遣って生きている。

          今、我が故郷に思う事

          ひょんな事から実家に帰ってきて一年が経った。 大阪府茨木市、大阪市と京都市の中間に位置し、大阪梅田には約20分、京都河原町へは約30分で着く事ができる。総人口は29万人弱、市の北部は田山が広がり、南部は鉄道が通り住宅が広がる。この南部の住宅地で私は生まれ、そして育った。 地元へ帰ってきたと言っても、一人暮らししていた上新庄という土地は片足だけ大阪市に突っ込んだような大阪市に端っこで、各駅停車でなければ茨木市へは電車で10分とかからない所の為、大した話ではないのだが、それで

          今、我が故郷に思う事

          嫌いなものが多過ぎる①

          私はよく“大人になりたくなかった”だとか、“生きづらい”などと口走るが、よくよく考えると子供の頃から生きづらさを感じており、過去現在、後にも先にも逃げ場があった試しがなかった。そんな事を思い出したのは、出先で見かけた小学校の校庭での運動会の練習風景だ。数秒間隔で教師が口に咥えた笛を鳴らし、その音に合わせて生徒が順番に駆け出し、その生徒達がグラウンドに大きな輪を作っていた。たまに教師が鋭い目付きで生徒に命令口調で大声を出していた。私は教師に対し「何様だコイツ。」と思った。この日

          嫌いなものが多過ぎる①

          【映画 感想】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」

          此の所の休日は、宛てもなく散歩に出かけて要らぬ出費をするのも癪なので、自宅でビデオオンデマンドを楽しんでいる。 この日はトップ画面に表示されたという気まぐれな理由だけで「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」を観た。何度も観た作品だが、年月を置いてたまに観たくなる作品だ。 大まかなあらすじは、戦国時代にタイムスリップしてしまった野原一家。そこで身分の差から結ばれない恋をする春日の国の侍、又兵衛と春日城の妃、廉たちと出会う。野原一家から20世紀の話を聞き、いずれ

          【映画 感想】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」

          【映画感想】「ボヘミアン・ラプソディ」

          ※2018年公開映画「ボヘミアン・ラプソディ」についてのネタバレを含む内容があります。 12月某日、20代として過ごす最後の夜、特に何かをするつもりでもなかったのだが、仕事の帰りを共にした同僚が、20代最後に何を食べるのか、何をして過ごすのかなど、妙に事細く聞いてきたために、こちらとしても何か特別な夜にしないといけないような気になってしまい、梅田まで迂回して前々から気になっていた映画「ボヘミアン・ラプソディ」はレイトショーで観る事にした。 「ボヘミアン・ラプソディ」は世界

          【映画感想】「ボヘミアン・ラプソディ」

          あなたは花のように咲きほこる人。

          庭先の紫陽花が、例年より早すぎる猛暑の日差しを浴びる事なく、我が家の日陰の中からその日差しを仰ぐ様に生き生きと花弁を広げて咲いていた。"あの人が喜ぶかもしれないな。"と思い、ポケットからスマホを取り出し何枚か写真に収める。 川端康成が「掌の小説・化粧の天使達・花」という作品の中にある一節で "別れる男に花の名を一つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。" というのがある。本の題名以上にこの一説の方が有名かもしれない。つまりは、"別れてからも男は毎年、その花が咲く度にあなた

          あなたは花のように咲きほこる人。

          寂しい気持ちをありがとう。

          先月いっぱいで一年近く働いていた職場の契約期間を終えた。 悪い事もちょびっとだけ、良い事はたくさんあった。 職場の連中とは仕事中だけの関係だが、僕個人としてはとても楽しく過ごす事ができたので、皆と別れるのを寂しく思っている。 いつからだったか、そんな寂しさを抱ける事を幸せに思える様になった。別れを寂しく思えるのは、それが良い出会いだったからだ。だから僕は、この長くもあり短くもある人生の中で、できるだけこの寂しさをたくさん味わおうと思いながら生きている。あの場所にはあんな

          寂しい気持ちをありがとう。

          愛を正義とする風潮をやめて欲しい。

          うちの母は途轍もないお節介である。こちらがいくらやめてほしいと懇願しても、善かれと思った事であれば続行し続ける様なお節介である。こうなると何を何度話しても改善がないので、逆に愛情をカケラも感じられなくなっている。私の意見や思いなど聞く気も無く、あの人はただ、あの人が母親として息子にしてやりたい事をただ押し付けてくるだけで、息子である私一個人への興味は一切無いのだとさえ思えてきた。私はこれに酷く傷つき、今も尚苦しみ続けている。 これを人に話しても、「親のありがたみがわかってい

          愛を正義とする風潮をやめて欲しい。

          いつまでも愚かな羽虫である僕。

          先日、前の職場の同僚達と京都の山奥へとバーベキューに出かけた。水に足が浸かる程度の深さの川辺があり川遊びができるのだが、着替えも持ってきていないのに率先して水浸しになってしまった女性がいた。かつて想いを寄せていた人だった。着替えもないのになんでそんな事ができるのか訊ねると、「楽しかったから!」と元気よく答えていた。僕は川遊びでなくとも日頃から下痢を心配して着替えを持ち歩いている様な男だ。過剰に心配をし、ウジウジクヨクヨと考え過ぎる性分の僕にとって、彼女のこのシンプルな生き方は

          いつまでも愚かな羽虫である僕。

          相合傘

          一ヶ月くらい前の話。 「暑くない?入る?」と、待ち合わせしていた女性から日傘の相合傘に誘われた。日傘の相合傘って聞いた事がない。なんなら雨傘の相合傘より照れ臭い。レースのついた傘に男が入るも恥ずかしいし、日傘が必要なくらい暑い気候の中で、異性とわざわざ身体を近づけて歩こうというシチュエーションとか、気恥ずかしいのオンパレードである。 でも僕は入れてもらう事にした。相手の方に暑かろうという思い以外の他意はなかったのかもしれないけど、わざわざこんな体の大きくて暑苦しい男の僕を