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【8月31日の夜に②】人生は結局、復讐みたいなものだから。〜あとがき〜

 こんばんは、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、82日目。

 昨日は、noteのハッシュタグ企画「8月31日の夜に」へ投稿するための作品を書きました。

 こちらは、一週間くらい前から、ずっと悩みに悩んで、やっとのことで書いた原稿でした。

 22日にも、僕はこんなトークを投稿しています。

 いろいろと考えた結果、「悩める十代に、直接語りかけるような、二人称の文章でいこう」と決めて、執筆に入りました。


作品を二人称で書くのにはリスクがある、しかし。

「二人称」とは、文法で人称のひとつ。話し手(書き手)に対して、聞き手(読み手)をさし示すもの。日本語では、「あなた」「あなたがた」「きみ」「きみたち」など。第二人称。対称。デジタル大辞泉

 最近、二人称の文体を使って何度かnoteを書いていたのですが、二人称って、すごく扱いが難しいんですよねえ。

 コラムの場合、「僕」という人間が話す一人称の文体が基本になるわけですが、一人称の書き方であれば、不特定多数が読んでいることを前提として、いくつかの予防線を張り、読者との距離感の保つことができます。

 しかし、二人称だとそうはいかない。

「あなた(読者)」と「わたし(著者)」の二人きりの話になるので、ほとんど対面で話しているような状態となります。つまり、読者との距離は非常に近くなるわけです。


 そこで何が起こるかというと、「わたし」が話しかけている「あなた」のペルソナ(人格)として想定されていない読者には、違和感や疎外感を与えるリスクがあるんですよね。

 たとえば、これは極端な話ですが、読者が老人だったとした場合、生まれたての赤ちゃんに向けて書いた文章を「あなたに向けている」という二人称の文体で読まされたとしたら、「一見、わたしに向けて話しかけられているように書かれている文章だけど、この文章はわたしの感覚とは全然違う」といった違和感や疎外感が生まれてくることは、当然だと思います。


 なので、昨日書いたコラムでは、読者との認識の齟齬が発生しないように、事前に《閲覧留意事項》という内容を、冒頭で書いています。

《閲覧留意事項》なお、当作品には一部、大人・親・先生・学校などを否定するような過激な表現がありますが、学校でのいじめ・家庭の問題など、あらゆる悩みと向き合う十代に、当事者目線で語りかけることを想定して書いた二人称の文章ですので、その点はご容赦くださいませ。

 つまり、いわゆる大人の皆さんや、子供を持つ親御さん、教育職に従事している人などは、読者として完全に対象外となっていました。


 上記のような事情があるため、昨日書いたコラムに関しては、まったく共感できないという方も、きっとたくさんいたことでしょう。

 しかし、僕はそれでよいと思っています。昨日書いたコラムは、あくまでも、「今この瞬間に傷ついている十代に、語りかけることを想定した文章」ですから。

 今回のテーマに限っては、非常に限定した狭い範囲の読者を想定し、普段では書かないような距離感で、読者に直接語りかける文章を書く必要があると判断しました。


 僕が今回書いた文章が、果たして悩める十代に直接届くのか、それはわかりません。しかし、もしも言葉が届いて、9月1日を恐れる気持ちを、ほんの少しでも遠ざけることができたなら、それほど幸いなことはありません。



人生とは、本当に、復讐みたいなものなのか?

 僕が昨日書いたコラムは、「人生は結局、復讐みたいなものだから。」というタイトルでした。しかし、果たして人生とは、本当に復讐みたいなものなのでしょうか?

 これは、僕がこれまで生きてきた経験則でいえば、完全に「YES」です。しかしながら、必ずしもすべての十代に当てはまるともいえない、という意味で、「結局は受け手がどう生きたいかによる」んだと思います。

 ただ、もしも人生を投げ出したいくらい悩んでいる子がいるならば、「いっその事、湧き出る復讐心をモチベーションに変えて生きるのもわるくないんじゃないかな」という提案がしたかったんですね。

 だから僕は、「お前の人生を復讐のために捧げろ」なんて事を強制したいわけでありません。断定は強制であり、どこか呪いに似ています。

 僕は決して十代に呪いをかけたいわけではなく、考え方のバッファを与えたいという想いで昨日の文章を書きました。


僕自身は、三十代に至るまで復讐心を抱いて生きてきた。

 ここからは、僕自身の話です。少し、「人生は結局、復讐みたいなものだから」と語るに至った、バックグラウンドを書いておきましょう。

 僕は三十代のはじめ頃まで(今三十四歳ですから、本当につい最近まで)復讐心をモチベーションに生きてきた経緯があります。

 自分を傷つけた人間たちのことは決して忘れず、「あいつらには絶対に負けない」という想いで努力を重ねる、ということを続けてきたんです。

 幼い頃は、いじめられたら、そいつよりも賢くなれるように勉強しました。社会人になってからも、自分を蔑む人間がいたら、そいつよりも自由に楽しく生きられるように、己の技術を磨き、仕事の努力を重ねました。

 そのため、僕の三十代のはじめまでの座右の銘は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」でした。

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」とは、復讐(ふくしゅう)を心に誓って辛苦すること。また、目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること。
[補説]中国の春秋時代、呉王夫差(ふさ)が父のかたきの越王(えつおう)勾践(こうせん)を討とうとして、いつも薪(たきぎ)の上に寝て身を苦しめ、またその後夫差に敗れた勾践が、いつか会稽(かいけい)の恥をそそごうと苦い胆(きも)を嘗(な)めて報復の志を忘れまいとしたという。


 この考え方が根付いたルーツは、両親に対して、十代の頃に強い復讐心を持ったのがはじまりかもしれません。

 僕の家は、僕が幼い頃に父親が下半身不随で障害者になり、母親はそんな父親や僕・妹を残して離婚。家を離れてその後に再婚するという、ちょっと歪んだ家庭で育った経緯があります。

 しかも、離婚が決まった当時、僕は中学生で、おまけに不良に毎日のように殴られたり蹴られたりしていました。

 人生において、どん底の時期。

 父親は不自由になった身体や離婚のことで自暴自棄になっており、母親は当時、完全に自分のことしか考えていないような人でした。

 家族は信用できないし、学校では誰も助けてくれない。


 そこで当時の僕は、究極の二択(正確には三択)を心の中で選ぶことになります。

①めちゃくちゃな犯罪者になって、「お前ら(親や環境)のせいでこうなった」と、周りの人間を傷つけ続ける存在になるか

②親の姿を他山の石として、勉強して、努力して、親のようには絶対にならないように、世の中に出て、立派な人間になるか

③(あるいは、いっそのこと死んでしまうか)


 文章にしてみるとすごく大げさなんですが、実際に、僕は中学生の当時、本気で上記の選択肢を考えていました。

 結果、僕は考え抜いて2つ目を選び、ひたすら勉強することになります。

 そして、中学生、高校生と実績を重ねて、大学まで進学しました。もしも、当時の選択を誤っていたら……と思うと、ゾッとします。

 しかしながら、追い込まれた子どもは本当に、これくらい考えるものなんですよね。


 だからこそ、昨日書いたコラムでは、「復讐心は確かにエネルギーに変えられる可能性がある。けれど、誤った方向へ復讐心のエネルギーを使う事のないようにしよう。幸せになるために使おう」というメッセージを織り込むことを、すごく大切にしました。


復讐心はエネルギーに変えられるかもしれない。けれど、復讐心なんて、ないほうがいいに決まっている。

 はっきり言って、昨日のようなコラムを書いておいて何ですが、復讐心なんて、本来はないほうがよいに決まっているんですよ。

 子どもは、笑顔で毎日を生き、周りの人たちから愛され、そして愛し、立派な大人に育っていくのがベストであることに間違いはありません。

 だから、本来であれば、僕が書いた「人生は結局、復讐みたいなものだから。」なんていう文章から気づきを得たり、共感したりするような人間は、どんどん減っていくべきなんです。


 しかし、この世の社会は、時に、ものすごく野蛮で獰猛です。

 自分を平気で傷つける人間が現れたり、簡単に権利が踏みにじられたりします。しかも、多くの場合は誰も助けてはくれません。

 そして、子どもを卒業して、大人になったところで、社会で続けられる野蛮で獰猛な行為は、もっと激しさを増します。

 学校を出たとしても、今度は会社があり、そして、たとえ独立して自分で会社を作ったり、自由を求めてフリーランスになったとしても、社会の与える理不尽さや苦しみからは、決して逃れることはできないんです。

 だからこそ、窮地に追い込まれた子どもたちには、その経験を活かし、8月31日に負けず、野蛮で獰猛なこの世の摂理に負けず、「復讐心を持って生き抜いてやる」と思うくらいの激しいモチベーションで、強く生きて欲しいと願います。


 僕が人生において、どん底を味わっていた中学生の当時、死ぬ事を選ばなかったのは、生きる事に決して負けたくなかったからです。人生、こんなもので終わりたくなかったからです。

 三十四歳を迎え、僕はフリーランスライターとして生きています。「文章を書いて飯を食っていくんだ」という、掲げた小さな目標は、なんとか叶えることができました。

 とはいえ、今の僕はまだ、自分が幼い頃に思っていたような、立派な大人には決してなりきれていません。

 しかし少なくとも、今日まで諦めずに生きてきてよかったと思っているし、人生をここまで歩み、そして、これからも歩み続けることができることを、とても誇りに思っています。


 子どもたちよ、どうか強くあれ。

 憎きものを、追い越していけ。

 復讐心をエネルギーに変えよ。

 そして、与えられた機会を愛せ。

 誰よりも、気高く育っていけ。



 これにて、「8月31日の夜に」へ参加する全投稿を終了します。

 最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 それでは、明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 ぽんぽんぽん。

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。