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アウシュヴィッツに関するマトーニョの反論 その3:目撃者(補足)

上の写真は今回の翻訳記事内で扱われる人物ですが、左上から右下へ順に、ヘンリク・タウバー、ルドルフ・ヘス、ペリー・ブロード、チャールズ・ジギスムント・ベンデル、ミクロス・ニーシュリ、イエフダ・バコン、シェロモ・ドラゴンです。

そのうち、ヘンリク・タウバー、ルドルフ・ヘス、ペリー・ブロード、シェロモ・ドラゴンの証言は以前に翻訳、または紹介しています。

ルドルフ・ヘスの証言は、その自伝が講談社学術文庫から出ているので日本語でも読めますが、たぶん、ヘス以外の証言は日本語では私が翻訳した以外には公にはないと思われます。他にも証言者は当然膨大な人がいるのですが、日本語が存在するのはそのごく一部です。

そうした事情もあって、「ヘンリク・タウバーは嘘つきだ」とネットの否定派が言ったとしても、なんのことだかさっぱりわからないことがほとんどだと思います。否定派にしても、ネットにある情報を単に鵜呑みにしているだけで、タウバーどころか、日本語書籍になってるルドルフ・ヘスの回想録すらろくに読んだ人はいないでしょう。

ヘンリク・タウバーなどはYouTubeにすらいくつか証言動画が上がっています。

ホロコーストの生存者証言はこのようにYouTubeにもたくさん上がっているのですが、言語の壁は如何ともし難く、ドラえもんの翻訳こんにゃくが欲しいところです。

では、マットーニョが具体的にどんな間抜けな証言否定をしていたのか、見ていきましょう。なお、途中で本来は別記事になっているシェロモ・ドラゴンの証言に関する記事を本記事内にまとめたので、非常に長くなっていますのでご注意願います。

▼翻訳開始▼

アウシュヴィッツに関するマトーニョの反論 その3:目撃者(補足)

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論
第1部:屋内火葬
第2部:火葬場でのガス導入について
第3部:目撃者(補足)
第4部:ゾンダーコマンドの手書き文字
第5部:建設関係の書類
A:はじめに
B:換気・エレベータ
C:脱衣室
D:外開きドア&死体シュートの撤去
E: ガス探知機
F:特別処理の同時火葬
G:ガス室

アウシュビッツにおける殺人ガスに関する個人の証言(抜粋)に対するコメント

ヘンリク・タウバー

プレサックは、『技術』432頁で、ゾンダーコマンドのヘンリク・タウバーのポーランド語の証言について、きちんとした分析を提供している。 そして、その証言の全文を、裏付けとなる資料とともに再現し、さらに独自の解説と批評を加え、タウバーのポーランド語証言は「ビルケナウ・クレマトリエンに関して存在する最高のもの」であり、「95%歴史的に信頼できる」と結論づけた(プレサック、『技術』、p.481)。

プレサックは、ゾンダーコマンドのヘンリク・タウバーのポーランドの証言のまともな分析を『アウシュビッツ ガス室の操作と技術』p. 432 で提供した。彼は、彼自身の説明と批判的な発言と同様に、裏付けとなるソースと一緒に完全な証言を再現し、タウバーのポーランドの証言が「ビルケナウの火葬場に存在する最高のもの」であり、「95%歴史的に信頼できる」(プレサック、技術、p. 481)であると結論づけた。これとは全く対照的に、マットーニョはタウバーの証言が「95%まで信頼できない、つまり:それは歴史的に無価値である」と主張している(マットーニョ、『アウシュビッツ:正気を保つために』 [ATCFS], p. 424)。しかし、彼が攻撃しているのは、タウバーのポーランド語証言に含まれる記述の25%程度にすぎない。さらに、マットーニョは、「建物が関係している限り、そして火葬場の記述に関しては、タウバーの証言は完全に信頼できる」と認めている。しかし、これらの「完全に信頼できる」記述は、すでにポーランドの証言の約20%に相当する。明らかに、これらの見積もりは加算しないし、タウバーに関するマットーニョの厳しい判断は、タウバーの分析が完全に正しくとも、酷く誇張されるであろう。

マットーニョは、タウバーがトプフの3つのマッフルの高さを80cmではなく1mと見積もったとか(ATCFS, p. 377)、1944年夏のゾンダーコマンドの兵力を903ではなく1000とした(ATCFS, p. 403)など、まったく馬鹿げた攻撃をしなければ、修正主義者とはいえないだろう。このような小さな偏差は、信頼できる信用できる目撃者と完全に一致する。また、タウバーの記述に対する反論は、単なる虚偽や根拠のないものである。その中には、タウバーが言及している殺人ガスや首撃ち以外の残虐行為、たとえば、処刑された囚人の人肉の切断(ATCFS, p. 418)、生きたまま焼かれる(ATCFS, p. 418)などがすべて含まれているのである。

確かにタウバー氏の証言には、疑問や誤った記述が多い。しかし、マットーニョは、これらの欠陥のある記述が実際にどの程度重大なものであるかを評価・推定する次のステップにすら進んでいないのである。たとえば、タウバーは、ガス室から空気が引き出されて犠牲者を窒息させたと誤って思い込んでいる(ATCFS, p. 403)。しかし、彼は換気技術者でもなければ、ガス室を操作していたわけでもないので、ガス室にはガス気密ドアがあり、さらに、空気を積極的に送り出す空気抽出器があるという事実から明らかに導かれる彼の主張は言い訳にしかならない。マットーニョは、タウバーの証言に重大な誤りがあることを一つも指摘することができない。記憶の誤りや誤解があり、ソ連の調査官から400万人の死者数を採用したという弱点があるが、これは彼のポーランドでの証言の5%以下である。これらの欠陥の量も質も心配には及ばない。それゆえ、タウバーがアウシュヴィッツでの大量絶滅に関する信頼できる証人であると言うことは、まったく正当なことなのである。

プレサックが指摘し、ヴァンペルトがさらに強調し、マットーニョも認めているように、火葬場の配置に関するタウバーの記述は傑出している。事実であるにはあまりに良すぎるほどである。タウバーが中央建設部の文書館で発見された文書にもとづいてアウシュヴィッツでの大量殺戮を説明し、その結果、タウバーの記憶がある程度、その文書によって更新された可能性もある。このことは、タウバーの優れた描写(マットーニョがそうであることを望んでいる)を無効にするものではないが、そのほぼ完璧な正確さを相対化するものかもしれない。

シェロモ・ドラゴン

元記事では、「ドラゴン退治に失敗したカルロ・マットーニョを参照」となっていますが、この翻訳では、それを全文訳して以下に示します。この翻訳は以前にしているのですが、酷い翻訳記事の一つでもあったので、以下である程度は是正の意味もあります。

カルロ・マットーニョの著書『アウシュビッツのブンカー [PDF]』の長い部分は、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドだったシェロモ・ドラゴン(スラマ・ドラゴン)とその弟アブラハムのさまざまな証言の批判に費やされている。

まず、マットーニョが行ったシュロモ・ドラゴンのソ連側証言とポーランド側証言の比較について見てみよう。私はソ連の証言の原本を調べており、テキストも目の前にあるので、マットーニョの分析をするのに有利な立場にある。

まず最初に言っておきたいのは、マットーニョの本にあるドラゴンの証言の引用は、脚注に原文のロシア語で書かれているが、すべて本物だということである。しかし、マットーニョがその一部を翻訳したのは別の問題である。じきにわかることだが…


マットーニョの分析はP.75から始まる。

上に引用した部分をざっと読んだだけでも、スラマ・ドラゴンのポーランドの宣誓証言が、その3ヶ月弱前のソ連の宣誓証言に対して重大な矛盾を含んでいることが明らかである。以下の比較分析では、最も重要なものを検討することにする。

5.2.1. 用語の説明
まず、ソ連側の証言の時点では、ドラゴンは、SSでも使われていたとされる「ブンカー1」「ブンカー2」という言葉をまだ知らなかったということである。この供述書では、彼は常に「gazokamera」(газокамера(ガス室))1と2について話し、これが正式な呼称であると明言している。「私はガス室No.2と呼ばれるガス室に連行されました」ポーランドの宣誓供述書では、これらとされる絶滅施設の用語は「ブンカー」となる。「この部屋はブンカーno.2と呼ばれました。そのほかに、約500メートル離れたところに、もう一つの部屋があり、ブンカーNo.1と呼ばれました」この用語は、先行する供述の「gazokamera」という用語と同じ頻度でここに出てくる。

マットーニョの主張の問題点は、厳密に言えば、彼はドラゴンの原証言ではなく、ロシア語翻訳を扱っており、速記者の間違いやタイプミス、誤訳、誤解、さらには意図的な改ざんもあり得る。

マットーニョは、「ブンカー」という言葉はポーランド人が発明し、目撃者が採用したものだ、という陰謀論を展開する。そして、オーマイヤーやヘスのような西側連合国の手中にあった証人たちにも強要したのである。マットーニョは、ここまで主張しているのだ。

1947年3月11日の公判で、ヘスはついにポーランドの「真実」とその用語に適応し、「ブンカー1」と「ブンカー2」について明確に語っている。[...]

ヘスの「自白」のイギリス版とポーランド版の明らかな違いは、このように、それぞれの尋問者の宣伝志向を表現していることのさらなる証拠である。

マットーニョの問題は、ヘスがポーランドに移送される前に「ブンカー」という言葉を口にしていたことである。以下は、1946年4月16日、ニュルンベルクでのオットー・モルとルドルフ・ヘスに対するスミス・W・ブルックハート中佐の共同尋問からの引用で、R. オーバリー、 「尋問」、『連合国の手に落ちたナチス・エリート、1945(The Nazi Elite in Allied Hands, 1945)』、2001、p. 394に掲載されているものである。

Q. その数字をどう思いますか、ヘスさん?

A. 正確な数字を知ることは不可能ですが、今日私が覚えている限りでは、あまりにも少ない数字に見えます。いわゆる壕1と2(dugouts one and two
)の二つの大きな集団墓地に埋葬された人々は、106,000か107,000人にのぼります。

[...]

Q. ヘスさん、正しい数値は何だと思いますか?

A. モルは、私が思うに、自分が働き、責任を負っていた壕(dugouts
)での殺人の数について、まったく考えていないはずです。なにしろ、あまりにも、あまりにも少ない数字なのです--つまり、モルの数字です。

明らかに「dugouts one and two」はブンカー1と2のことであり、翻訳者はヘスの意味するところを理解していなかったのである。そんな大掛かりな陰謀があったのなら、なぜそうなるのか? ヘスに関するマットーニョの主張はここまで。さて、ドラゴンに戻る。


註:英単語の「dugout」をネット辞書のWeblioで引くと、「ダッグ・アウト(英語:Dugout, Dug-out)は、人や家畜のための避難所(シェルター)で、くぼみや地面に掘った穴に基づくものである」、「野球場で、監督・コーチやグラウンドに出ていない選手の控え席。地面より一段低くつくられている。ベンチ」などの日本語の意味が得られます。英語圏でのこの単語のニュアンスは日本人には分かりにくいのですが、「dug」が「掘った」の意味なので、なんとなくニュアンスがわかるでしょうか。ところが、上記で示されているヘス証言の英語訳「dugout」は、ビルケナウの敷地外にあった「ブンカー」のことではありません。これを日本語で説明するのも非常に難儀なのですが、例えばここで言われるビルケナウのブンカーは、農家を改造した小屋のことなのです。

ダヴィッド・オレールによるブンカー2(1944年の夏に再稼働した時のものなのでブンカーⅤとも呼ばれます)の絵。ガス室のある「白い小屋」は左に見える小屋であり、右は脱衣室として機能したバラックです。右上奥に見えるのは、プレサックによると1944年当時にはすでになかったブンカー1だそうです。私個人は、この絵はあくまでもオレールの記憶イメージなので、右上奥のはビルケナウ敷地内の何かのバラックのイメージだと思うのですが。

「bunker」はしかし、「壕」や「塹壕」のような訳もあり、ドイツ語でも同様に「bunker」はそのような意味にも使われるのですけど、「bunker」はどうやらその場所の物理的構造を意味するとは限らず、何かの目的を意味するものとして使われることもあるようで、その辺が考え始めるとややこしくて、翻訳でもちょっと悩ましい単語なのです(一般的なホロコースト文献の日本語への翻訳者は、このビルケナウの敷地外にあった仮設ガス室のことを、単に当時は「ブンカー」と「ドイツ語読み」で呼んでいた、としか解釈してないのでさらにややこしい。なぜなら、他の場所を指す用語としても「bunker」の単語が使われているからです)。しかし、ヘスの述べたであろう「ブンカー」が「dugout」を意味するとは考え難いので、これは翻訳者の誤訳と言えます。つまりは、ドラゴンの供述の変化は翻訳者(記述者)のせいである可能性が高い、というわけです。というか、ソ連とポーランドでは言語が異なるのですから、翻訳的な違いであろうと解釈しないのはマットーニョが意図的に「陰謀疑惑説」を述べたいから、としか考えられません。


ソ連の尋問用語についてのより単純で簡素な説明:ポーランド語でのオリジナルの証言では、ドラゴン(とタウバー;下記参照)は常に「ブンカー」という用語を使用していた。ロシア語で「ブンカー」は「ガス室」を意味しないので、この用語は不必要な混乱を引き起こす(上記のヘスに起こったようなもの)ので、ソ連の翻訳者・尋問者は、ドラゴンの「ブンカー」がガス室であることを確認した後、わかりやすくするために、ドラゴンが「ブンカー」と言うたびに、「ガス室」と書いているだけなのである。陰謀論を必要としない合理的で現実的な仮説であり、それゆえマットーニョの陰謀論より好ましい。繰り返しになりますが、私たちは正確な速記録を扱っているわけではない。マットーニョはまた以下のように述べる。

しかし、この供述では、ドラゴンは、数年後にヘス裁判の中で考案された「ブンカー1」の「czerwony domek」(小さな赤い家)と「ブンカー2」の「bialy domek」(小さな白い家)という他の二つの呼称をまだ知らないのである。

これらの呼称が戦後の発明であるという証拠はないが、私が読んだあらゆる資料を見る限り、これらの呼称が囚人やナチスの間で何か人気があったとは思えないが、おそらく一部の人々が使っていたのであろう。 昨今、これらが「公式」な呼称として提示されることが多いのは残念だし、苛立ちを覚えるが、大局的に見れば、ほとんど重要なことではないだろう。どーでもいい話だ。

1945年2月から3月にかけて、上記の公式用語がまだ知られていなかったことは、1945年2月27日と28日のヘンリク・タウバーの供述からも明らかであり、彼は、「ブンカー」を単に「ガス室」(газовые камеры)と呼んでいるだけである。

ポーランド・ソ連の専門家は、1945年2月14日から3月18日のあいだに作成した報告書の中で、「ガス室」(газовые камеры)No.1と2についてだけ述べている。

その説明は上記の通り。

もう少し飛ばす。

5.2.2. 「ブンカー1」
この項では、「ブンカー1」をテーマとして、2つの供述書の主な矛盾点を列挙する。

1)ソ連の供述 :「ガス室No.1の各部屋には二つのドアがありました。裸の人間は一方から入り、死体はもう一方から搬出されました」

ポーランドの供述: 「そのほかに、約500メートル離れたところに、ブンカーNo.1と表示された別の部屋がありました。これもレンガ造りの家でしたが、2つの部屋に分かれており、合計2000名弱の裸の人間を収容することができました。この部屋には、入り口のドアと小さな窓が1つずつあるだけでした」
対応する図面でも、「ブンカー1」の2つのガス室には、それぞれ1つの扉しかない。

これは、2つのテキストの間の正真正銘の不一致である。GC1と呼ぶことにしよう。

2)ソ連の供述:「入り口のドアの外側には「消毒へ」、出口のドアの内側には「風呂へ」と書かれていました」

ポーランドの供述:「入り口のドアには、私がすでに話した、「Hochspannung - Lebensgefahr」と刻まれたプレートがありました。この銘板は、入り口のドアが閉まっているときだけ見ることができました。ドアが開いているときは見えず、代わりに「Zum Baden」[入浴へ]という別のサインがありました」

そのため、「Zum Baden」の表記は、出口ドアの内側にあり(ソ連の供述)、入口ドアの内側にあったことになる(ポーランドの供述)。

うーむ、カルロ、これを書いているとき、あなたは何を吸っていたんだ? だって、「ポーランドの供述」の引用は、ブンカー2の記述から、だから。ここで、あなた自身の呆れた本から引用する。

入り口のドアには、先ほどお話した「Hochspannung - Lebensgefahr」と書かれたプレートがありました。この文字が見えるのは、入り口のドアが閉まっているときだけでした。ドアが開いているときには、それは見えず、代わりに、「Zum Baden」(浴場へ)という別のサインがありました。ガス処刑されることになった犠牲者たちは、部屋の出口のドアに、「Zur Desinfektion」[消毒へ]という別の標識を見たのです。もちろん、この看板のあるドアの後ろには、まったく消毒はありませんでした。なぜなら、これは部屋の出口のドアであり、そこから死体を庭に引き出していたからです。

それぞれの部屋には、独立した出口のドアがありました。私が説明した部屋は、オシフィエチムの技術者ヤン・ノザルが私の証言にもとづいて忠実に描いたものです。この部屋は、ブンカー no.2と呼ばれていました

D'oh!

次:

ソ連の供述:「ガス室No.1から500メートルほど離れたところに、標準的な木造のバラックが2棟ありました」

ポーランドの供述:「ブンカーNo.1から遠くないところに納屋と2つのバラックがありました」

ドラゴンは、ソ連の供述では、焼却壕は「ブンカー1」から約500メートル離れたところにあったと断言しているが、ポーランドの供述では、こう断言している、「塹壕は非常に遠かった」。したがって、「ブンカー1」から「それほど遠くない」納屋と二つのバラックは、「ブンカー1」から500メートルよりもはるかに小さい距離にあったことになる:証人は自分自身に矛盾している。

テキスト間に齟齬があることは認めるが、それをD1と呼ぼう。

5.2.3. 「ブンカー2」

ここで、「ブンカー2」をめぐる2つの供述の大きな矛盾に触れることにする。

1)ソ連の供述 :「ガス室は、窓が密閉された2つの改造家屋でした」

ポーランドの証言:「 窓は壁で塞がれていました」

矛盾していると思われていることがわからない。窓は壁で囲んで密閉していた。これは技術マニュアルではない。それを矛盾と呼ぶのは、藁にすがるようなことだ。

2)ソ連の供述: 「[...] 別の二つのバラックは、ガス室No.2から150メートルほどのところに立っていた」

ポーランドの供述:「このコテージから約30mから40mのところに、2つの木造バラックが建っていた」

不一致D2とする。

3)ソ連の供述 :「no.2号室から150mの地点に、no.1号室付近と同じ大きさの溝が6本ありました」

ポーランドの供述 :「家の反対側には、長さ30m、幅7m、深さ3mの4つの溝がありました」

ソ連の供述では、これらの溝は、長さ30mから35m、幅7mから8m、深さ2mである。

トレンチ(溝)の測定値の食い違いは認められない、2メートルと3メートルの差は大きな矛盾ではない。残りは不一致D3として認める。

4)ソ連の供述 :「ガス室No. 2は2,000人を収容することができました」

ポーランドの供述 :「そのうちの一つは1200名の裸の人間を収容でき、二つ目は700名、三つ目は400名、四つ目は200名から250名でした」

したがって、最大で、「ブンカー2」の4つの部屋には、2,500から2,550人が入ることができたのである。

常識的に考えれば、これは気にするほどでもない単純な数値の変動であり、どちらかといえば、2000は2500の非常に大雑把な四捨五入である。この数字は原理的に確定できないので(人の大きさは様々だから)、これは騒ぐほどのことではない。

そして、形式的に見れば、矛盾さえもない、なぜなら、ガス室が2550名を収容できたのであれば、明らかに、2000名を収容できたからです。異議は却下された。

5)ソ連の供述:「ガス室1と2は互いに約3km離れていました」

ポーランドの供述:「それに加えて、約500mの距離に、ブンカーNo.1と表示された別の部屋がありました」

不一致D4としよう。

このように、マットーニョは、ポーランドとソ連のドラゴンの証言の間の最も重要な矛盾と思われる8つの例を挙げたが、そのうち注目すべきは5つだけで、その過程でマットーニョ自身がブンカー1とブンカー2を混同したのである。

そして、この本の中で彼が二つのブンカーを混同しているのは、これだけではない。184ページで、彼はブンカー2の航空写真を分析しようとしている。そして、彼はこう書いている。

ヴィシンスカさんによると、家の大きさは約12メートル×9メートル。

ただし、ヴィシンスカがブンカー1について書いていたことは、214頁にある「ヨゼフ・ハルマタの家のスケッチ(疑惑の「ブンカー1」)、1980年8月5日のヨゼファ・ヴィシンスカの宣言への付属書」と165頁にある「「ブンカー1」の位置に関するヨゼファ・ヴィシンスカの宣言」から明白である。もっかい、d'oh!

さて、「マットーニョはこういう間違いをした。でも、ドラゴンの矛盾は深刻だから、これは関係ない」と言う人もいるだろう。

しかし、マットーニョのミスは、実に関連性が高い。

この二つの状況を比較してみよう。マットーニョは(おそらく)ローマで、自宅でくつろぎながら、自由に確認・再確認できる古文書やその他の資料をすべて持って、本を書いたのである。それなのに、まだそんなに頭の中こんがらがってんのか!?

アウシュビッツの地獄を経験したばかりの若いシュロモ・ドラゴンは、明らかに過敏症であり、尋問の間、自分の記憶だけを頼りにしていたのだが、どの程度大目に見るべきだろうか?

それに、彼はブンカーで短期間しか働いていない(ソ連の証言によると、ブンカー2では2ヶ月以内、文脈と彼の後の証言を考慮すると、おそらく、2ヶ月の間に数回、ほとんどの時間はさまざまな解体された建物からレンガを集めていた、ブンカー1では数日であった)。その後、火葬場での仕事が数ヶ月続き、さらに何万もの死体が彼を「通過」していった。

そう、おそらく彼は2つのブンカーの細部が混ざってしまったのだろう(GC1の不一致)。他のほとんどの不一致(D1-D4)は、壕の数の違いを除いて、距離に関するものだ。これらの数値の不一致の中には、証言を書き留めた翻訳者・尋問者の事務的なミス、特にブンカー1と脱衣所(D1)の距離の不一致もあったかもしれない。特にブンカー1から集団墓地までの距離を「500m」と繰り返し言っていることから、D1についてはこの説明が最も妥当であると確信している。数字の羅列を考えれば、このような間違い(おそらく「50m」ではなく「500m」、後の証言では、バラックは墓と違って「遠くない」ことが示されている)は全く驚くには値しないのである。

また、ブンカー同士の距離(D4、実際の直線距離は約800m)などは、極めて些細な違いである。結局、ドラゴンが取り調べを受ける前にブンカーを行き来していたことが既に確定しており、そのため信頼できる推定ができたというわけではないのだ。

ドラゴンの体験がいかに貴重なものであるかを理解した上で、ソ連の尋問官がドラゴンを待ち伏せて、より正確な数値データを要求したのかもしれない。もしそうなら、ドラゴンは尋問中に記憶の中でデータを再構築する時間があまりなかったため、非常に大雑把な見積もりをしたのかもしれない。

しかし、ドラゴンが証言を変えたということは、彼が嘘つきであることを証明している、と言う人がいるかもしれないが、そんなことはない。証言の間の数カ月間、ドラゴンは自分の記憶している情報を分析したようだし、もしかしたら、現地で(可能な限り)自分の記憶を確かめようとしたり、他の元受刑者に話を聞いたりしたのかもしれない。こうして、(ヤン・)セーンが尋問する頃には、いくつかの点で、特に距離に関しては、より良い情報を得ることができたのである。その点については、本質的な間違いや不誠実さはないのだが、その矛盾を自ら説明しなかったことは残念である(ポーランドでの尋問や(ギデオン・)グライフとの面談では、ソ連のプロトコルを突きつけられなかったので、いずれにしても説明する機会はなかったのだろうけれど)。

このこと(ドラゴンの矛盾とマットーニョの混乱)から得られる教訓は何でだろうか? 確かに、アウシュビッツの証人は嘘つきだとか、ドラゴンの証言は絶対に信用できないとか、そんなくだらないことは言っていない。

教訓は、人間の記憶は脆弱であるということだ。そして、ある種の研究者が、ガス室のドアのプラークの文字や焼却穴の数とその大きさなどの細かい点を立証するために、一人の目撃者に頼るのは間違いである。なぜなら、目撃者は、その証言がある瞬間にはどれほど詳しく、信頼できると思われても、そうした細部を間違ってしまうことがあるからだ。しかし、このような細部の食い違いをもって、証言全体を否定することはできない。むしろ、すべての証言は、現存する証拠と照らし合わせて「テスト」されるべきなのである。そうすれば、多くの場合、(もみ殻から小麦を取り去るように)良いものと悪いものを分けることができるのである。

しかし、マットーニョが試みた分析に話を戻そう。

5.2.4. 批判的分析

この分析についても、重要なポイントに絞って説明する。1)ソ連の供述では、スラマ・ドラゴンは、「ブンカー1」の総床面積は80平方メートルで、1500人から1700人が押し込める、すなわち、四捨五入して1平方メートルあたり19人から22人であると断言している! ポーランド語の供述では、「2,000人以下」と語っているが、これは1平方メートルあたり25人「以下」の密度に相当する! 一方、「ブンカー2」の床面積は100平方メートルで、ソ連側の証言では2000人、ポーランド側の証言に従えば2550人を収容することができたとされている。従って、ここでも1平方メートル当たり20人から25人の密度があることになる!

では、解析はどうなっているのか?マットーニョは、単に想定される密度を計算しただけである。結論? それとも、これらの密度は自明なファンタスティックなものなのだろうか? もちろん、ビルケナウではしばしばそうであったように、犠牲者のかなりのパーセントが子供であったと仮定すれば、そうではない(プロヴァンの実験では、子供の数が大人よりも多い場合に、1平方メートルあたり28名の密度が得られた)。さらに、ドラゴンのブンカーあたりの人数の概算は、彼のブンカーの大きさの概算と比較するのではなく、(可能であれば)文献にある大きさと比較する必要がある。

2)ソ連の宣誓証言で、証人は「ブンカー1」に言及しながら、こう供述している。

「部屋からの死体の搬出は、すでに説明したように、12人の人間が15分ごとに6体の死体を搬出したのです。[中略)部屋の清掃には2~3時間かかりました」

実際、12人が15分ごとに6体の死体を運んだとすると、1,500体、1,700体、2,000体弱の死体を片付けるのに、それぞれ約62時間、約71時間、83時間弱必要だったことになる。3時間で2,000体の死体を運ぶには、12人が1分間に1体ずつ運べばよいことになる!

マットーニョは、この箇所を誤訳し、誤解している。彼がロシア語の意味を誤解しているのは、今回が初めてではない。実際の文章はこうだ。

Разгрузкой камеры от трупов, как я выше указывал, занимались 12 человек попеременно, разгружали каждые 15 минут по шесть человек. Больше чем 15-20 минут в газокамере трудно было находиться, так как запах от циклона при открытии дверей сразу не улетучивался.

ガス室からの死体の搬出は、先に指摘したように、12人が交互に行い、6人が15分ごとに搬出しました。ドアが開いても、チクロンの臭いがすぐに消えないので、15-20分以上ガス室にいることは困難でした。

つまり、15分間に6体の死体を12人で降ろしたのではなく(とにかく無茶な主張だ!)、6人が15分間作業し、その後、他の6人と交代したのである。マットーニョは、"попеременно"(「交互に」、「交代で」)を訳す際に省略し、"человек"(「人」)を「死体」と誤って訳し、そもそもなぜ交代で作業しなければならなかったのかを説明した次の文章も省略したのだ。

マットーニョの多言語能力は尊敬に値するが、テキストを次々と間違えると......ここに、彼のスラブ語に関する知識の限界を示すもう一つの証拠がある。191ページで彼はこう書いている。

アウシュビッツ博物館は、バチカンのイニシアチブを素早く取り、この敬虔な伝説を巧みに歴史化しようとして、「ブンカー2」とされる廃墟にポーランド語の銘板を設置した。「Miejsce męczeństwa Bł.[639] Edith Stein + 9.08」 すなわち、「エディス・スタインの殉教の地」とポーランド語で書かれたプレートを設置したのである。

脚注は以下の通り。

639 ポーランド語の形容詞「byłej」(略称「Bł」、文字通り「元」または「元」)は、この場合、市民生活における修道女の名前を指している。

実は「Bł. Edith Stein」は「błogosławioną Edith Stein」、つまり「祝福されたエディス・スタイン」という意味である。「Bł.」は「błogosławiony」の絶対的な標準的な省略形である。 確かに、「元エディット・スタイン」なんて、そんな「言語学者、研究者、[...]テキスト解析の専門家」の嗅覚にかなうはずもない、無茶でバカげた構成だ。まあ、いいや。

これは単純な人身攻撃の議論ではない。マットーニョは証言を細かい点に基づいて批判しているが、翻訳ではその細かい点を間違えている。少なくともスラブ語の証言の翻訳には疑いがある。

3)ソ連の供述では、証人は、1942年12月7日に到着した彼の輸送(2500名)がビルケナウでメンゲレ博士に受け取られ、彼は選別を実行したと宣言している。しかし、メンゲレ博士がアウシュビッツに派遣されたのは、半年後の1943年5月30日であった。ドラゴンは、ガス処刑は「様々なSS隊員によって行われ、そのうちの一人はシャイメッツと呼ばれていた」と付け加えている。ポーランドの供述では、証人は、ガス処刑はメンゲレの命令によって、「シャインメッツ」親衛隊兵長によって実行されたと宣言している。チクロンBは赤十字の看板を掲げた車で運ばれたが、ドイツ人はそれを「サンカー」と呼んでいた。
当時は、すでに見たように、メンゲレはまだアウシュビッツにいなかった。

正しい。デボラ・リプシュタットはかつてこう言った

アウシュビッツに到着した多くの生存者が、メンゲレの診察を受けたと言うでしょう。そして、彼らに到着した日を尋ねると、「その時点ではメンゲレはアウシュビッツにいなかった」と言うのです。

ドラゴンは、生存者の間でよくあるように、メンゲレが後に選別に参加したこと(自分で目撃していなくても、他の収容者から聞いていたのだろう)を、自分が来たときにまで「テレスコープ」していたのである。意図的な虚偽というわけではない。

シャイメッツ、シャインメッツ、スタインメッツというドイツではよくある名字だが、彼については全く知られていないし、彼が実在したという証拠もない。

それは、これまで生きてきた何十億もの人々に言えることだ。要は逆も証明されていないのである。

確かに、この名前は1945年5月24日の宣誓証言でヘンリク・タウバーも述べているが、タウバーはドラゴンの宣誓証言の後に宣誓証言をしているのである。出典が本当にドラゴンであることは、タウバーもガス処刑について、メンゲレとシャイメッツのコンビを想起させるという事実によって裏付けられている。同様に、ドラゴンは、ソ連の証言の時点では、チクロンBを運んできた赤十字社の車両とされるものについてはまだ何も知らず、後の多くの証言に登場することも明らかである。

このロジックは魅力的だ。もし、ドラゴンがある詳細について言及していなければ、彼はそのことを知らなかったということになる、と。もし、タウバーの証言とドラゴンの証言の詳細が一致するなら、それは一方が他方を盗用したからに違いない、と。うーん。

ところで、マットーニョはなぜか、解放前の証言で同じバンに触れた証言に言及していない。たとえば、レイブ・ラングフス(「歌っている間に赤十字のバンが到着し、ガスが投げ込まれ...」、ベズウィンスカ&チェコ『犯罪の悪夢の中で...』、p.115)やサルメン・ルウェンタールの日記 (耳をつんざくような絶望の叫びと大きな泣き声が聞こえた[...]ひどい[...]彼らは計り知れない苦痛を表現した[...]さまざまなくぐもった声が合流して[...]、人道的赤十字の車が到着するまで地中から進行し、[...]彼らの苦痛と絶望に止めをさす[...]」、と。4つのガス缶を上部の小さな扉から投げ入れ、密閉した後、すぐに静寂が訪れた」、同上、p.146)などである。

そして、マットーニョは、ドラゴンの焼却数の過大な誇張について泣き言を言っているが、もちろん、それは、アウシュヴィッツの目撃者にとっては普通のことであった。なんと言えば? しかし、それはあくまでも予想であり、実際の惨状に即しているとはいえ、噂や希望的観測のフィードバックループに影響されることも少なくない。そして、そう、目撃者はそのような数字を信じることができ、嘘つきではない。結局のところ、彼らは個人的に各死体を数えたと主張したわけではないのだ。

5)同じく不合理なことは、SSが壕の中で燃焼のために死体の人間の脂肪を集めたという主張である。動物性脂肪の引火点は184℃以下であり、乾燥木材の発火温度(325〜350℃)よりかなり低い。一方、死体中の可燃性物質は400〜500℃でガス化(一酸化炭素や炭化水素になる)し始めるので、死体用の燃焼溝では、まず脂肪が燃えることになる。私は一連の具体的な実験で、人間の脂肪を燃料として燃焼させる回復が不可能であることを証明した。

実は、マットーニョはそんなことはしていない。「火葬場からの液体人体脂肪の回収は不可能...」(日本語訳)の記事で示したとおりである。

6)ポーランドの供述では、証人は「ブンカー2」に4つの焼却溝があると述べているが、ソ連の供述では、それを「ガス室No.1」に割り当てている。

このような矛盾については、前述したとおりである。

7)また、2つの「ブンカー」の設置に関する最初の記述は、反復的で無意味なパターンに従っていることに注意しなければならない。「ブンカー1」については次の通りである。

脱衣所 - 500m -「ブンカー」- 500m - 焼跡壕

「ブンカー2」については、以下の通り。

脱衣所 - 150m -「ブンカー」- 150m - 焼却壕

兵站の観点からは、2,000人の裸の人間を野外で500メートル歩かせたり走らせたり、同じ距離で死体を運んだりすることは、ドイツの組織法を強く支持するものではない。

脱衣所とブンカー1の間の500mは、おそらく50mの事務的なミスであろう。一方、ガス室と集団墓地の距離は、無数の要素によって決定されるかもしれないが、そのうちのひとつに過ぎない。プレサックの証拠解釈によると、このケースでは、ブンカー1の墓はビルケンヴァルトにあり、ガス室から300-400メートル離れている(『技術』...162頁(日本語訳))。もしそうなら、ドラゴンの500mはそれほど悪い見積もりではないことになる。ナチスがこれらの墓をビルケンヴァルトに置いた理由が何であれ(最も明白なのは、より高い機密性であろう)、この特別な詳細は、ドラゴンの証言に不利に働くことはない。

8)最後の観察:公式の歴史学によれば、いわゆる「特別部隊」のメンバーは、潜在的に危険な「証人」として、数ヵ月後にSSによって定期的に殺害されたとされている。

ダヌータ・チェヒによると、300人からなる以前の「特別部隊」は、1942年12月3日に「第1火葬場近くのガス室で」ガス処刑され、その3日後に、スラマ・ドラゴンを含む新しい「特別部隊」が編成されたとのことである。この証人は、ポーランド語の供述書で、自分の「特別部隊」がブロック2の近くに収容されていたと述べ、次のように語っている。

「このブロックは閉鎖的なもので、他のブロックとは異なり、壁で囲まれていました。彼らは、他のブロックにいる被拘束者と連絡を取ることを望まなかったのです」

「ガス室No.2」での初出勤の後、病気になった。初仕事の後、彼は病気になったが、ガス処刑される代わりに、バラックNo.2の掃除などの仕事を割り当てられ、1943年5月までそこで働いた。その後、レンガ集めを担当する部隊に異動し、1944年2月まで在籍した。しかし同時に、彼は2ヶ月間「ガス室No.2」で働き、何日か「ガス室No.1」でも働き、最終的に火葬場IVに割り当てられた。ドラゴンは、いわゆる「特別部隊」に1945年1月18日まで在籍し、部隊の他の100人の男たちとともに-危険な目撃者として銃殺される代わりに-徒歩でドイツに送られ(!)、途中で人知れず逃げ出すことができたのだ。

SSの「秘密」の守り方は、不思議なものだったことがわかる。そして、1993年、ドラゴンとその弟のアブラハムが、さらに面白い話をすることになった。

マットーニョの言う神話的な「公式の歴史学」とは何なのか、また誰がそれを主張したのか? また、仮にそう主張する著者がいたとしても、なぜその主張が(神話上の)「正史」の一部となるのだろうか?

このことについて、前掲のモルとの共同尋問でヘスは次のように語っている。

Q. 囚人の火葬場の詳細については、どれくらいの頻度で絶滅させられたのですか?

A. 私が覚えている限りでは、私が最初に出発する前に2回あり、ハンガリー人に対する行動が完了した後に再び絶滅されました。

Q. 誰の命令で囚人を絶滅させたのですか?

A. 私はアイヒマンからその命令を受け取り、彼は特に、炉のコマンドを3ヶ月ごとに射殺するように命じましたが、私はそれが正しいとは考えなかったので、この命令に従いませんでした。

つまり、そのような定期的な絶滅の命令があった(と思われる)のだが、ヘスはそれに従わなかった。そして、そう、ヘスはいくつかのグループが絶滅させられたと述べている。SKの生存者が複数いることと矛盾するのでだろうか? 全くない。例えば、1000人の集団から990人が殺され、10人が何らかの理由で助かったとしたら、その集団は絶滅したと言ってよいだろう。生き残った「古い」SKの中には、(クレマIや1942年のブンカーで働いていた人々の中から)、個々の運命が「ありえない」と考えられるような極めて少数の人々がいたが、「古い」SKの絶対多数が絶滅されたという事実を考慮すると、そのありえなさは消えてしまうのである。宝くじは、ある人が当たる確率は非常に小さいが、必ず誰かが当たる。どんな「古い」SKでも、その生存確率は極めて低いのだが、少数が生き残ったとしても不思議ではない。

スラマ・ドラゴンは、2つの「ブンカー」の位置をおおよそでも特定できるような表示を私たちに与えてくれない。その距離に関する彼の発言は矛盾している(ソ連の供述では3キロメートル、ポーランドの供述では500メートル)。1945年当時、両小屋の位置を確定することは極めて容易であったはずで、その位置は、その近辺にある他の二つの主要な建物、すなわちZentral SaunaとBAIIIの下水処理場の位置との関係で決定できたはずだからである。そのため、ドラゴンは彼の言うような場所には足を踏み入れたこともないと考えるのが妥当であろう。「ブンカー2」に関しては、この疑念が確信に変わる。ビルケナウ収容所周辺のすべての地図には、実際、「ブンカー2」のゾーンに2軒の家があることが示されている。図面2215「強制収容所と捕虜収容所の建設と拡張のための展開図」の二つのバージョンが示すように、「ブンカー2」の東側25メートルほどのところに立っていたこれら二つの家のうちの二つ目は、1943年3月にまだ立っていた。それにもかかわらず、ドラゴンは、「ブンカー2」のすぐ隣にあったことを考えると、はっきりと見えていたはずなのに、供述調書でそのことに一切触れていない。では、なぜ彼はそのことに触れないのだろうか?

バカ丸出しの議論だ。ドラゴンがそんな些細なことを覚えていたとしても(私はそうは思わないが)、なぜ近くの家について言及するのだろう? 場所を特定しようとしたことについては、もしかしたら彼は尋問の後、ソ連の委員会と一緒にそれをやったのかもしれない(だからポーランドの供述はより正確だった)。ソ連からこの問題を問われるまでは、あまり考えていなかったようで、そのため、再現が不正確であることは理解できる。

「ブンカー1」とされるのは、BAIIIの西の囲いから約25メートル、下水処理場と収容所の北西の角の間にある家で、したがって、簡単に識別し説明できる場所にあった。1942年10月5日の「アウシュヴィッツ強制収容所関心領域のサイトマップ1733号」によると、この家の近く、西側には、半径40m以内に、二つの納屋ともう一つの大きな家もあったことがわかる。しかし、ドラゴンは「ブンカー1の周辺には、中央建設部が建てたとされる2つのバラックのほかに、小さな納屋が1つだけあった」と断言している。

確かに、彼は、いわゆる「特別部隊」での活動を1942年12月11日に開始したと言っているが、地図の日付は1942年10月5日であり、その間に状況が変化した可能性もあるのだ。しかし、「ブンカー1」は、1942年3月か5月に絶滅活動を開始したとされていることも事実である。

したがって、二つの可能性がある。一つは、1942年10月以降に状況が変わり、その場合、中央建設部は2つの納屋ともう一つの家を5、7ヶ月間そのままにして、突然、謎の理由で1つの納屋と家を取り壊したか、もう一つは状況が変わらなかった-しかしその場合、スラマ・ドラゴンは「ブンカー 1」の地域に足を踏み入れることがなかったのだ。二つの可能性のうちどちらが正しいかは、アンジェイ・ストゼレツキが語っているように、この証人は、ソ連調査委員会の審理に立ち会っていたにもかかわらず、「ブンカー1」(あるいは「ブンカー2」)の場所を特定できず、その特定にも協力できなかったという事実からもすぐにわかるだろう。

率直に言って、これは面白くもなんともない。この騒ぎは、ドラゴンがほんの二、三の事柄を覚えていたかどうかということか? 信じられない。しかし、最後の告発は深刻だ。そこで、7.2章(pp.158ff)に飛び、より詳しく説明することにしよう。

ソ連が「バンカー」を史実として立証するために解決しなければならなかった最も重要な問題は、2つの「コテージ」の位置であった。

第5章と第6章で見たように、戦時中のすべての証言とスラマ・ドラゴンの2つの供述書(1945年2月26日のソ連のものと5月10-11日のポーランドのもの)は、この点に関してきわめてあいまいなものである。

ソ連は、「ブンカー」の位置を決定する仕事をポーランド人技師-オイゲニウス・ノザル-に託した。この人は、後にドラゴンのポーランド語供述書に添付された「ブンカー」の3枚のスケッチを描いた人と同じである。1945年3月3日、ノザルはビルケナウ収容所の西側部分の二つの地図を描いた。

第一は、「死体焼却のための部屋と火葬場の位置の地図」である。この地図では、「ガス室2」(文字Kで識別)は、のちに公式になる場所、すなわち、ビルケナウ収容所の西側フェンスの西200メートル、Zentral Saunaと火葬場IVの間の高さにある場所にある。「ガス室1」(同様にKの文字で示されている)も同様に、収容所の外、BAIIIの北の囲いから280m、二つの沈殿池に垂直なところにある。

ソ連が2つの「ブンカー」の場所を特定した根拠は何だったのだろうか? 5日前に行われたスラマ・ドラゴンの供述を使ったと考えるのが普通だろう。しかし、これは非常にあり得ないことである。ドラゴンは「ブンカー」についての供述で、多くの詳細を述べているが、2つの「コテージ」の位置は大まかにさえも示していない。結局、「ブンカー2」はZentral Saunaの西250メートル(またはそれに沿った囲いから200メートル)にあり、「ブンカー1」は(問題の地図によれば)BAIIIの北、囲いから300メートル未満のところにあると言うことは非常に簡単であったろう。スラマ・ドラゴンにとっては、ソ連の尋問官に同行して2つの「コテージ」が建っている現場に行くのはもっと簡単なことだったのだろう。そうすれば、地図上に配置するだけでよかったのだ。しかし、この地図では、2つの「ブンカー」とされる地点の距離は、飛行機で飛ぶと約1,100メートルで、実際の距離は約900メートルで、スラマ・ドラゴンのソ連の供述書の3キロともポーランドの供述書の500メートルとも一致しないのだ。ドラゴンは明らかに「ブンカー」の場所について何も知らない。

マットーニョは、「スラマ・ドラゴンの供述を利用したと考えることもできる」「スラマ・ドラゴンがソ連の尋問官に同行して、二つの「コテージ」が建っていた場所に行くのはもっと簡単だっただろう」と藁人形を用意している。しかし、マットーニョは先に引用した文章で、ドラゴンは委員会の議事に出席していたと書いている。では、彼はその場所を探そうとしたのだろうか? 明らかに、そうだ。従って、先の尋問で彼が何を言ったか言わなかったかは、この問題とは無関係である。

確かに、ノザルの地図では、ブンカー1の位置は現在想定されている位置と異なっている。時間が経過し、記憶が薄れ、周囲の環境が変わり、ガス室そのものがもはや存在していない(その基礎も、おそらく地上の痕跡もすべて。少なくとも、ブンカー2については、家そのものと脱衣バラックの地上の比較的新しい痕跡を見ることができたが、1944年末に取り壊されてしまった)ので、目撃者と一緒にいても、間違いは起こりえた(そして起こった)のである。

ノザル技師が複写した1943年6月の地図No.2501には、収容所の囲いの近くに、ソ連が二つの「ガス室」と認定した二つの家屋だけが描かれている。

このことは、2つの「ブンカー」の位置の根拠が、目撃者とされる人たち(まず、スラマ・ドラゴン)と一緒に行った現地調査ではなく、単なるデスクワークから生じたものであることを示している。

このロジックに従うかどうか、自信がないが、これが何を示しているのだろうか?

そして、実際、番号も日付も不明だが、1944年のものであることは確かな別のドイツの地図には、ソ連が色鉛筆で、4つのゾーンを探し、そのうちの2つが火葬場II-IIIとIV-Vに関するものであった。
他の2つは、地図の余白に糊付けされたシートに次のように記述されている。

「青い円内:独立したガス室と、その隣にある死体火葬用の積み薪の位置」

最初の円は、Zentral Saunuaの西側にある領域で、ノザル技師が描いた地図に「ガス室」2号とその火葬壕の領域として示されているものと隣接しているが、それとは異なっている。第二の円は、収容所内の、入植施設と西側の囲いの間の地域を含んでいる。したがって、2つの異なる地図で、ソビエトは「ブンカー1」と「ブンカー2」を異なる位置に配置したのである。

収容所の解放から一ヶ月足らずで、SSが残した痕跡がまだそのまま残っており、「ブンカー」で本当に働いていた者であれば、簡単に特定できたであろうこの大きな不確実性は、実際には、目撃者とされる人々、とりわけスラマ・ドラゴンをはじめとして、誰も、絶滅施設の場所について何も知らなかったことを証明している。

ああ、純粋無垢な肥料の匂いだ!

地図上のマーク(グラーフ f.7021, op.108, d.36, l.31 - not l.29, contra マットーニョ)には日付が入っていない。署名もない。印の作者は不明。これらのことは、地図に添付された小さな紙片(ibid., l.30)にも当てはまる。では、マットーニョはその存在からどのような結論を導き出すことができるのだろうか? 解放後の最初の数日間、詳細がごく大まかにしかわかっていなかった初期調査中に、赤軍調査官(特別委員会のメンバーと混同してはならない)が作成したものかもしれない。この地図が何のために作られたのかはわからない。ある日付の知識の状況、そしてさらなる研究の計画であったかもしれない。すべてのガス室の正確な位置を示す最終的な試みであったことを示すものは何もない。どのような目撃者がこのスケッチのために情報を提供したのかわからないし、ドラゴンや他の多かれ少なかれ知識のある目撃者がその作成に参加したという証拠もないのである。

マットーニョは、わずかな証拠から大げさな結論を導き出す。彼の一般的な手法の良い例である。

そしてマットーニョは、ノザルが描いたブンカー2周辺のスケッチとメモについて説明する。

下部の凡例にはこうある。

「ドイツ軍がガス室で毒殺された人々の死体を薪で焼いた場所。5,900平方メートル」

[...]
地図の中央に見える30平方メートルの盆地("бассейн")は、1945年3月には地上に存在していたが、ドイツの地図には一切記載されていない。しかし、これも長辺が北東ではなく北西にあったため、間違った描画になっている。しかも、この盆地は、地図に示された唯一の溝である。長さ30-35メートル、幅7-8メートル、深さ2メートル、総面積1,260平方メートル以上の6つの墓が、5,900平方メートル弱の区域にあったとすれば、たとえ埋められ、平らにされていたとしても、跡形もなく消えるはずがないことは明らかである。したがって、ノザルの図面は、「ブンカー2」の近くに6つの火葬場が存在するというドラゴンの主張に対して、断固として反論しているのである。

しかし、この議論もまた、何のメリットもない。ノザルのスケッチ(212頁参照)の凡例は、この地域全体を、「ドイツ軍が死体を焼いた場所・・・」と述べているわけではない。これは文書のタイトルではなく、まさに凡例であり、したがって、このテキストの左側には、スケッチ上のクロスハッチングされた部分を指していることがわかるが、それはブンカー2の領域の大部分を占めており、ノザルの計画によると、全部ではないが、ブンカー2「五角形」の領域のほとんどが何らかの形で焼却に使われたことを示している(おそらくノザルは地上火葬も使われたと考えていたのであろう)。同じプランがプレサックの『技術』(p.180)にも掲載されているが、再現性が非常に悪いので、ハッチングが見えない。

ノザルは、個々のピット(どうせその時点では存在しないピット)の輪郭を描かず、大まかな焼却地域を示すことにしたのである。このことを考えると、ノザルの地図に基づいて、ピットの存在の有無について結論を出すことはできない。したがって、この問題については、ノザルとドラゴンの間に矛盾はない。

さて、少し戻って、P.128を見てみよう。

6.4.6. スラマ(シェロモ)とアブラハム・ドラゴンについて、ギデオン
グライフは、1993年の夏にインタビューしたこの二人の兄弟の天才的な記憶力に感嘆の意を表している。

「兄弟そろって記憶力に優れている」

しかし、21年前、ウィーンでのデジャコ裁判の第26回(1972年3月2日)で、前日、クレマトリウム1と「ブンカー2」を混同したスラマは、認めざるを得なかったのだ。

「30年後の今日、(そのことを)思い出すことができない...」

ところが、1972年には思い出せなかったことを、1993年に奇跡的に思い出したのである! このように、ギデオン・グライフを驚かせた驚異的な記憶力は、今回、スラマ・ドラゴンがより注意深く、1945年のポーランド語の供述書を読み直したことに大きく依存している。インタビューはビルケナウで行われ、供述書はアウシュビッツ博物館に保管されていたため、このようなことが容易にできたのだ。

マットーニョが1972年の裁判での短い引用を、いかにプレサックだけに頼っているかに注目したい(脚注431)。ここで疑問が生じる。なぜマットーニョは、ブンカー問題についての資料が大量にあるこの裁判を無視したのだろうか? これだけでも、彼は自分ができない仕事をしようとするアマチュアであることが明らかになる。

目撃者が30年後に何かを覚えていないことは、超自然的なことではない。それにグライフはドラゴンの記憶について勘違いしていたかもしれない、これはとにかく関係ないことだ。しかし、ドラゴンは本当にブンカーとクレマIを混同したのだろうか、それとも、ブンカーを「火葬場」と呼んだだけなのでしょうか?、これは、他の証言(アウシュヴィッツに関するものだけではない、を参照)にも見られる、ちょっとした語彙上の奇妙さに過ぎないのである。例えば、ペリー・ブロードは1946年03月02日のテッシュ裁判の際に次のように語っている(NI-11954)。

火葬場は1号、2号、3号、4号、5号がありました。 [...] 5号にはガスストーブしかありませんでしたが...。

文脈(火葬場1と2、3と4の対)から、ブロードがブンカー2/5を「火葬場5号」と呼んでいることは明らかである(「ガスストーブ」はもちろんガス室のことで、「ガスオーブン」ミームに従った誤訳の可能性もある)。ポーランドのドキュメンタリー映画「Z Kroniki Auschwitz」のパート5(註:このリンクはすでに存在しない)で、ヘンリク・マンデルバウムはこう語っている。

Eszcze dwa krematoria, tak zwany Bunkry - domik bialy, domik czerwony - za krematoriem numer piec.

火葬場No.5の裏には、さらに2つの火葬場、いわゆるバンカー(白い家、赤い家)があります。

もちろん、彼らはブンカーが厳密には火葬場でないことを知っていた。これらは、単純なメトニミー(隠喩)のケースである。では、1972年のドラゴンも同じことが起こったのだろうか? なぜマットーニョは、裁判記録を見ながら、そのような可能性を探らないのだろうか? なぜ、彼はプレサックの解釈を検証しないのだろうか?

ニコラス・テリー博士のおかげで、裁判のセッションの抜粋を手に入れたので、この問題を少し探ってみよう。ドラゴンの証言の初日に関して重要なことは、ヘブライ語の翻訳者がいなかったことである。それが問題になったのは最後の方で、理解しにくいことを明確に認識し、翌日の通訳を指名したことである("Wegen Schwierigkeiten in der Verstaendigung in deutscher Sprache unterbricht der Vorsitzende die Vernehmung zur Beiziehung eines Dolmetsch fuer die hebr. Sprache. Nachdem eine sofortige Beiziehung des Dolmetsch Dr. Ader nicht moeglich ist, erfolgen Verlesungen.")。

どうやら、ドラゴンはドイツ語の「実用的な知識」は持っていたようだが、明確に証言するには不十分であったようだ。以下は、彼が1日目にガス室について語ったことである。

Ich arbeitete zunaechst in einem Krematorium welches ein kleines Gebaeude war in dem sich eine Gaskammer befand. Das Dach bestand aus einer Strohdecke. In der Naehe dieses Hauses stand eine Baracke. In dieser Baracke waren Kleider von Leuten abgelegt die sich vorher dort ausgezogen hatten. [...] Dieses Gebaeude war aussen weiss.

[最初は火葬場で働いていました。小さな建物で、その中にガス室がありました。屋根は藁でできていました。この家の近くには、バラックがありました。このバラックには、そこで服を脱いだ人々の衣服が残されていました。[中略)この建物は外側が白かった]

Ich habe in Krematorium I gearbeitet. [...] Es gab dort eine Gaskammer. Es war noch kein Krematorium. Auf den Eisenbahnschienen haben sie die Leichen zu den Gruben gebracht und dort Verbrannt.

[私は、第一火葬場で働いていました。まだ火葬場ではありませんでした。線路の上で、死体がピットに運ばれ、そこで焼かれたのです]

Vors.: In diesem Haus war nur ein Gasraum?
Zeuge: Ja.

[裁判長:この家には、ガス室しかなかったのですか?
証人: そうです]

だからドラゴンは、この「火葬場」が実は火葬場そのものではなかったと明言しているのである。プレサックとは逆に、ドラゴンはブンカー2と第1火葬場を混同していたわけではないし、特に第1火葬場には入ったこともない。「火葬場」の使用は、前述の通り、メトニミーの一例である。

ドラゴンは確かに30年経つと細かいところが分からなくなった。彼は、おそらく「ブンカー1」と言いたかったのだろうが、ブンカー2の特徴、つまり藁の屋根のある白い家について述べているのである。彼は1972年までに、実に多くのことを忘れている。また、家の中の「ガス室」という話は、これから見るように、ガス処刑のための一つの部屋を意味しているのではないことに注意しなければならない。むしろ、(オーブンのある火葬場とは対照的に)建物の機能を述べているのである。

この日、ドラゴンへの最後の質問は、他のバンカーにも入ったことがあるかというものだった。ドラゴンの答え。

Ich habe alle vier gekannt. Im Bauernhaus gab es nur eine Gaskammer.

[私は4人とも知っていました。農家にはガス室があるだけでした]

この時点で、前述の言葉の問題から翌日まで取調べは中断された。ドラゴンの最後の答えが何を意味するのかは不明だが、どうやら何らかの行き違いがあったようだ。ひとつには、投げかけられた質問に答えていないように見えるからだ。もしかして、前の質問の答えの続きで、「私はビルケナウの4つの火葬場をすべて知っているが、それらと違って農家はガス室としてしか機能しなかった」というような意味なのだろうか?

3月2日、ドラゴンは、今度は通訳を伴って証言台に戻った。彼は、自分が1942年にアウシュビッツにやってきて、ゾンダーコマンドに選ばれたと説明した。

Damals hat es noch kein Krematorium gegeben. Es hat nur eine Gaskammer bestanden und zwar war diese Gaskammer in einem Haus mit mehreren Raeumen. Das Haus hatte ein Strohdach in Giebelform. Ich glaube dieses Haus das damals zu einer Gaskammer eingerichtet war, hatte zwei oder drei Raeume. Mit Sicherheit kann ich das heute jedoch nicht mehr sagen.

[当時はまだ火葬場はありませんでした。ガス室があり、このガス室は、いくつかの部屋がある家の中にありました。その家は、切妻の形の藁葺き屋根を持っていました。当時、ガス室として設置されたこの家は、2つか3つの部屋を持っていたと思います。今日、これ以上はっきりとしたことは言えません]

[...]

Ich kann mich heute nach 30 Jahren nicht mehr erinnern, wieviele Raeume diese Haeuser hatten. [...] Die Tueren waren hermetisch abgedichtet und es gab nur ganz kleine Luken durch die das Gas eingeworfen wurde.

[30年後の今日、この家にいくつの部屋があったのか、もう思い出すことができません。[...]ドアは密閉され、ガスが投げ込まれる非常に小さなハッチがあるだけでした]

農家を1軒か2軒見たか、という質問に、ドラゴンはこう答えた。

Ich kann mich beim besten Willen nicht mehr an dieses zweite Bauernhaus erinnern. Es ist schon 30 Jahre her.

[この2軒目の農家については、どんなに頑張っても思い出せません。あれから30年も経っています]

1945年にポーランド人の尋問で描かれたスケッチを見せられたが、覚えていない。そして、火葬場が完成した時点で家屋は機能しなくなったと言った。1945年の証言が認められるかどうかの議論の最中、ドラゴンは泣き崩れ、弟が薬を飲ませることになった。医師から証言不可能と宣告された(vernehmungsunfaehig)。このような心理状態が、1972年の証言の質を低下させたもう一つの理由である。

このように、ドラゴンがブンカーと火葬場を混同していたと考える理由はないが、残念ながら1972年の時点で、多くの重要な詳細に関する彼の記憶力は、すでに極めて低下していたのである。そう、だから、1993年のインタビューでは、ドラゴンは絶滅のプロセスの詳細について、ポーランド人の証言に頼っていたのである。

そして、マットーニョは、ギデオン・グライフがドラゴン兄弟に行ったインタビュー記事を引き裂こうとする。というのも、年齢とともに記憶が薄れ、不正確な部分が積み重なっていくのは、先ほど見たとおりだからだ。「修正主義者」の仕事は、後期の証言があればはるかに容易である。しかし、ここでもマットーニョの批評は公正でバランスのとれたものとは言いがたい。

しかし、この2人の兄弟は、収容所でのSSの公式イメージと激しくぶつかる発言をしているのだ。1942年12月9日にいわゆる特別部隊に配属され、翌日から「ブンカー2」に連れて行かれた。しかし、その日、スラマはガラス片で手首を切って自殺を図り、仕事を続けることができなくなった。特殊部隊の被拘束者が収容されている第2ブロックに搬送された後、次のようなことがあった。

「そのために、病人や弱者が選ばれるのです。幸いなことに、私は傷病者と弱者に属していたので、選ばれたのです。私は、弟にも部屋割りをするように頼みました[...]ので、私たちは第2ブロックにとどまり、仕事に出ることはありませんでした」

それゆえ、スラマは、SS大量殺人の危険な目撃者であり、そのうえ、働くことができず、弱っていたので、「ガス室」に「選ばれなかった」だけでなく、医療を受け、兵舎の清掃に移され、さらには、弟を同じ仕事につかせることができたのである! 

状況をもう少し説明するために、ドラゴンは以下のように割り当てられた『We wept without tears(私たちは涙を流さずに泣いた)』P.143)。

シェロモ: [...] ブロックに着いて間もなく、ブロックの長老が数人をバラックの部屋当番にするように命じられました。

アブラハム:ブロックは4つの棟に分かれていて、各棟に2人ずつ兵舎当番が配置されていました。

シュロモ:病人や弱者がこの仕事に選ばれました。幸いなことに、私は傷病者と弱者のグループに属していたので、選ばれたのです。弟も兵舎に配属するように頼みました。

[...]

シェロモ: [...] 全部で8人の男がこの仕事に選ばれたので、私たちは第2ブロックに残って、仕事に出かけませんでした。

2日目は、他の200人が働きに出ている間、あなたはブロックの中にいたのですね?

アブラハム:はい。

もしそうなら、遺体の火葬は1日だけで、2日目からはゾンダーコマンドブロックのバラックルーム勤務になったと。

シェロモ:でも、大量輸送が始まると、私たちも居住区の外での作業に参加しなければなりませんでした。

シュロモさん、あなたの兵舎での仕事はどんなものだったのですか?

シュロモ:外に仕事に行った人の部屋を掃除し、ベッドメイキングをし、床を整え、食事を運んで配り、調理器具を中央食堂に運び、皿洗いをしなければなりませんでした。すべてがきれいに整頓されていなければならないのです。

さて、ゾンダーコマンドにそのようなバラック清掃員が存在したことは、まったくもっともなことであり、また、弱い選抜兵がガス処刑ではなく、初日からこの任務に就いたという事実もあるのだ。何かと衝突することはまったくなく、ましてや、神話的な「公式イメージ」と衝突することはない。

そして、アブラハムも驚くような話をする。

「坑道で作業をしていると、看守が仲間の一人を殴りました。私たちは道具を捨てて、もう働かないぞと宣言しました。こうして、小さな反乱を起こしました。それでどうなったか? 彼らはすぐに上官を呼びました。ヘスラーという人がやってきて、どうしたのかと聞いてきました。私たちは、このひどい仕事をしている間に、ブーツまで殴られるようになった、と言いました。彼らは私たちを殺すことができたが、私たちは仕事を続けることができません。ヘスラーは私たちをなだめ、もう殴られることはないと言ってくれました。

彼はすぐに追加の食料を注文し、私たちに持ってきてくれました。そして、もう叩かれなくなったのです」

したがって、この特殊部隊の反乱は血で溺れることなく、むしろヘスラーは、どうせすぐに殺される運命にあると言われるユダヤ人たちの反乱軍の要求を冷静に受け止めたのである!

そして、アブラハムの話のどこが、具体的に驚くべきことなのだろうか? ヘスラーは、優秀なマネージャーなら誰でもすること、つまり作業員の合理的な要求を満たした。このようなSKをガス室に送るのは、馬鹿馬鹿しくて逆効果だ。理論的には使い捨てだが、ヘスラーのソリューションは実用的で、より効率的だった。アブラハムの話は、とても説得力がある。

アブラハムは、マイダネク収容所で殺害される予定の特別部隊の収容者200人の「選別」からの逃亡について、次のように語っている。

「病気になったのです。SSはこの輸送が死にに行ったことを明らかにしたくなかったのです。だから、「病人は連れて行かない。君はここに残らなければならない。そこでは、働ける男が必要なのだ」と」

公式見解によれば、アウシュビッツの登録収容者は病気であったために殺されたが、一方、スラマとアブラハムは、SSによる大量殺人のより危険な目撃者として、まさに病気であったために救われたのだ! ここでは、逆の「選択」がなされている。

「公式見解」はマットーニョの熱狂的な想像力の中にしか存在せず、兄弟の最初の生存については、すでにもっともな説明がなされている(上記参照)。ルブリンへの移送の背後には、確かにアブラハムの説明した論理があったのだろうか。本当のところはわからないし、目撃者の推測を打ち砕くことは英雄的な偉業とは言いがたいが、ここでもアブラハムの推論は論理的にもっともらしいと言える。だから、マットーニョに残されたのは、あざ笑うことだけだ。そして彼は続ける。

「選抜者」の行き先について、エイブラハムはこう明かす。

「彼らは彼らをルブリンに連れて行き、鉄道車両に閉じ込めて、どうにかして(どうやってか知りませんが)ガスを注入したのです」

全く新しい絶滅方法だ!

欠伸がでるなぁ。とにかく彼は目撃者だとは言っていない。しかし、以下を見て欲しい。

その上、ポーランドの公式宣伝は、彼らをルブリン・マイダネクではなく、シュトゥットホーフに行かせるのである437。
[...]
437 参照、C. マットーニョ、J. グラーフ、『シュトゥットホーフ強制収容所と国家社会主義者のユダヤ人政策におけるその機能』Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 69-73.

ここでマットーニョは絶望的なまでに混乱してしまう。彼とグラーフのシュトゥットホーフについての本の69-73頁には、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドがシュトゥットホーフに到着したことについては、まったく何も書かれていない。唯一類似しているのは、鉄道車両内でのガス処理の疑惑である。この点については、2つの点を指摘しておく必要がある。

  1. アウシュヴィッツからルブリン(マイダネク)への約200名のゾンダーコマンドの移送は、(半「修正主義者」の言葉を使えば)よく知られている「伝統的主張」である。マットーニョはこのことを知っているのだろうか? もしそうなら、なぜ彼は上記のような誤った発言をするのだろうか? もし、そうでなかったら...まあ、控えめに言って、彼は他人に思わせたいようなアウシュビッツの専門家ではないのだが。200名のSKの移送については、チェヒの『アウシュヴィッツ・クロニクル』588頁、ベズヴィンスカとチェヒの『犯罪の悪夢の中で』167頁のルウェンタルの日記、同書のヤンコフスキの58頁、その他を参照のこと。

    余談だが、主張された期間中、ゾンダーコマンドが約200名削減されたことは、文書証拠によって確認されている。1944年2月15日の「Uebersicht ueber Anzahl und Einsatz der Haeftlinge des Konzentrazionslagers Auschwitz II(強制収容所アウシュビッツⅡの囚人数と用途の概要)」という見出しの報告は、「Krematoriumspersonal」カテゴリーに405名を記載している(グラーフ f.7021, op.108, d.33, l.124ob).また、1944年2月15日の数字の前に、1944年2月29日の報告書(おそらく残存していない)のデータが鉛筆で書かれている(同じ方法が1944年1月31日の報告書、同書、l.122obにも見られる;鉛筆で書かれた数字は1944年2月15日の報告書の数字に対応している)。未来」報告にある「Krematoriumspersonal」の人数は186人である。こうして、2週間で、ゾンダーコマンドのメンバーの数は200名以上減少したのである。チェヒの『アウシュヴィッツ年代記』44年4月25日の記述では、SKの数はまだ207名と少なく、近くの日付のArbeitseinsatz報告は214名としている(C. マットーニョ、 『アウシュヴィッツ:野外火葬』、p. 80も参照)。

  2. アブラハムは、人々が鉄道車両の中でガス処刑されたことを実際に暗示していたのだろうか? ヘブライ語からのドイツ語訳はそのことを暗示しており、このドイツ語訳の英訳が上にある。そして、これは原文のヘブライ語から直接訳した英語版である(『涙を流さず泣いた(We wept without tears)』、p.147)。

    「彼らは密閉された鉄道車両でルブリンに運ばれ、どういうわけかガスで殺されたのです」

    ちょっと違っている。どちらの訳が原文に近いのだろう? というのも、ここにあるのは、マットーニョが何らかの理由で省略した、主張の前の文章だからだ。

    「しばらくして、追い出された人たちがルブリンの火葬場で殺されたと聞いた」

    鉄道の車内に閉じ込めたまま、火葬場で集団で殺すのは大変だ...

そして、マットーニョはドラゴンがバンカーで働いていた期間が短かったことに文句を言い、こう指摘する。

しかし、その驚異的な記憶力のおかげで、ポーランド人とソ連人に、すでに述べたような詳細な記録を残すことができたのだ。

しかし、ドラゴンがブンカーに短期間滞在していたことは、実は彼の初期の証言の不明確さやいくつかの矛盾を説明するのに役立っている。

そして、その行進が「雪の上」を通ったことを確認している。これは、アウシュヴィッツの12月の一ヶ月間としては、まったく普通のことである。しかし、それでは、地下水、薪の凍結、雪の中、さらに雪が降っている中で、4つの火葬ピット(約20×7-8×3m)はどのように運営されたのだろうか?

しかし、マットーニョは、なぜそうできなかったのか、その理由を説明していない。

さらにスラマ氏は、ガス処理の後「ドア」が開くと、「ガスの甘い味を感じた」とも言っている。どうやら、シアン化水素は苦いアーモンドの匂いがして、甘くはないことを誰も教えてくれなかったようだ。

またしてもマットーニョの逸品が登場した。アーモンドの味は苦いので、香りが甘くなるはずがない? 苦いものから甘い香りがするわけがないから? とかなんとか。AIHA衛生指針からの引用(シアン化水素の労働衛生指針 http://www.cdc.gov/niosh/docs/81-123/pdfs/0333.pdf から)。

HCNの臭いは通常「甘い」と表現されるが、訓練された人は苦いアーモンドの臭いと表現し、約1ppmで検出できる。

そして、J. B. Sullivan, G. R. Krieger, Clinical environmental health and toxic exposures(臨床環境衛生と有害物質への暴露), 2nd edn., 2001, p.705 がある。

シアン化水素[...]は、ビターアーモンド、甘い、刺激的、または金属的とさまざまに表現されるかすかな臭いがある。

明らかに、誰もドラゴンに何も言う必要はなかったのだ。そして、マットーニョは本当にHCNを吸った方がいいようだ...

さて、7.5章(160ff)では、マットーニョがドラゴンをヨゼファ・ヴィシンスカに対抗させようとしている。マットーニョがどこで間違ったのかを理解するために、以下の点に注意する必要がある。マットーニョの批評は2枚のスケッチに関するものである。

S1. S.ドラゴンの記述に基づき、E.ノザルが1945年に描いたスケッチ。

S2. この家の正式な所有者であるヨゼフ・ハルマタの姪、ヨゼファ・ヴィシンスカの記述に基づき、1980年に描かれたスケッチ。

どちらのスケッチも、家を正確に描いたとは言い難く、明らかにラフで模式的なものである。S2のみ、家の寸法が9x12mでありながら、家はS2のほぼ正方形で、スケッチの近似性を強調している。マットーニョは。

すでに説明したように、ノザルの絵の向きは西-東である。J. ヴィシンスカの申告書に添付された2枚のスケッチも同じ方向である。しかし、ヴィシンスカの図面では、長辺が西東の軸に沿って配置されているが、ドラゴンのスケッチでは、代わりに南北に配置されている。

マットーニョはP.75でS1の向きについて主張しているが、それを証明することはなかった。しかし、それが正しいと仮定しても、両方のスケッチが模式的であることを考えると、これは大きな矛盾とは言えない。

さらにこのスケッチには、S1とS2という2段の階段が描かれており、それぞれ8段と7段で構成されている。したがって、この家の床は地面から約1.5メートルの高さにあり、J.ハルマタの家の床は地面と同じ高さで階段もない。

ドラゴンは、証言の中で階段について触れていない。しかし、ノザルは、ドラゴンが階段に名前を付けていることから、この情報を口頭で受け取ったことは間違いない。しかし、スケッチS1の段数もドラゴンから提供されたものであるというマットーニョの仮定は根拠がない。ノザルは、段数を自分でランダムに描いたかもしれないのである。そして確かに、この階段の高さに関するマットーニョの仮定は、利用可能な情報からはさらに根拠が乏しい。それと同様に、非常にラフなスケッチであるS2に階段が描かれていないからと言って、現実には階段がなかったとする考え方も根拠のないものである。ヴィジンスカはおそらく、そのような二次的な細部を提供しなかった(あるいは覚えていなかった)のであろう。

西側の2部屋と東側の2部屋は、南北に走る廊下で隔てられており、同じ大きさの4つの部屋に分かれていた。この家をドラゴンが説明し、ノザルが描いた「バンカー1」にするためには、まず、廊下に沿った四方の壁、つまり家の両側の部屋を仕切っていた二つの壁を取り壊し、数メートル離れて、大きさの違う二つの部屋を得るために作り直さなければならなかったのだ。

この議論は、前提条件に基づいている。a) S2 は互いの部屋の正確な比率を示しているが、家の長さと幅の正しい比率が示されていないことを考えると、これはおそらく正しくない。; b) S1が二つのガス室の正確な比率を互いに関連づけて示していること。確かにS1のチャンバーの大きさは微妙に違いうが、これはドラゴンの仕様で意図的に導入したものなのか、それともランダムな変動なのだろうか? したがって、マットーニョの主張は二重の意味で根拠がない。

しかも、この「ブンカー1」には、合理的な絶滅作戦とは逆行する2つの特徴が見られる。まず、2つの部屋にはそれぞれ1つのドアと2つの小さな窓が設けられていた。したがって、ドアと2つの窓を開けることで得られる換気量は微々たるものであった。このことは、北側の部屋のドアと窓が同じ壁面にあったことで、よりいっそう証明された。
効率よく換気しようと思えば、たとえ無能な技術者であっても、2つの扉を反対側の壁に設置するはずだ。
また、扉が1つしかないことは、部屋からの死体の片付けに支障をきたすことは明らかである。

この議論は同じ章にあるが、ヴィシンスカとは関係ない。とにかく、ドラゴンがポーランドの宣誓供述書で述べたブンカー1には、上記のマットーニョが述べたような、ある種の非効率的な特徴があることは事実であろう。しかし、ソ連の尋問でドラゴンはブンカー1の各部屋にドアが2つあると説明していたことに注目すべきだろう。どちらのバージョンが正しいのだろう? 本当のところはわからないし、2回目の供述が必ずしも正しいとは考えない方がいい。また、非効率であることは非存在の論拠にはならない。後のチャンバーはより効率的であった。ブンカーは、どうせ技術者の意見をあまり聞かずに改造したのだろう。

第二の詳細は、上述の二段の階段の存在であるが、これは、「ガス室」からの死体の搬出を促進するものではないことは確かである。

確かにそうだが、階段があったために撤去がひどく妨げられたということはどちらもわからない。また、この階段についてのマットーニョの仮定については、上記を参照して欲しい。

結論として、私はこう言える。マットーニョの批評は、ほとんど何のメリットもない。彼の分析にはひどい間違いがあり、それは目撃者なら許されるかもしれないが、すべての資料を自由に使える学者とされる人物からすれば許しがたいものである。シュロモ・ドラゴンの様々な証言を見比べてみると、彼は確かに完璧な証人ではなかったが(そんなものがあるのか)、1945年には、ある粗削りな部分はあるものの、良い証人であったことがわかる。裏づけとなる証拠がない以上、ガス室の具体的な詳細に関する彼の記述に過度に依存すべきではないが、彼が記述した全体像が正確であることに疑いの余地はない。

(投稿者:セルゲイ・ロマノフ、2010年1月4日)

ルドルフ・ヘス

マットーニョは、ルドルフ・ヘスの供述は「不合理で矛盾している」と主張しているが、ジョン・ジマーマンがヘスのユダヤ人問題の最終解決に関する原稿の記述のいくつかを調べたところ、「入手できるすべての証拠に基づいて、ヘスの回想録はその全体的真実に関して非常に信頼できる」ことがわかった日本語訳)という。この記事は1999年5月からホロコースト歴史プロジェクトのウェブサイトで公開されているが(このサイトは、過去にジマーマンの後の記事に返信しているので、マットーニョはよく知っている)、ATCFSではマットーニョはもちろん、引用さえもしていない。

証言の中で、ヘスはいくつかの出来事の年代と文脈を混同していた。最も顕著なケースは、アウシュヴィッツにおけるユダヤ人問題の最終解決の発端に関するものである。現在では、ヘスは1941年夏にヒムラーのもとに呼び出され、アウシュヴィッツでのヨーロッパ・ユダヤ人絶滅命令を受けたのではないことが、十分に立証され、受け入れられている(ライトリンガー、『最終解決』、1979、p.114;プレサック、『アウシュビッツの火葬場』;ダワーク、ヴァンペルト、『アウシュビッツ 1270年から現在』;オース、『ルドルフ・ヘスと「ユダヤ人問題の最終的解決策」』)。おそらく、彼は1942年夏の出来事(ワルシャワ・ゲットーや東部に存在する絶滅収容所での処刑に言及していることから示唆される)に言及し、その1年前の出来事と解釈し直し、1941年秋以降の他の出来事と合体させたのであろう。極端な考えとしては、ヘスは、1942年夏以前のアウシュヴィッツでのユダヤ人殺害を正当化するために、意図的・意識的に嘘をつき、すべてのユダヤ人を絶滅せよという命令を前方にずらしていたのである。もう一つの極端な考えでは、彼は、出来事の順序と文脈について、純粋に混乱していたのだ。真実はこの両極端の間にあるのかもしれない。


註:ルドルフ・ヘスの記憶が混乱している、という説で説明されることが多いこの件なのですが、実際、回想録の記述自身が内部で矛盾しているので読んでるこちらが混乱します。ヘスは、証言や回想録で、ユダヤ人絶滅(準備)の命令をヒムラーから受けた時期を「1941年夏」としていて、ヒムラーはアイヒマンをアウシュヴィッツに派遣、ヘスと二人で場所と殺害方法の選定を話し合った、しかし当初は処刑方法のガスを決められなかった、と書いています。そして、アウシュヴィッツでのガス処刑に用いられるチクロンBがヘスの公務旅行中に司令官代理を務めていたカール・フリッチュによって、基幹収容所の11ブロックでロシア兵捕虜を使って初めて実験的に用いられます。これが1941年9月初頭です。ヘスは公務旅行から収容所に戻ってフリッチュから報告を受けます。この時点でアウシュヴィッツで持ちいる処刑用ガスはチクロンに決まったはずで、同月後半には11ブロックからガス処刑場所を火葬場に変更しています。ところが、自叙伝の続く部分を読むと同年11月、ヘスも参加したベルリンでのアイヒマンらとの会議で、まだアイヒマンはガスを決められないでいた、と書いているのです。これは完全にヘスの言っていることが矛盾しているとしか言いようがありません。さらに、前述したチクロンを用いた最初のガス処刑の後、時期は不明ですが、アイヒマンがアウシュヴィッツに来た時にチクロンの使用報告をアイヒマンに行って、チクロンに決定したとも書いてあるので、読んでて「はぁ?」となってしまいました。長い自叙伝の中のほんとに近接した箇所での話です。このガス選定の話が、ラインハルト絶滅収容所の時期の矛盾話以上にわけがわかりません。正直、自伝の日本語訳がおかしいのではないか? と疑わざるを得ないほどです。また、ユダヤ人絶滅がビルケナウのブンカー1で始まるのは翌年の春頃なので、それまでにガスが選定されていなければおかしいのです。したがって、ヒムラーのユダヤ人絶滅準備命令から始まる話なので、その1942年の春までにヒムラーの命令がなければならないのに、ある歴史家はヘスがヒムラーからユダヤ人絶滅の命令を受けたのは1941年ではなく、1942年の間違いだろう、などと簡単にいうのです。そんなはずはありません。もしそうなら、じゃぁ誰がヘスやアイヒマンにユダヤ人絶滅のためのガス選定に結びつく指示を出したのでしょうか? それでは完全に時期が矛盾してしまいます。考えるべきことはまだあるのですが、なかなか理解し難いヘスの証言内容なです。これを修正主義者のように「嘘話だから矛盾してるだけなんだよっ!」と解釈するのは簡単かもしれませんが、実際には他の多数の証言者の証言と一致している部分が多く、嘘話とすることは無理です。ヘスの記憶の中で色々と時期が間違ってしまっている、と考える方が遥かに容易いのです。記憶からの話で時期を間違えることは私たちにだってよくあることだからです。


マットーニョは、ヘスが出来事を混同していた可能性(ここでは、ヘスがロシア兵捕虜の絶滅に関するヒムラーとの会談とヨーロッパ系ユダヤ人の絶滅に関する会談を混同したというヴァンペルトの仮説)は、「ヘスは常に、ヒムラーから与えられたとされる命令はヨーロッパ系ユダヤ人に関するものだと確信をもって強調していたので、実際には支持できない」のだと論じている。(ATCFS, p.428)。まるで、誠実な間違いが一貫して確実に犯されることがないかのように、これがどうしてヴァンペルトの解釈に挑戦しているのか、私には理解できない。

マットーニョは、1946年3月14日のヘスのアウシュヴィッツに関する最初の証言(NO-1210)は、「ヘスが書いたのではなく、イギリスの尋問官が作成した」と考えており(ATCFS、437頁)、その後の自白も「自発的かつ強制なしに」なされたのではないと考えている(ATCFS, p. 438)。後者の主張は、すべてマットーニョが作り上げたものである。 第一の主張は、誤解に基づくものである(マーティン・ブローシャートの既成事実化、『アウシュヴィッツの司令官』、p. 225)。ヘスが後にポーランドで述べた「私の最初の尋問は、印象的なデモが行われた。私は署名したが、議事録の内容はまったくわからない」(ATCFS, p. 437)とは、証拠NO-1210として提出された、1946年3月14日にミンデンで行われた尋問のことを指しているのである。しかし、ヘスは自伝的メモの中で、この発言はミンデンの北約300キロにあるハイデでの以前の尋問のことを指していると明言している。この尋問記録は、今のところ公開/発見/出版されていない。


註:上記段落は何を言っているのかというと、ヘスの自叙伝にはこうあるからです。

 そして、一九四六年三月一一日午後一一時、私は逮捕された。私の毒薬ビンは、二日前にこわれてしまっていた。それに、寝入りばなを叩きおこされてぼんやりしていたので、そこらにひんぱんに起こった強盗事件の捜索と勘違いしたため、まんまと逮捕されてしまったのだ。私は軍事保安警察によって激しい質問責めにあった。
 私はハイデの町に送られ、よりによって、八カ月前英軍の手で釈放されたばかりの同じ営舎に打ち込まれた。
 決定的な証拠にもとづいて、私の最初の取り調べがはじめられた。調書に署名はしたものの、それに何と書いてあるかは私は知らない(2)。つまり、アルコールと鞭が、私にとっては多きにすぎたということだ。その鞭は、偶然、妻の荷物にまぎれこんでいた私自身のものだった。それで、馬を打ったこともほとんどなく、ましてや抑留者などには全くないというのに。
 しかし、ある取調官は、たしかに、わたしがそれでたえず抑留者をなぐりつけた、と決め込んでいた。
 数日後、私は、英軍占領地中央取調機関のある、ウェーゼル湖畔ミンデンに送られた。そこでも、私は英軍主席検察官(陸軍少佐)にさらに責め立てられた。刑務所も、この扱いに応じたものだった。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、2019、p361、強調は私

この自叙伝を出版するにあたり、編纂者であるマルティン・ブローシャートは、上の脚注(2)でこう書きました。

(2)ここにいう調書とは、タイプ八頁の文書で、ヘスは、一九四六年三月一四日午前二時三〇分、これに署名している。ただし、内容的には、のちにニュルンベルクやクラカウで証言あるいは記述した事柄と、どこも違ったところはない。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、2019、p377、強調は私

ハンス・メッツナーが言っているのは、NO-1210と知られるヘスの尋問調書は、ヘスが「何と書いてあるかは私は知らない」と述べたものではなく、ヘスがそう述べたものは逮捕された時に最初に勾留されたハイデの町の営舎での調書のことなのです。NO-1210の現物を見たことはないので私にはわからないのですが、このNO-1210は「一九四六年三月一四日」のミンデンでの尋問のものであるらしいです。ところがブローシャートは自叙伝の脚注で、ハイデのものと間違えてしまったのです。ちなみに、NO-1210の抜粋は、こちらで読むことができます。ただしフランス語なので注意。確かに、ブローシャートの言う通り、どこも違ったところはありません。


ヘスの証言NO-1210が、マットーニョが示唆したような「イギリスの尋問官によって作成された」という証拠はない。逆に、英国現地治安警察にはおそらく知られていないであろう豊富な情報(すなわち、彼自身の伝記、SS-WVHAの高位メンバーの逃亡に関する詳細な記述、SS-WHAの組織)、彼自身(「私は個人的に誰かを撃ったり、誰かを殴ったりしたことはない」)を含むSS職員(当時すでに死亡していたヒムラーだけがユダヤ人を絶滅させたと非難されており、SS医師の中には医学実験の責任を問われている者もいるが、彼自身のWVHAは残虐行為から除外されている)の比較的軽微な有罪判決、そして1945年のベルゲン・ベルゼン強制収容所における悲惨な状況に対するSS支持の責任の相対化(例えば、ヒムラーから強制収容所でのすべての死を阻止する命令、ポールからクラマーへのベルゲン・ベルセンの食料を改善する命令、ベルセンの食料が不足しているLandesernährungsamtへの非明示的な非難)によると、この記述はHöß自身によって書かれたものである。NO-1210には、アウシュヴィッツでの大量絶滅の中核的要素、すなわち、ブンカー1と2の絶滅場でのガス処刑手順、野外火葬、火葬場2と3でのガス処刑手順がすでに含まれていることに注目することが重要である。

マットーニョは、NO-1210の大量殺戮を英国が具体的にどのように「描いた」とされているのかの説明を避けているが、これは彼の仮説にとって絶対的に重要なポイントである。この文書は、戦争難民委員会の報告書にも、ソ連の報告書008-USSRにも基づいていないことは明らかである。NO-1210の実質的な記述は、ミンデンでヘスを扱ったジェラルド・ドレイパー(1946年3月2日のNI-11954参照)が知っていたペリー・ブロードの報告によって裏付けされている。NO-1210は、ブロード報告に比べると、アウシュヴィッツについての詳細と包括性ははるかに低い。また、ブロック11の処刑、ブロック11での最初の殺人ガス処刑、ブディの反乱、基幹収容所の火葬場でのガス処刑の手順(ヘスは、人々が火葬場1でガス処刑されたと非常に簡潔に述べているだけである)、ゾンダーコマンドの反乱、火葬場4と5でのガス処理など、ブロードが詳細に報告した多くの残虐事件や出来事が欠落している。

一方、NO-1210には、ベルゼンから送られた輸送の蜂起について、同等の詳細な記述があるが、ブロードの報告書では(ベルゼンからの輸送と明示的に結びつけず)傍証に過ぎない。ブロードの証言が、尋問者がヘスを尋問するのに役立った可能性は否定できないが、一方が他方を脚本化したと主張するには、その違いがあまりに大きいのである。そしてもちろん、この仮説は、その後に続く修正主義者にとってのより深刻な問題、すなわち、ブロードの証言がどのように英国によって「作成」されたのか、という問題を解決しない。

ペリー・ブロード

マットーニョは、1945年7月に書かれたブロードの報告書は「絶対に信頼できない」(618頁)と主張しているが、私が別の場所でこの資料を詳細に分析したところ、非常に信頼できることが判明した。この報告書は非常に詳細で、裏付けも十分であるが、アウシュビッツ解放のわずか数ヵ月後に、犯行現場やそれに対応するソ連やポーランドの調査から800キロも離れて書かれたことも重要な点である。これは明らかに戦争難民委員会の報告書(イギリスの調査官が入手できたかもしれない)に基づくものではなく、1945年5月6日のソ連戦争犯罪委員会の報告書(008-USSR)にも見出すことはできない。ブロードは、アウシュビッツでソビエトが捕獲した文書を見る機会もなく、自分の記憶以外に利用できる資料があったという証拠もない。ブロードレポートの起源は、リビジョニストにとって大問題である(数ある中の一つに過ぎないが)。マットーニョはいつものように、19,000語の報告書(ATCFS, p. 617;すでに他のところで取り上げられている)の中のいくつかの不正確な点を指摘することにとどめ、出所の信憑性を少し疑っているが、これはもし彼らがそれ以上知らないのなら古典的な修正主義のアプローチである。他のところで示したように、この報告書は合理的な疑いを越えて本物である。したがって、ペリー・ブロードの証言はマットーニョによって全く説明されないままである。

チャールズ・ジギスムント・ベンデル

ベンデルは、アウシュビッツでの大量絶滅について、裁判で証言した最初の目撃者の一人である。彼の最も重要な証言は(詳細で、日付が最も古く、信頼性が高いので)、ベルゼン裁判での1945年10月1日の反対尋問である(もちろん、裁判前の尋問はもっと重要だが、今のところ知られていない/出版されていない)。検査記録は3500単語ほどあり、主に独立した情報源から裏付けを取ることができる(イタリック体(註:イタリック体部分はこの翻訳にはありません)は私がベンデルに言い換えたもので、ベンデルがかなり良いパフォーマンスをしたと信じるなら、このパラグラフを飛ばしてもよい)。

ベンデルは、メンゲレがジプシー収容所のSS医師、エプシュタインが囚人医師であること、メンゲレの研究テーマが「双子」であること、ジプシー収容所に1944年2月27日までに11000人の囚人が収容されたことを正しく認識していること(この数字は、ルドルフ・ヘスの自伝的ノートで確認されている。「セクションは1万人分と計算され、いっぱいだったことは知っている」、アウシュビッツ裁判のDVDから私が翻訳したもの。アウシュビッツでは、この日までに約19,000人のジプシーが登録されており、囚人の中の損失を考慮すると、この数字は確かに正しい桁の数字である)、 1944年7月末に4300人のジプシーが殺され、1500人が労働力として確保されたこと(ペリー・ブロード 「1944年7月、運命は決まった。ヒムラーは適合者(ジプシー)には収容所に留まり、それ以外はガス処刑にするように命じたのだ」、ルドルフ・ヘス 「44年8月まで約4000人のジプシーが残っていて、彼らはガス室に入らなければならなかった」、付録U訂正コーナーその4:アウシュヴィッツ博物館とジプシー犠牲者の数1944年8月2日のジプシーへのガス処刑に関する興味深い証言も参照)、火葬場で働く人々は900人の囚人と呼ばれ、火葬場ごとに3つのSSゾンダーコマンドがあったこと、SS守備隊医師としてのヴィルツ(Wirths)[記録ではヴィルツ(Wurts)博士と誤記]は、ゾンダーコマンドの長としてのモル、囚人部隊のゾンダーコマンドは、鍵のかかったブロックに住んでいたこと(1945年4月、ポーランドでのスタニスワフ・ヤンコフスキー「ビルケナウでは、私たちはセクションDのブロック13に収容されました...ブロック13は閉鎖されたブロックでした」、『凄惨な犯罪の中で』、p.43 f.からの私の訳文)、1944年8月、ウッチから8万人のユダヤ人を清算したこと、第5火葬場の後方に12m×6mの火葬用トレンチを3つ設置(1944年の航空写真によると、4-5ヶ所の火葬場は12-30m x 3-6の様々な大きさで、ゾンダーコマンドの地上写真では1944年8月末に火葬用トレンチが稼動していたことが示されている)、第5火葬場の火葬能力は1日1000体、第5火葬場の庭で犠牲者の服を脱がせ、犠牲者は大きなホールで待っていた(火葬場の建設図面に炉室とガス室路の間に示されている)赤十字の車がガスを持って到着するまで(作者不明のゾンダーコマンドの筆跡[1943-1944年に書かれ、1952年に第3火葬場付近で掘り出された]『凄惨な犯罪の中で』179頁fと、サルメン・ルーウェンタール[1944年10月以前に書かれ、1961年に第3火葬場付近で掘り出された]『凄惨な犯罪の中で』220頁により確認されている)、ガス室路の低い屋根、髪の切断(1945年5月にポーランドでヘンリク・タウバーが確認)と金歯の除去(1945年4月にポーランドでスタニスラフ・ヤンコフスキが、1945年7月にドイツでペリー・ブロードが確認)、焼却ピットで人を撃つこと、ビルケナウの司令官としてクラマー、1944年10月7日のゾンダーコマンドの反乱(この反乱は、1944年10月12日の守備隊命令[1944年10月7日に3名のSS隊員が殺された]によって裏づけられている)、300名のゾンダーコマンドが移送されることになっていたため(サルメン・ルウェンタールの記述によって確認される:「次の日、すなわち、44年10月7日に、我々は、昼までに、300名が移送されてくることを知った。1944年10月7日、我々は、300名が正午までに移送されることを知った」、『凄惨な犯罪の中で』、p.241)、500名の死者ゾンダーコマンド(火葬場労働者661名から212名に減少したことを示す1944年10月8日と9日の労働力報告で裏づけ)と火葬場4は放火され(労働力報告での労働者の欠如によって裏づけ、マットーニョ、『アウシュヴィッツ:野外焼却、73頁』参照)、その火葬場を焼き払ったこと、弾薬工場ユニオンの少女がゾンダーコマンドにダイナマイトを供給したこと(サルメン・ルウェンタール、『凄惨な犯罪の中で』、p.230とペリー・ブロードの1945年7月のドイツでの記述で確認)と、1944年12月に4人の少女が絞首刑にされたこと(1945年4月、ポーランド、『凄惨な犯罪の中で』、p.56でスタニスラフ・ヤンコフスキが確認、チェコ、『カレンダリウム』、p.957によると1945年1月6日に実行された)、ビルケナウには4つの火葬場と、ガス室しかないブンカーがあったこと。

ベンデルは、ベルゼンの裁判でも検察側の操作や示唆に富む質問に対して抵抗があることがわかった。たとえば、バックハウス主任検事から、犠牲者は「医師の一人によって(ガス室に)降ろされたのか」と問われたとき、(裁判で告発された元SS医師クラインのように)コーチされた検事側証人として「正しい」回答「はい」をするのではなく、単にこう答えたのである。

「いいえ、前に一人、後ろに一人のS.S.がいました。それだけです」

そして、被告側弁護士から「ガス室から解放された者がいる」という主張の裏付けが取れるかどうか質問され、こう答えた。

「私がいた間、そんな話は聞いたことがありません。ありえないことです」

そして、「ガス室に送られ、最後の瞬間に救出された2人」(バックハウスの冒頭のスピーチより)という検察側の証拠に疑問を投げかけたのである。

要するに、ベルゼン裁判でのベンデルの証言はかなり信頼できるものであり(唯一の明らかに弱い要素は、火葬トレンチの能力が1時間に1000体ということである;塹壕には1時間に1000体の死体が積み込まれ、したがって、ベンデルにとってはこの時間内にガス室から消滅したかもしれないが、実際の火葬は数時間続いた)、非常に信憑性の高いものなのである。

ベンデルのベルゼン証言について詳しく説明したのは、(i)これまで反修正主義者によって軽視され、十分に活用されてこなかったと感じるからであり、(ii)マットーニョの証言批判との対比が最も興味深いからである。

では、マットーニョはこの最も重要な目撃者の証言にどう対処したのだろうか? マットーニョは、アウシュヴィッツでの大量絶滅について語られ、書かれたものは事実上すべて虚偽であり、この地球上の事実上すべての学者を自分の仮説に納得させていないと主張していることを思い起こせば、この証言が信頼できない、信用できない理由を説明し、もっとも重要なことはその特定の起源を説明してくれることを期待したいところである。そして、マットーニョがATCFS(593頁)で伝えたことは次のようなことである。

「ヴァンペルトは、ベルゼン裁判でのベンデルの供述書からの長い抜粋を紹介しているが(34頁)、そこには、たとえば、彼の信条と著しく衝突するさまざまな主張が含まれているにもかかわらず、何のコメントもない。

・ウッチのゲットーから8万人のユダヤ人がガス処刑されたが、追放されたのは2万5000人であった(112頁、15.2章を参照)。
・火葬場Vの庭にあったとされる「火葬穴」の数(3つ)、大きさ(12×6m)、容量(1時間に1000体)は、タウバー、ドラゴン、ヤンコフスキ(そして他のすべての証人;マットーニョ2005c、13-23頁参照)の主張とまったく食い違っていること。
・犠牲者とされる人々が2分以内に死亡し、ガス室とされる部屋の扉が5分後に開かれたのに対して、ヴァン・ペルトは「最高30分」(388頁、14.1章参照)と語っていること」

それだけだ。つまり実際の分析[=「何かを注意深く研究し、その部品について、それらが何をしているか、それらが互いにどのように関連しているかを知ること」]の代わりに、証言の説明が全くなく、虚偽または矛盾と思われる短いリストを得るだけなのだ。1990年には、ベンデルの反対尋問からさらに5項目(!)を追加した英文の論文を発表している。マットーニョは、彼が指弾した虚偽と思われるもの(上記のものは別として、1944年8月の150名の政治犯の処刑、火葬場の庭での犠牲者の脱衣、火葬壕付近での囚人の射殺、火葬壕からの脂肪採取、1944年7月末4300名のジプシーのガス処理、1944年12月のゾンダーコマンドに爆薬を供給した4名の囚人の処刑)のほとんどすべてが完全に正しい、大体正しい、あるいは非常に正しいかもしれないという「傑作」さえ達成しているのである。唯一の例外は、すでに述べた1000体/hの火葬用トレンチの能力である。

ベンデルが次に出廷した日本語訳)のは、1946年3月2日にハンブルクで行われたテッシュ裁判だった。この証言は、ベルゼン裁判での反対尋問に比べると、かなり弱くなっている。彼は、まだそれなりの数の確かな事実を提供しているが、彼の証言には、推測、誇張、伝聞情報、たとえば、400万人のアウシュヴィッツ犠牲者、1944年6月の1日25000人の犠牲者、消毒は「主としてリゾチームによって行なわれた」などといったものが含まれているのである。プレサックが指摘するように、これは被告に最大限のダメージを与えるために用意され、ベンデルも喜んで協力したように見える。また、ガス室の高さの推定に若干の弱点があった。彼によると、第2、第3火葬場のガス室の高さは約1.7メートルだったが、実際の高さは約2.4メートルであった。この不正確さは、観察者が小さいこと(ベンデルはあまり大きく見えない)、ガス室が満杯であること、高さ1.9mのドアを基準としたこと、主観的な推定の結果である可能性がある。

しかし、もっと深刻なのは、マットーニョによると、ベンデルが1945年10月21日の宣誓供述書で、(すべての火葬場の)ガス室の高さは1.5mしかなかった、つまり、ほとんどの大人よりも小さかったと述べていることである。このような間違いは不可解である。ベンデルは、ベルゼン裁判に出廷していることからわかるように、強迫的な嘘つきではなく、火葬場で働くように命じられていたことは間違いないので(そうでなければ、現場のこれほど豊富な詳細を提供できず、ガス室内部からの金網のシャフトについてさえ、妥当な記述を提供することができない)、過小評価は、ひどく、選択的にトラウマを受けた人物の臭いがプンプンしている。

「彼らは死とひどく戦っているような印象を受けた。1.5メートルの高さまで死体で埋まったガス室を見たことがある人なら、決して忘れることはできないだろう」

(ベルゼン裁判でのベンデル)

ミクロス・ニーシュリ

ニーシュリは1945年7月28日、ブダペストで「追放されたハンガリー・ユダヤ人の福祉に関するブダペスト委員会」でアウシュビッツについて証言している。元リビジョニストの故チャールズ・プロバン氏は、自身のウェブサイトRevising Revisionismでリフトン教授のスタッフから得た供述書の一部を引用している(ミラーリングはこちら)。別のところでプロヴァン氏は、この宣誓供述書からさらにいくつかの発言を引用・換言している。 また、リフトンの著書『ナチスの医師たち』には、メンゲレの双子の殺害に関する記述が引用されている。

ニーシュリのアウシュヴィッツでの囚人番号はA-8450で、登録記録によると1944年5月29日に登録されている(チェヒ、『カレンダリウム』、p.788)。1944年6月27日の移送報告書(ニーシュリ、『Im Jenseits der Menschlichkeit(人類の彼方で)』、180頁)に示されているように、彼は、まずモノヴィッツに送られ、それから、他の2名の囚人(1名ではない)と一緒にメンゲレのために働くように選択されたのである。ガス処刑の手順についての彼の記述--赤十字社の車によるガスの到着、コンクリートの蓋のある地下のガス室の4つのガス口、缶に入ったガス弾、ガスマスクをつけたSS隊員がガス口に中身を注ぐ、5-10分後に死亡--は、「ドア」の複数形(通路からガス室へのドアが一つしかなかったことと、もちろん、シアン化水素ガスの代わりに塩素ガスであったが)以外の信頼できる記述である。医師であった彼は、実際の毒ガスに何らかの関心を抱いていたと思われるが、この混同は結局のところ小さな誤りである。さらに、この間違いは、ニーシュリが戦争難民委員会報告(ハンガリー当局が入手していたかもしれない)によって「脚本化」されたことを否定する。なぜなら、そこでは、「シアン」がすでに殺傷剤として特定されており、「4つのコンクリート・スラブ」や炉室へのエレベーターがある地下のガス室は著者に知られていなかったことはさておき、である。

ニーシュリによって報告された1944年11月27日のゾンダーコマンドの処刑は、簡略化され、歪曲された記述である。実際には、900名の強力なゾンダーコマンドは、3つの段階(蜂起を含む)で縮小され、さらに、完全に処刑されたわけではなかった。それにもかかわらず、ニーシュリは、ゾンダーコマンドがこの日前後に処刑されたことを完全に正しく伝えている。

我々はゾーンへ向かう。170人が去った。我々は、彼らが我々を死に追いやることを確信している。彼らは30人を選び、第5火葬場に滞在させた。今日は1944年11月26日である。

(無名のゾンダーコマンドの囚人、1952年夏に火葬場3で見つかった手稿、『Inmitten des grauenvollen Verbrechens』、p. 185)

リフトン教授によると、ニーシュリは14人の双子の殺害をメンゲレに手伝わされたことも明らかにした。さて、アウシュヴィッツの元囚人が、子供たちを殺す手助けをしたこと(それは、火葬場の解剖室のような閉ざされた場所で行われ、彼に不利な証言をする証人は確かにいない)、それがつらい真実でなければ、ありえないことだ。

プロヴァンとリフトンが発表した抄録から、ニーシュリは(大きな誇張や捏造のない)まともな説明をしていると、すでに推察することができた。これは、一応公開されている供述書の全文を確認したものだ(ご指摘いただいたN.Terry氏に感謝します)。

数ヵ月後の1946年3月、ニーシュリはハンガリー語でアウシュビッツに関する本を出版したが、この本はかなり議論を呼んでいる。一方、長大な叙述(ドイツ語訳では約45000語)は、深い内部事情を示し、ニーシュリが火葬場の囚人医師として大量殺戮を目撃したことを裏付けるものである。一方、ニーシュリは「誇張なく」書いたと宣言しているが、明らかにフィクションの要素にまみれている。この小説は、部分的に史実に基づいており、他の資料によって裏付けされていない詳細については、非常に慎重に考慮する必要がある。逆に、二つの独立した資料が偶然に同じ架空の要素を考え出すことはありえないので、この記述は他の独立した資料の裏付けに使うことができる。

しかし、彼とともに大量絶滅を論証するために、彼の本が必要なわけでもない。ニーシュリは、この本のはるか以前に、火葬場でのガス処刑を信頼できる形で描写していることを思い出してほしい。また、マットーニョの仲間であるユルゲン・グラーフがプロヴァンへの回答で主張しているのとは異なり、1946年3月の本の虚構性は、1945年7月の彼の以前の供述を歴史的資料として無効化するものではないのである。

では、マットーニョは、凶器についての記述がある供述書について、何と言ったのか? 彼は1988年当時のパンフレット『「アウシュビッツの医師」:偽物の解剖学』での出典を知らなかったので、この件は省略できるだろう。しかし、彼は、プロヴァンへの直接の返答の際にも、ATCFS全体を通じても、出典を無視するばかりであった。

イェフダ・バコン

バコンは、アウシュビッツの元ユダヤ人囚人で、1945年6月にオーストリアの病院で療養中にビルケナウの火葬場のスケッチを描いている。これは第4火葬場のスケッチと当時のSSの写真、そしてこれは第3火葬場のスケッチである。彼は明らかに信頼できる信用できる目撃者だった(煙・火の程度は議論の余地がある)。ヴァンペルトが言うように、「バコンの記憶の正確さを計る」ことができたので(『アウシュヴィッツの十分な論拠』172頁)、アウシュヴィッツでの大量絶滅の問題にとって最も重要な絵、殺人兵器、殺人ガス室の断面のスケッチを見ることができよう。スケッチでは、天井に保護灯とシャワーヘッドを設置し、床から屋根を貫通する中空の柱が何らかのカバーを閉じていることがわかる。最も興味深かったのは、コラムの中にもう1本チューブがあることを示唆していたことだ。ガス導入塔の数と記述が、ヘンリク・タウバーとダヴィッド・オレールの独立した証言と十分に対応していることは容易に理解できる。したがって、バコンは、地下室での大量殺戮について信頼できる証拠を提供したのである。

マットーニョは、あたかも人間の記憶力が時間とともに奇跡的に向上するかのように、読者の目をバコンの絵から後のアイヒマン裁判での証言にそらそうとした。もちろん、それは逆であり、この理由から、アウシュヴィッツでの大量絶滅に関する証拠として、バコンの最も関連性のある説明は、1945年の彼の一連のスケッチ、次にアイヒマンとアウシュヴィッツ裁判での証言、そして数年前にヴァン・ペルトに語ったことの順である。後世の証言は初期のスケッチを理解するのに役立つ(あるいは誤解する)かもしれないが、そこに不正確な点があったとしても、スケッチが有力な証拠であることに変わりはない。

2014年12月15日(月)のハンス・メッツナー による投稿

▲翻訳終了▲

シェロモ・ドラゴンの証言に対するマットーニョの批判内容に関する様々な誤りから判断して、マットーニョが無理矢理にでも証言あるいは証言を嘘にしてしまおうと考えていることがわかります。そうでなければ、ブンカー2の話なのにそれをブンカー1の話と勘違いしてしまうわけがありません。贔屓目に考えても、マットーニョの心眼は、「証言は嘘なのだから何か矛盾があるはずだ」との前提されたバイアスがかかっているとしか考えられません。

余談ですが、何かについての証言を嘘である可能性が高いと前提して、様々な証言を読み解く必要がある場合があることは認めます。わかりやすい例で言えば、疑惑の渦中にある政治家の弁明などがそうでしょう。それらの政治家には嘘をつく理由があると考えられるため、そうそう単純に信用することはできません。従って、ある任意の証言を疑惑の眼差しで読み解くことは、必ずしも良くないことだというわけでもありません。

しかし、その証言の内容について、他の人の証言やあるいはその他の証拠などが一致する場合はどうでしょうか? 当然、その一致する部分に限っては、普通は「裏付けがあった」と判断し、その部分に限っては正しいだろうと判断されます。これを、都合が悪い一致は、修正主義者は無視するのです。例えば、生存証言者で目撃した人は非常に限られるであろう、クレマトリウム2や3のガス室にあったとされるチクロンの金網投下装置という極めて特殊な装置についての目撃証言は30人前後もあるのに、その多くの一致すらも修正主義者たちは言及しようとはしません。

それのどこが、修正主義者がよくいう「ホロコーストの検証」なのでしょうか? 「検証」とは仮説が正しいかどうかを証明する行為のことを言います。修正主義者の検証が正しいと証明されたことなど一度もないのです。そんな検証に意味があるのでしょうか?


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