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嫌いなものが多過ぎる①

私はよく“大人になりたくなかった”だとか、“生きづらい”などと口走るが、よくよく考えると子供の頃から生きづらさを感じており、過去現在、後にも先にも逃げ場があった試しがなかった。そんな事を思い出したのは、出先で見かけた小学校の校庭での運動会の練習風景だ。数秒間隔で教師が口に咥えた笛を鳴らし、その音に合わせて生徒が順番に駆け出し、その生徒達がグラウンドに大きな輪を作っていた。たまに教師が鋭い目付きで生徒に命令口調で大声を出していた。私は教師に対し「何様だコイツ。」と思った。この日常的とも言える風景に対して噛み付く事からもわかる通り、私は酷く協調性が欠如している。やりたくない事に付き合わされるのが不快で仕方がない私にとって、運動会シーズンはストレスで堪らなかった。

私の学年の学年主任は、おそらく最近話題の某協会の組合員か何かで、運動会ではかの国の民族の舞をするのが恒例になっていた。子供ながら、他所の文化を強要されている感覚が不快な上、指導時に妙に気合いが入って必要以上に態度がデカくなる教師を心底気持ち悪く思った。

そんな思いを抱えながらも、サボらずに学校行事に参加してきた私だが、この通り協調性が育まれている様には感じられない。あの頃の我慢から何も生まれておらず、ただ私の不快感を増大させただけだったとしたら、それは心底許しがたい。私の根本の性質を正す事もできず、ただただ我慢や忍耐を強いるだけの教育の在り方が大嫌いだ。それが未だにこの国に根付いているのならば、この国の未来は、少なくとも僕にとっては暗いままだろう。

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