見出し画像

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、その5:建設文書、C:脱衣室

ビルケナウのクレマトリウムⅡとⅢには、それぞれにL字型に配置された二箇所のいわゆる「Leichenkeller」、すなわち死体安置用地下室がありました。ただし、図面にはそう書いてあったとしても、実際には二箇所とも死体安置用地下室ではありませんでした。

クレマトリウムⅡの図面(建設管理部図面932;上図はプレサック、『技術』のp285〜286の図面を合わせたものであるが、左端に見える「階段」はこの図面を保管していたソ連が書き加えたものでありこの作図時期の計画にはまだない)

ところで、私はたくさんの文献を訳しているうちに、この「Leichenkeller」というドイツ語をそのままにしておくか、又は「死体安置用地下室」と表記することに一応決めることにしました。「地下室」としているのは「keller」が地下室を意味する場合があり、かつビルケナウのクレマトリウムⅡとⅢではそれらの部屋は半地下〜地下になっているからです。これを単純に「死体安置室」や「死体安置所」にしてしまうと、その目的の意味のみを強調してしまうことになるのと、「Leichenhalle」などの他の言葉を訳した時にごっちゃになってしまう、など様々な理由があります。「死体安置用地下室」としておけば、これはビルケナウのクレマトリウムⅡまたはⅢにしかない部屋を指すことにもなるので、何の議論をしているのか分かり易いとも考えました。

さて今回の議論は、そのクレマトリウムⅡ、またはⅢの「Leichenkeller」のうちの「Leichenkeller 2」にあったとされる「脱衣室」の話です。ここに犠牲者用の脱衣室があったとすることは、否定派にとっては容認できません。犠牲者の脱衣の目的は、①風呂場(シャワー)または消毒のため、または、②ガス室で処刑を行うため、の何れかになってしまい、この火葬場には犠牲者用の風呂場(シャワー)あるいは消毒設備など存在しないため、自動的に②になってしまうからです。証言にも一致してしまいます。したがってなんとしても、否定派にとっては、「Leichenkeller 2」は犠牲者用の脱衣室などではなかった、とする必要があります。

しかし、いくつかの文書では「脱衣所」と記述されています。では一体なんの脱衣室なのでしょう? 脱衣室と呼んでいたからには脱衣室ではあるはずなのですが…。

▼翻訳開始▼

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、その5:建設文書、C:脱衣室

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論
第1部:屋内火葬
第2部:火葬場でのガス導入について
第3部:目撃者補足
第4部:ゾンダーコマンドの手書き文字
第5部:建設関係の書類
A:はじめに
B:換気・エレベータ
C:脱衣室
D:外開きドア&死体シュートの撤去
E: ガス探知機
F:特別処理の同時火葬
G:ガス室

火葬場2・3の脱衣室

アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の最初の犠牲者は、火葬場2の前庭に建てられた馬小屋のバラックで服を脱いでいたが、後に、元ゾンダーコマンド囚ダヴィッド・オレールの絵にあるように、火葬場2と3の地下室で直接脱いでいた。この地下室は、ドイツのほとんどの資料では「死体安置用地下室2」となっている。しかし、いくつかのドイツの当時の文書は、第2火葬場と第3火葬場の脱衣室について明確に述べており、これらの施設での大量殺戮に関する多くの資料を裏付けている。

1943年1月21日、収容所駐屯医師エドゥアルド・ヴィルツから収容所司令官への書簡。

さらに、地下室に'脱衣室'を設けることを要望する。

(マットーニョ、ATCFS、72ページ。クォーテーションマークは翻訳者によって追加された可能性がある。他の場所にはないため)

1943年2月15日、中央建設局職員ヨゼフ・ヤニシュからヴィルツへのメモ。

脱衣所として、地下室の入り口の前に馬小屋のバラックが建てられている。

(マットーニョ、ATCFS、74ページ)

1943年3月6日、アウシュビッツ中央建設事務所からトプフへの手紙。

なお、脱衣室の排気装置の変更については、補足の見積書を送付していただくようお願いします。

(プレサック、『技術』、433ページ日本語訳))

1943年3月8日から4月22日までの民間人トプフの労働者メッシングのタイムシート。

脱衣用地下室2の排気ダクトの工事。
[...]
脱衣用地下室用換気扇の改造と鉄製ダクトの取り付け。
[...]
(作業現場30)クレマトリウムII。脱衣用地下室の排気設備を設置。
[...]
作業現場30a。脱衣用地下室の排気設備設置。
[...]
作業現場30aの脱衣用地下室に排気設備を設置。

(プレサック、『技術』、370ページ日本語訳))

クレマトリウム2の庭に建てられた馬小屋バラックについて、マットーニョは次のように論じている。

2月15日、ヤニシュは、「地下室の入り口の前にある馬小屋型のバラック」が、死体の脱衣室として火葬場Ⅱに建てられたことを駐屯の外科医に報告した。したがって、このバラックは1月21日から2月15日のあいだに建設されたものであり、その理由だけでは、犯罪目的であったとはいえないのである。

(マットーニョ、ATCFS、p.77)

彼は、この馬小屋バラックは1943年2月15日までに建設されたが、ガス室の換気は1943年3月13日より前に作動しなかったので、ガス室の犠牲者の脱衣のために使われたはずがない、まるで、一つのプロジェクトや任務(ここでは大量絶滅)のために必要な各種の建設物(ここでは馬小屋バラックとガス室)は常に同じ時期に完成していたかのように主張している。これは理想的なケースかもしれないが、いつも(あるいはめったに)そうであるわけではないのだ。実際、なぜ、馬小屋バラックが1943年2月15日までにすでに建てられていたのか、大量絶滅の実施の枠組みの中で、よく理解することができるのである。

1943年1月29日、トプフの技師クルト・プリュファーは、SS建設事務所のメンバーとともに現場を視察した後、火葬場の建設状況についての報告書を作成した。この報告書は、SS-WVHAの建設部長ハンス・カムラーとアウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスに転送された。プリュファーによると、火葬場2の死体安置用地下室の換気装置は1943年2月8日に設置され、火葬場は1943年2月15日までに準備される予定であった。したがって、1943年2月15日までに脱衣バラックが完成したことは、ガス室と火葬装置の完成予定日に完全に合致しているのである。ただ、工事の遅れ(おそらく換気装置の納入が間に合わなかったため)のために、ガス室は1943年3月13日より前に稼働できる状態にはならなかった。

ドイツの資料にある火葬場の地下の脱衣室がガス室の犠牲者のためのものであったかどうかという疑問について、マットーニョは、ヴィルツの収容所司令官への手紙とヤニッシュの回答によって、「この疑問を一挙に解決することができる」と主張している(ATCFS、72頁)。彼は、脱衣場は実際には、収容所の駐屯医師の要請で、衛生的・衛生的な測定として死体を脱がせるためのものだったと主張している。

しかし、ヴィルツは衛生面だけでなく、アウシュビッツでのユダヤ人絶滅の実行にも心を砕いていた。アウシュビッツで殺される人々はSSの医師によって選ばれ、ガス室を実際に操作したのは彼自身のSS医師とSSの救急隊員だったのである。ヴィルツは絶滅装置の責任者であったので、犠牲者に直接地下室で脱衣する場所を与えるという要求をヘスに提出したのは彼であったと考えるのが妥当であろう。

さらに、マットーニョは、火葬場の地下に脱衣場を設置するという決定と地下に脱衣場を設置するという決定は、両方とも同時になされなければならなかったと主張しているので、ヴィルツの要求は大量殺人に関連するには遅すぎるとみなしている。

したがって、「Leicenkeller 1(死体安置用地下室1)」を殺人ガス室に改造するという決定は、「Leicenkeller 2(死体安置用地下室2)」を脱衣室に改造するという決定を意味し、この二つの決定は同時に行なわれたのである。

(マットーニョ、ATCFS、74ページ)

うーん...いや、火葬場の地下に殺人ガス室を設置するという決定は、地下に脱衣室も設置するという決定を意味するものではない。その可能性はあるが、SSが犠牲者の脱衣場所をまだ決めていなかった、あるいは、火葬場の庭や厩舎の馬小屋で脱衣させると考えたということも、先験的にありうることだ。後者の方法は、ブンカー収容所ではすでに採用されており、第2火葬場の計画や建設初期段階でも同様の方法が検討された可能性がある。

実際、火葬場2の庭に脱衣バラックが実際に建てられていること(+ヴィルツへのヤニシュのメモには、脱衣バラックが一時的な措置にすぎないという情報がないこと)とは別に、このようなシナリオは、1942年12月19日の火葬場2の建設図面2003によっても裏づけられている。この図面は、地下室へのアクセス階段が、裏庭(死体シュートあり)から火葬場の前庭(死体シュートなし、なぜなら--プレサックが観察したように--、「未来の死体はまだ生きているうちに入り、階段を歩いて降りられるから」、『技術』302頁日本語訳)、このシリーズの次のブログ記事も参照)へと直接移動したことを物語っている。しかし、この新しい構成でも、外から直接脱衣室に出入りすることはできなかった。つまり、犠牲者はまったく同じドアから脱衣室に出入りしなければならず、SSにとっては、脱衣とガス室への装填(註:犠牲者の各部屋への誘導)がかなり面倒であったろうと推測されるのである。

したがって、この段階(建設事務所長カール・ビショフが図面を承認した1943年1月5日)で脱衣室に直接アクセスできないことは、犠牲者を死体地下室2で脱衣させるという明確な決定がまだなされていなかったか、少なくとも、その決定がまだ中央建設事務所に伝えられていなかったことを示している。脱衣室への直接アクセスは、1943年2月26日の建設事務所のファイルに最初に記載されており、これは、死体安置用地下室2が脱衣室に改造されると考えられたと推測できる最新の日付日本語訳)である。ゾンダーコマンドのヘンリク・タウバーによると日本語訳)、最初の殺人ガス処理には使われなかったが、おそらく、その換気が翌週日本語訳)に完了したばかりであったからであろう。

脱衣場が衛生的な措置であったというマットーニョの仮説は、いずれにしても、あまり意味をなさない。マットーニョによると、ヴィルツは、ビルケナウ収容所で死体の保管に使われていた「木の小屋」を衛生的・保健的観点から不適切と考え、「したがって、死体をより安全な場所に運ぶことを意図し」、これらの死体のための「Auskleideraum(脱衣所)」を火葬場Ⅱの「地下室」に設けることを要請した(ATCFS, p. 76)、としている。

この仮説では、ヴィルツが単に死体を安全に保管する場所を意味していたのに、なぜ「脱衣所」と言ったのか、その理由も説明できない。もちろん、火葬の前には遺体を脱ぐのだが、ヴィルツが要求したとされるこの部屋の第一の目的は、保管庫である(ところで、衛生面を考えると、シラミなどを火葬場に持ち込むより、死んだ場所で服を脱がせた方が合理的だと思うのだが.....)。そして、火葬場の中に死体倉庫を作るという、いささか冗長な要望を打ち出していた。もう一つの問題は、ヴィルツへのメモでヤニシュが、脱衣用の木造バラックが一時的な措置に過ぎないことを指摘していないことだが、これはマットーニョの解釈にとって決定的な点である。

したがって、脱衣室が死体用であったというマットーニョの説明は、資料をうまく説明できないだけであるが、実際にこの仮説を殺しているのは、馬小屋バラックと死体地下室2の両方が、殺人ガス室の犠牲者の脱衣に使われたという証拠が豊富に存在することである。

結論

マットーニョが言うのとは対照的に、ヴィルツから収容所司令官への手紙は、脱衣室が死体用であったのか生きている人間用であったのかの問題を解決していない。ヴィルツは、衛生条件と殺戮の両方に責任を負っていた。この書簡そのものは、脱衣室の理由を説明していない(ところで、ポールの「特別な任務、それについては言葉を発する必要はない」という言葉日本語)と一致している)。

いわゆる死体安置用地下室2が、火葬場での死体の脱衣のために特別に意図され、使用されたという証拠は(文書でも証言でも)ない。一方、まさにこの死体安置用地下室2(当時のドイツの資料では脱衣室/部屋と指定されています)が、ガス室の犠牲者の脱衣に使われたという多くの証言的証拠がある。同様に、第2火葬場の庭に建てられた脱衣用のバラック日本語訳)は、火葬場で殺された人々のために使われたと確認されている日本語訳)。このように、入手可能な証拠をすべて考慮することで、脱衣室の目的の問題は実際に解決される(決定的ではないにせよ、歴史的知識は証明的な性質を持っていることを思い出してほしい)。

投稿者:ハンス・メッツナー@2015年03月07日(土)

▲翻訳終了▲

この論述に関しては、私自身で「ホロコースト否定論者の筆頭格マットーニョ論文を自分でやっつけてみよう」と題した記事も書いています。

上のハンス・メッツナーの記事にしても、私自身の記事にしても、ビルケナウの火葬場の設計・建設の進捗状況や、それに伴う各種図面などをある程度理解しておかないとやや分かりにくいかと思われます。そのためには、プレサックの『技術』に目を通しておく必要もあります。

マットーニョは、このクレマトリウム2(及び3)についての、いくつかの当時の文書に記述されてしまっていた「脱衣室」を、「ビルケナウで自然死した囚人遺体を火葬する前に脱衣させる場所だった」と解釈して、ガス室の犠牲者のための脱衣室ではなかった、と読ませるようにしたわけですが、色々と小賢しい論述をおこなっているのですけれど、マットーニョがその一つの根拠としたヴィルツ医師の文書にしても「死体の」脱衣室を火葬場の地下に作れなどとは一言も言っていないので、何の根拠にもなりません。火葬場の外にあった最初の脱衣用バラックにしてもそうです。マットーニョも理屈が弱いと感じたのか、ベルゼン裁判での証言まで探し出してきて、「火葬の前には火葬場の囚人たちが死体の服を脱がせていた」なる証言まで利用しています。しかしその証言で述べられているのは、「火葬の前に脱がせていた」だけの話であり、そんなの当たり前です。囚人服は勿体無いので再利用しなければなりません。実際、マットーニョが引用した部分でカルマー親衛隊大尉はそう述べているのです。

「日中に亡くなった人は、死体安置用建物(Leichenhaus)と呼ばれる特別な建物に運ばれ、遺体は毎晩、トラックで火葬場に運ばれた。囚人がトラックに乗せたり、トラックから降ろしたりしていた。彼らは火葬の前に、火葬場の囚人たちに服を剥がされた。着用者が伝染病で死亡していなければ、衣服は洗浄されてリサイクルされた。」

その場所が脱衣室だとすら述べていません。ちなみに、上の翻訳文中でハンス・メッツナーが括弧書きで書いたとは言え、「ところで、衛生面を考えると、シラミなどを火葬場に持ち込むより、死んだ場所で服を脱がせた方が合理的だと思うのだが.....」は余計だと思われます。実際に死体の脱衣をどうやっていたかなんて、それを記述した文書も証言もないからです。せいぜいこのカルマ大尉の「火葬の前に火葬場の囚人が脱衣させていた」があるだけですし、この証言を認めるとハンスの括弧書きの理屈は証言に矛盾しているので否定されます。よくあることなのですが、こうした論敵の論述を反論する時に、反論者は余計なことを言いがちです(私も含めてw)。

では次へ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?