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アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、その3:目撃者たち

イタリア人の修正主義者であるカルロ・マットーニョの『アウシュヴィッツ:その健全な真相』への、Holocaust Controversiesブログサイトの執筆者の一人、ハンス・メッツナーによる批判の三つ目です。テーマは「証言」。

もちろん、修正主義者たちはホロコーストの肯定証言など絶対に認めません。修正主義者の証言否定の一般的手法は、内容に誤りがあれば、事実と矛盾しているから嘘である、として証言者を嘘つきにしてしまい、全面的にそれら証言者ごと証言を証拠から取り除いてしまう、という方法です。そして、ホロコーストの肯定証言はそのような虚偽証言者ばかり(実際には証言者はあまりに多すぎるので否定される証言者はそのほんの一部に過ぎない)なので、全面的に信用できないものとして、どんなに多くの肯定証言があっても、それら肯定証言を全て拒絶します。

他にも、アウシュヴィッツ司令官のルドルフ・ヘスの証言への攻撃に見られるように、連合国に拷問されているので、嘘を強制されているに違いないとして、その信用性を失墜させる方法もあります。また、証言が如何に信用できないかを大量の文献や長文を用いて論文を書いて説明するという方法もとられます。

そのようにして、修正主義者はありとあらゆる方法を駆使して、ホロコーストの肯定証言を全面否定するのです。そうしないと、ホロコーストの肯定証言は多すぎるからだと考えられます。本当にホロコーストは規模が規模だけに肯定証言はめちゃくちゃ多いのです。私は外国語のヒアリングがほぼ全くできないため、見てもわからないので内容を把握してはいませんが、今やごく当たり前の情報収集のためのツールとなっているYoutubeにも数多くのホロコースト証言動画が上がっています。例えば今回のトップ画像作成に用いたこんなのとか。

確かに、犯罪系の心理学分野では、証言の誤りに焦点を当てて、証言が必ずしも正しいものだとは見做さない場合があります。なぜなら、誤った証言は冤罪を生じさせかねないからですし、実際に誤った証言で冤罪になった事例も多くありますし、また証言の誤りを暴いて無罪になった例もあります。しかし、証言に誤りがあり得るとしても、裁判で証言証拠の採用を禁止した事例など聞いたことがありません。通常、私たちの社会で必要なのは、それら証言を慎重に見極めることであって、全面的に却下することなどではありません。そんなことをしていたら、社会全体が成り立ちません。例えば、テレビニュースなどでよくある街角インタビューが、それらインタビューは嘘かもしれないから禁止すべきだ、だなんて馬鹿げています。

しかしながら、修正主義者は一方で平然とダブルスタンダートを犯します。否定的な証言ならほとんど検証もなしに採用するのです。修正主義者はホロコーストの検証を要求するのに、否定に都合がいい証言なら検証しないだなんて、あまりに都合が良過ぎて呆れます。その一つの象徴的な例がルドルフ・ヘスの証言否定に用いられた『死の軍団』の件です。驚くべきことに修正主義者たちは、それがヘスの証言が嘘である証拠だと主張するのに、真面目に読むことすらしていません。あるいはまた、連合国の加害者証言それ自体が信用できない例として、修正主義者が大好きな「139人中137人の睾丸が修復不可能なほど破壊された」話もそれが本当なのかどうか全然確かめもしていません

従って、修正主義者の証言に対する姿勢など、そもそもが検討の価値すらないと私は思っていますが、この記事でハンス・メッツナーはかなり丁寧に説明していると思います。

▼翻訳開始▼

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、その3:目撃者たち

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論
第1部:屋内火葬
第2部:火葬場でのガス導入について
第3部:目撃者(補足
第4部:ゾンダーコマンドの手書き文字
第5部:建設関係の書類
A:はじめに
B:換気・エレベータ
C:脱衣室
D:外開きドア&死体シュートの撤去
E: ガス探知機
F:特別処理の同時火葬
G:ガス室

マットーニョの証言証拠の扱いのまずさは、彼のアウシュビッツ作品に共通するものである。ヘンリク・タウバー、ルドルフ・ヘス、チャールズ・ジギスムント(・ベンデル)、ミクロス・ニーシュリ、フィリップ・ミュラー、ペリー・ブロード、ハンス・シュタルクなど、マットーニョは同じことを何度も繰り返して飽きない:彼は証言の中の矛盾や虚偽の記述だと思うことを指摘して・・・それで終わりである。この薄っぺらな資料批判は、大量殺戮に関するあらゆる証言の証拠をきっぱりと否定するのに十分である。言うまでもなく、彼は、この粗雑で表面的なアプローチがなぜ正当化されることになるのかについては論じていない。

実際には、「falsus in uno, falsus in omnibus(一を偽り、全を偽る)」という図式が成り立つ。


註:「falsus in uno, falsus in omnibus」とはラテン語で、「一つ(の事柄)で過ちを犯す者は、万事において過ちを犯す」の意味であり、主として英米法体系(コモンロー)の世界で、一つでも真実でないことを述べたら、その証人の信用性を認めないとする法理です。コモンローをある程度は理解しないと、大陸法系(制定法)の中で暮らす日本人には理解しにくい法理ですが、ここでは歴史修正主義者の、主として証言証拠への取り扱い方を揶揄して用いられています。


この(論争の的になっている)法律用語は、証人が故意に虚偽の証言をしたことが立証されていることを前提としている。しかし、嘘を証明するのは難しい、ましてや書かれた資料を研究して遡及的に証明するのは。実際、マットーニョは自分の仕事の中で、不正直な間違いと正直な間違いを区別することができないのである。最も重要な説明ですら、彼は一つの嘘も証明できない。また、falsus in unoは通常、確証のない証言を想定しているが、アウシュビッツでの大量絶滅はそうではない。実際、独立した裏付けという強力な概念は、部分的に矛盾する資料や虚偽の資料からでも、高い確実性で歴史の真実を抽出することを可能にする。そして最後に、falsus in unoは科学的、歴史学的原則ではなく、論理的誤謬である。

目撃者の証言が重要な理由

修正主義者は、アウシュビッツの歴史を、そのほとんどを当時のドイツの文書に基づいて書きたいと考えている。ドイツのファイルは、たとえ完全に信用でき、信頼でき、完全であったとしても、アウシュヴィッツでの出来事の限られたスナップショット、すなわち、SSが記録する価値があるとみなした情報しか提供しないであろう、当然、それは、起こったことのほんの一部にすぎない。人と人との非公式な会話は、まったく捕捉されなかったであろう。しかし、アウシュヴィッツでの大量絶滅の問題により深刻なのは、ドイツのファイルの信憑性も信頼性も完全性も推定できないことである。

一部、信憑性に欠ける資料がある。別のところ日本語訳)では、アウシュビッツの死亡帳の死因がドイツ人によって組織的に改ざんされていることが示された。第二の問題は、ドイツの準軍事組織のあいだで、残虐行為についてあまり語ろうとしない傾向があり(この姿勢は、たとえば、ヒムラーのポーゼン演説や、アウシュヴィッツについては1942年9月23日のポールの演説(「特別な仕事、それについて我々は言葉を話す必要はない」)で表明されている)、文書には婉曲表現とカモフラージュ言語が多用された。ここで、イラクの官僚がクルド人に対する化学戦について書くときに、「特別攻撃」や「特別弾薬」を使うのと同じようなことが言えるかもしれない。第三に、ドイツ側文書の大部分はとにかく破壊され、とくに、もっとも関連性の高いもの(収容所管理、収容所司令官、政治部、医療部)は破壊され、建設文書だけがほぼ無傷で残っている。しかし、中央建設管理部のファイルにも、火葬場に関するものを含めて、大きな空白がある(最も重要なことだが)。したがって、SS当局のドイツ語文書は、いつ、誰が、どのような工事をしたのかについては、かなりよくわかるかもしれないが、収容所内で何が起こっていたのかを復元するには、かなりお粗末で不十分なものである。最も深刻なのは、アウシュビッツの列車乗り場で労働に適さないとして選別された何十万人ものユダヤ人がどうなったのかが説明されていないことである。

ここで、少なくとも、ドイツの当時の史料が残した穴埋めのために、さらなる証拠が必要であることは明らかである。どんな証拠なのだろう? さて、何十万もの人々がアウシュヴィッツ複合施設に強制移送され、数千人のSS隊員が収容所で勤務し、何千人もの民間人がその建設現場で働き、周辺に住民として住んでいた。戦後、何百(何千?)人もの人々が、アウシュヴィッツ複合施設での体験について証言するようになった。したがって、証言による証拠は、アウシュヴィッツの歴史を再構築するための重要な資料であり、きわめて関連性の高いものなのである。

クロスチェックと裏付け

意図的な証拠であり、人間の記憶から再構成されたものであるため、証言証拠はその信憑性と信頼性を慎重に検討する必要がある。適切な出典批判と歴史的推論が不可欠であり、さもなければ歴史的現実を大きく歪曲してしまう(例えば、実際には何十万人ものユダヤ人が大量虐殺されたのに、アウシュビッツでは殺害されていないなど)。

証人の信頼性と信用性を判断するためには、(マットーニョが制限しているように)いくつかの(と思われる)間違った記述を指摘するだけでは不十分である。このような「分析」から得られるものはあまりない。より確かな指標は、証言全体に対する信頼性の低い記述の割合からすでに得られている。極端な話、たった1文の証言でも、たった1つの間違いが大きなダメージになる可能性があるが、何ページもあるような証言では無視できる程度になることもある。信頼性のない記述量と信頼性があると判断できる記述量を比較すれば、さらに解析の精度が向上する。要素の信頼性は、他のソースとのクロスチェックで判断することができる。誤記は非常に少ないが、正しい記述が多く、正しさが不明な記述が1つある証言Aがあったとする。このような証言は一般的に信頼できるものとみなすことができ、-さらなる証拠を考慮することなく-正しいかどうか不明な記述は、虚偽であるよりも真実である可能性の方が高い。

この記述の信頼性は、他の証言によって独自に裏付けられるならば、さらに著しく向上する。証言Aの残りのストーリーを確認する証言Bがあったとする。この記述が真実である可能性が高いことはすでに分かっているが(他の資料との照合により、証言Aはかなり信頼できるため)、証言Bによって裏付けされていることで、その可能性はさらに高まっている。この強化は、証言Bの信頼性、信用性に応じてスケールアップするが、そのような裏付け効果は常に存在する。さらに、裏づけとなる証言の数が多いほど、その効果は飛躍的に増大するため、修正主義者にとっては特に心配なことである。

裏づけ証拠という概念は、この方式では、アウシュビッツでの証言と殺人ガス処理について具体的に説明されている。裏付け効果は、仮説/前提/主張の確率を、個々の孤立した証拠が提供する最高値の真上に高める。また、別の見方をすれば、ここで描かれているように、裏づけ効果を特定の証言の信頼性向上と捉えることもできる。簡単に言えば、複数の独立したソースが一致することは、偶然には起こり得ないので、確率の向上が得られるのである。


註:図まで示して、やや理論的な説明をしておられますが、言っていることは単純で、大量に「ガス室」や「ガス処刑」の証言があるのであれば、それらがあったことは事実としての確度が上がることになります。これを否定派側から見ると、内容が一致した証言がある事実は、それら証言が指し示す出来事をを捏造した誰かが同じことを言わせているだけだから、に変わります。例えば日本の歴史認識問題である南京事件では、たくさんの中国人証言があるのですが、事実上、少なくとも日本では証拠能力を認められていません。いわく、中国共産党がそう証言させているからだ、と(否定派に)説明されてしまうからです。確かに、体制側が体制側自身に都合の良い証言をさせるということはあり得ないことではないので、否定派の考えを無碍に否定はしませんが、ホロコーストの場合、一体誰が「体制」なのか、明確な説明がなされたことはありません。ユダヤ人ガー、連合国ガー、共産圏ガー、などと言われますが、実態は全く定かではありません。例えばそれがかつての共産圏だったのなら、なぜ東西が敵対していた冷戦時代に西側はホロコーストへの疑義を示さなかったのでしょうか? カチンの森事件は少なくとも、ソ連の犯罪だったとゴルバチョフが認めるまで、ソ連かドイツかのいずれの仕業かは、明確には断定されていませんでしたが、ホロコーストは明確にナチスドイツの仕業だと冷戦時代も冷戦後も断定され続けています。また、ホロコーストの証言はかなり詳細な事柄についてまで、複数の人間が同じ内容の証言をしているなど、一致度がかなり高いので、そんな細かい内容まで嘘証言をさせるの? と、陰謀論ど素人の私などは思うわけですが。


裏づけに失敗する場合

複数の裏付けとなる証言の壁に対して、2つの攻撃方法[1.同等以上の信頼性のある反証、2.裏付けが独立していないことを示す証拠]がある。

アウシュビッツでの大量絶滅に異議を唱える十分信頼できる反証はない。マットーニョは、ドイツ側資料の解釈がアウシュヴィッツでの大量絶滅に関する証言に反論していると主張するだろうが、とりあえず詳しく説明するまでもなく、この種の資料自体には、先に述べたような深刻な問題(信憑性、信頼性、完全性の欠如)があり、さらに、マットーニョの主観的解釈に依存しているので、すでに失敗に終わっていると思われる。このような不十分な資料では、多くの裏付けとなる証言の確固とした事例を打ち崩すほどの勢いはないだろう。実際、アウシュビッツでの殺人ガス処理/大量絶滅を否定する文書的証拠はない。この問題は、このシリーズの次の投稿で取り上げる予定である。

修正主義者によって引用された他の不十分な反証は以下の通りである。

これらの反証(これらのリストに追加して良いものとしては、火葬場の煙突からの炎、ピットでの焼却炉からの人間の脂肪の収集など)に共通しているのは、一人か少数のひどく偏った人々(マットーニョの場合は、適切な専門的、科学的訓練を受けていない)の技術的、科学的意見を表明しているということである。しかし、孤立した意見は、複数の裏付けとなる証拠によって打ち消される。多数の裏付けとなる証拠が嘘であることよりも、素人(あるいはたった一人の専門家)が自分の言っていることを知らないことの方があり得る。例えば、私が「ゴミが金に変わることを証明した」と主張する1000ページのパンフレットを書いたとしても、素粒子物理学者から無視されたり、笑われたりしたら、私の主張が証明されたことにはならない。変人に正しい勝利などない(There is no right for cranks to get some proper ass kicks)。多数の独立した裏づけのあるソースに反論することになっている(=真実である可能性が非常に高い)技術的・科学的議論は、それ自体が非常に高い可能性を持つことを示す必要がある、つまり独立した専門家によって確認・裏づけされる必要があるのだ。ピアレビューがなければ、マットーニョの技術的・科学的な議論は、より信頼性の高い証拠によって引き裂かれた紙の虎に過ぎないのだ。

また、証言が独立しておらず、互いに依存している場合、多重裏付けは失敗する。証言Bが証言Aの主張を単に再現・複写した場合、その主張の蓋然性に関しては何も得るものはない。しかし、ほとんどの殺人ガスに関する証言は、十分にユニークな要素をもって独立しているようである(例外は、フィリップ・ミュラーの著書『特別処置(Sonderbehandlung)』がミクロス・ニーシュリとペリー・ブロードの証言を再利用したこと、ヘンリク・タウバーがソ連の供述でシェロモ・ドラゴンの数字を利用したことである)。さらに、さまざまな国や状況での証言の間の情報の流れや、その背景にある陰謀を説明する証拠がまったくないのである。

マットーニョが目撃証言をすることはできない

マットーニョは、ほとんど単独での証言分析において、組織的に裏付けを無視し、考慮しなかった。したがって、彼は、彼らの共同証言について、ひいてはアウシュビッツでの大量絶滅について合理的な結論を導き出すために、証言を正しく分析しなかったのである。目撃証言の信頼性と信用性を組織的に過小評価したことに加え、裏付け効果が無視されたため、マットーニョはさらに、個々の証言の不完全性の程度と影響を膨らませたのである。というのは、人間の記憶の特殊性を考慮に入れていなかったからだ。

人間の記憶は完全ではなく、正直者であっても再現する際に実際に観察したものとズレや誤解を生じることがある(さらに、そもそも観察が歪んでいることもある)。実際には、目撃者がある細部について虚偽の、しかし正直な描写をすることがあるということだ。従って、不正確な証言の証拠としては不十分である。虚偽の詳細は、証人の信頼性を低下させるが、必ずしも彼の信頼性を低下させない(場合によっては、信頼性の低下さえも無視できるほどである)。信頼性が著しく損なわれると、証人が犯人を特定しなければならない刑事訴訟において有害であり、問題となる可能性がある。しかし、正確な詳細(例えば、ガス室の大きさ-建設ファイルのようなもっと信頼できる証拠がある)よりも、全体像(例えば、アウシュヴィッツで殺人ガス処刑が行なわれたか)にほとんど関心がある場合、大量殺戮がまったくなかったというよりも、目撃者が、大量殺戮の特定の詳細について間違っている可能性が高いので、信頼度の低下は耐えうるものである。

同じように、証言の中には風化しやすいものとそうでないものがあることはよく知られている。最も興味深いのは、一般に修正主義者、正確にはマットーニョによって最も頻繁に攻撃される要素、すなわち出来事の順序、色、大きさ、量、音、持続時間が、裁判員や弁護士のためのハンドブック(註:リンク先は既に存在しない)によれば「記憶の信頼性が大きく低下する」ものであることである。したがって、アウシュビッツの大量殺人の目撃者の間で、特にその規模、量、時間などについてばらつきがあるのは当然のことである。しかし、これらのバリエーションは、マットーニョが望むように、証言の信頼性が低く、単に証拠として却下されることを示すものでは決してない。

マットーニョのホロコースト証言に関する常識と正しい理解の欠如を示すものとして、彼は、人間の記憶が時間とともに損なわれる傾向があるという単純な事実さえも考慮していない。1941年〜1944年から離れれば離れるほど、証言の証拠に正直な間違いが蓄積される可能性が高くなる。しかし、マットーニョは、イェフダ・バコンが1945年(彼の記憶が新しいとき)に描いた絵を、16年後に彼が書いたとされる弱い記述を指して攻撃している(ATCFS, p. 488)。

そして、裏づけのある証言を扱えないのと同様に、マットーニョは部分的に矛盾する証言をどう扱えばいいのかもわからず、そこから何も学べないかのように装っている。

「この「焼却場」についての文書は存在しないので、すべては目撃者に依存しているが、目撃者が語る話は矛盾しており、したがって、歴史学的観点からすると、何の価値もない。
<中略>
この不可解な矛盾のジャングルから導き出される唯一の賢明な結論は、最初の殺人的ガス処刑について語る証言の歴史的、技術的信頼性がまったく欠如しているということである。
<中略>
この物語は、他の多くの物語と同様に、極めて短く、相互に矛盾する証言のみに基づいている」

(マットーニョ、『アウシュヴィッツ:その健全な真相』、p.307[第5火葬場での屋外火葬について]、p.616 [最初の殺人的なガス処刑について]、p.617[第1火葬場でのガス処理について]、この順に)

実は、矛盾する資料を扱うことは、歴史家の糧なのである。ハウエルの教科書『信頼できる資料から』によれば、すでに「19世紀の歴史家たちは、このような(資料の)比較を行うための体系的なルールを開発した」(p.70)。しかし、2010年の時点でも矛盾する証言があり、マットーニョは両手を上げて降参し、彼らから建設的なものを引き出すことは不可能だと宣言せざるを得なかった。ヨアヒム・ネアンデル博士は、マットーニョがホロコーストに関する著作で見せるこの未熟な振る舞いを、まさに例えている日本語訳)。

...パズルのパーツの山を前にして、ちょっと見ただけで、何も組み合わさっていないと判断し、怒って窓から全部を投げ捨て、パズルを求めるママに、パズルはなかったことにしてしまう子供だ。

マットーニョの方法論的欠点に関するこの議論は、個々の証人に関連する具体的な主張について述べるよりもはるかに強力である(それでも完全を期すために、最も重要な個々の証言の扱いについての批判を補足投稿日本語訳)で提供することにする)。マットーニョがこの基本的で簡潔な批判を慎重に扱うことを避け、ネアンデル博士の優れた反論を「そのレベルは(前回よりも)さらに低いので、調べる価値すらない」と述べるにとどめたのは、示唆に富んでいる。

概要

私は、マットーニョが、アウシュヴィッツでの殺人ガス処理に関するあらゆる証言的証拠を退けることができるという結論にどうして到達したのか、それを解明しようと試みた。彼は、証言の証拠を評価するために承認された方法と推論を単にひっくり返すことによって、それを行っている。彼は、証言間の裏付けを無視し、同時に不完全さや矛盾の重要性を誇張する。これは、歴史学、確率論的推論、刑事訴訟手続き、あるいは単なる常識が、最も可能性の高い事象の物語を抽出することを示唆するのとは正反対である。

より合理的なアプローチは、裏づけとなる共同証言が示す道筋をたどることであり(独立した、しかし誤った情報源からの同一の要素はあり得ないから)、この道は、いくつかの間違った、また辞書に反する項目が存在するだけでは必ずしも妨げられない(すでに人間の記憶はそうなる可能性があるから)。

結果として、アウシュヴィッツに関する(あるいは他のホロコーストの殺害現場に関する)マットーニョの論文や書籍は、事実上、どれも方法論的に深い欠陥があるのである。唯一の例外は、彼の著書『武装親衛隊・警察アウシュビッツ中央建設事務所』かもしれない。なぜなら、この本は大量絶滅と証言の証拠についてではないからだ。マットーニョは、もし彼が歴史に関する学部の教科書をチェックしたことがあれば、「1万ページ以上」(マットーニョ『ガス室の内側』244ページ)の駄文を省くことができたはずである。

信頼できる一人の目撃者の証言も良いが、複数の目撃者の独立した証言が最良の証拠となる。しかし、ここでは注意が必要である。まったく同じ話をする二人の目撃者は、おそらくそれぞれの話を確認し、共通のバージョンで合意しているのだろう。複数の目撃者による誠実で独立した証言には、通常いくつかのバリエーションがあり、そのバリエーションはその証言が誠実で独立したものであることを示す傾向がある。

(ジェサップ『戦史の研究と利用の手引き』11頁)

投稿者ハンス・メッツナー at 2014年12月15日(月)

▲翻訳終了▲

現代史にはオーラルヒストリーと呼ばれる分野があります。

現代史ですから、いわゆる生き証人がいる場合が多いので、それら生き証人の証言を現代史研究に生かさない手はありません。ホロコーストでも同様であり、証言を全否定していたら、現代史の記録・記述・研究などに著しい支障を来すでしょう。

2022年現在、戦後77年を経て、ホロコーストの生き証人も相当減っているようで、ホロコースト博物館などではホログラムなどを用いて証言記録を残す取り組みも行われています。

戦争や大きな災害などでは、当事者の証言を記録に残すことは何より大切なことだと、多くの人が認識しているはずだと思うのですが、修正主義者にとっては、一刻も早く消え去って欲しいと思っているかの如くです。ところが実際には、歴史を記録に残す取り組みは圧倒的に多く、ホロコースト関連書籍にあまり恵まれていない日本の市区町村の図書館ですら証言の記述された書籍に事欠くことはありません。

従って、修正主義者がいくら証言を否定しても、一部の人が賛同するだけで、大きな目で見ればそれら証言否定は単なる「無駄な努力」に過ぎないのです。


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