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アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、その5:建設文書、D:外開きドアと死体シュートの撤去

アウシュヴィッツ収容所についての一般的な誤解は多くあるのですが、その中の一つに、ユダヤ人絶滅の主たる現場であったビルケナウのクレマトリウム(火葬場)は最初からユダヤ人絶滅を目的として計画され、建てられたものである、とするものがあります。ジャン・クロード・プレサックがアウシュヴィッツ博物館等で大量の図面や文書資料を調べ上げて、『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』で、実は最初からユダヤ人絶滅を目的としてビルケナウのクレマトリウムが計画・建設されたのではなかったとはっきりさせるまでは、多くの学者もそのように誤解していたようです。

しかし、アウシュヴィッツ収容所の所長であったルドルフ・ヘスは自伝で、1942年の春から実施されたビルケナウ敷地外のブンカーでのユダヤ人絶滅の説明の後に、こう書いています。

さて、戸外での最初の屍体焼却の時、すでにこのやり方は、長く続けられないことが明らかになった。悪天候や風の強い時など、焼却の匂いはあたり数キロにひろがり、周辺の住民全部が、党や行政当局の反対宣伝にもかかわらず、ユダヤ人焼却のことを話題にしたからである。

一方、この虐殺作戦に加わった全てのSS隊員は事態について沈黙を守るよう、特に厳しく義務づけられていた。しかし、後のSS法廷での審理でも示されたことだが、関係者はこれに関し沈黙を守らなかった。重い処罰も、このおしゃべりを封じることはできなかった。

さらに、防空隊も、夜陰にも空中で見えるこの火に対して抗議を申し入れてきた。しかし、つぎつぎ到着する移送者をとどこおらせぬためには夜も焼却をつづけねばならなかった。輸送計画会議で、交通省によって正確にきめられた輸送計画は、関係路線の渋滞と混乱をさけるためにも(特に軍事的理由からして)、無条件に厳守されねばならなかった。

こうした理由で、全力をあげて計画を推進する一方、結局、大きな火葬場が二つ建てられ、ついでは一九四三年にはそれより小規模のもう二つが追加された。さらに後になって、規模の点では既存のものを遥かに凌ぐような火葬場が一つ計画されたが、これはもはや実現の運びに至らなかった。というのは、一九四四年秋、ヒムラーはユダヤ人虐殺の即時中止を命令したからである。

ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫より)

つまり、ヘスの自伝の記述によると、ビルケナウの火葬場は最初から純粋にユダヤ人絶滅のために計画・建設されたのではなく、ブンカーでの絶滅で死体処理を野外焼却にしたことから、それを続けるのが難しいと判断されたために、ビルケナウの火葬場で行うように変更した、と読むことができます。つまり、ヘスの証言が意味しているのは、最初からユダヤ人絶滅目的でビルケナウの火葬場を作ったのではなく、途中で設計変更されたということなのです。

このビルケナウの火葬場の建設図面は複数残っており、作図時期が異なったものがあり、これらを比較して読み解くと、プレサック曰く「犯罪以外の論理が通用しない」構造へと変更されたことがわかるのです。というのは、当初は収容所内で発生した囚人の死体を、死体安置用地下室(Leichenkeller)に保管するような設計になっていたのに、それが困難な設計へと変更されているのです(図面からの死体シュートの消失)。また、その死体安置用地下室1の出入り口の扉が何故か、最初は内開き設計だったのに、外開き設計へと変更されています

図面からの死体シュートの消失、すなわち死体安置用地下室に死体を下ろすためにあった死体シュートを図面から消したという事実は、死体を下ろす必要がなくなったことを意味するとしか考えられません。それと共に死体安置用地下室1のドアが内開きから外開きへと変更されているのは、内開きでは不都合が生じるためであると考えられ、すなわち、死体安置用地下室1をガス室に使用する目的変更を行ったので、内開きのままであるとガス室内の犠牲者の死体によってドアが開けにくくなってしまうからだ、と簡単に推定することができるのです。

死体シュートは実際には作られました。以下はクレマトリウムⅢの廃墟にある死体シュートの写真です。

プレサック、『技術』、p545

おそらく、計画変更時には既に建設中のクレマトリウムに死体シュートが作られてしまっていたのだとプレサックは推定しています(しかし、階段と共に作られた死体シュートは、地下の通路(脱衣室とガス室の間)の位置で木枠で囲まれて隠された、とプレサックは書いています。プレサックは『技術』で、木枠で囲まれたことを示す資料を提示していませんが、マットーニョの『アウシュヴィッツ:その健全な論拠』には掲載されているそうです)。しかし、アウシュヴィッツの建設部が図面から死体シュートを消したのは明らかで、その一階図面を見ると、その死体シュートのあるべき位置は倉庫に変更されてしまっているからです。

前回の脱衣室の話と合わせれば、こうした設計変更の目的は特に問題なく理解されると思うのですが、マットーニョら修正主義者にとってはそうはいきませんので、脱衣室同様別の解釈でこれを否定する必要があります。ではその内容を見ていきましょう。

▼翻訳開始▼

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、その5:建設文書、D:外開きドアと死体シュートの撤去

アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論
第1部:屋内火葬
第2部:火葬場でのガス導入について
第3部:目撃者補足
第4部:ゾンダーコマンドの手書き文字
第5部:建設関係の書類
A:はじめに
B:換気・エレベータ
C:脱衣室
D:外開きドア&死体シュートの撤去
E: ガス探知機
F:特別処理の同時火葬
G:ガス室

前回のブログで、1942年12月19日の第2火葬場の図面2003(1階地下)に少し触れたが、この図面では火葬場の地下にいくつかの変化が導入されている。

図面2003(1階)
図面2003(地下)

これらの変更は、ジャン・クロード・プレサックが『アウシュヴィッツのガス室の技術と操作』p. 302 f.(日本語訳)で詳しく研究しているが、主として、大量殺戮場所への変貌によって説明することができる。

死体シュートの撤去

1941年11月以降に作成された第2火葬場の図面(プレサック、『アウシュヴィッツの火葬場』、文書11;プレサック、『技術』、p. 272 - 295日本語訳))では、建築家は地下に降りていく階段にコンクリートの死体シュートを用意している。この階段は火葬場の裏庭から出入りでき、その死体シュートは地上から死体貯蔵庫のある火葬場地下に死体を運ぶのに便利な設備であった。1942年12月19日の図面2003では、階段は裏庭から火葬場の前庭に移されたが、死体シュートはもはや実現されていない(こちらを参照されたい)。プレサックは書いている。

死体シュートは廃止された(これは重要な点で、このシュートが不要になったため、Leichenkellerはもはや通常の意味での安置所ではなくなってしまったことを意味し、さもなければ「死体」は徒歩で到着したことになる...死体を運ぶためのシュートを普通の階段で置き換えることは、すべての論理に反する - 将来の死体がまだ生きていて階段を歩いて降りられる状態で入ってこない限り)。

(プレサック、『技術』、p. 302日本語訳))

1994年、マットーニョは、死体シュートのある裏庭の階段は、実は本当は排除されていないのではないか、と反論を試みた。

実は、図面2003は、地下へのアクセスを道路側に移す案(Verlegung des Kellerzuganges an die Strassenseite)に過ぎず、滑り台をなくす案ではなかったのである。したがって、滑り台がないのは、基本的に技術的に関係のない部分のデザインを簡略化したものなのだ。収容所では自然死亡が続いていたので、滑り台の廃止は技術的に不合理であっただろう(安置室への死体搬送にリフトが使われたのでなければ)。

(マットーニョ、『アウシュビッツ:伝説の終わり』)

実は、1942年12月19日にウォルター・デジャコが設定したこの図面2003は、単なる提案ではなく、1943年1月5日に建設事務所長のカール・ビショフによって承認されたものである。死体シュートは撤去されたのではなく、単に示されていなかっただけだという仮説は、階段の代わりに物置が設置されたことを示す対応する1階の図面によって、徹底的に否定された。

ATCFS(2010年)でマットーニョは、階段と死体シュートが省かれているのではなく、新しい部屋に置き換えられていることに気がついた。しかし、1994年当時の自分が単に間違っていて、1階の図面を考慮しなかったと認めるまでには至らなかった。その代わりに、「この問題はこれからより詳細に議論される」(ATCFS, p.130)と述べている。この「より詳細」というのが、先に述べたことを完全に否定していることを除けば、である。この「詳細」が、先に述べたことを完全に否定しているのである。

彼が主張する新発見は、実は昔からあるものなのだ。

1階の設計図で、滑り台と階段があったはずの場所に、「Abstellraum」(倉庫)と書かれた新しい部屋があることを、まだ誰も指摘していない。

(マットーニョ、ATCFS、p130)

このことは、20年以上前(1989年)にプレサックがすでに指摘しており、まさにその著作の中で、さらにはマットーニョが同じページで引用しているページでも指摘されている。

この図面では、クレマトリウムの北庭から地下室への階段の設置を示すことが主な目的であり、時間に追われていたデジャコは、重要でないシュートを省いたと言えるかもしれない。しかし、1階の平面図を見ると、シュートが廃止され、その代わりに物置が設置されていることが確認できる

(プレサック、『技術』、303頁(日本語訳)、私の強調)

プレサックはすでに、死体シュートが単に省略されただけだというマットーニョの後の議論を予期して反論していたことに留意してほしい。マットーニョのプレサックに対する読みは非常に杜撰である。

結局、火葬場の非殺人的利用というマットーニョの仮説の枠内では、死体シュートの廃止は説明できないということである。

したがって、あの図面における滑り台の不在と「Abstellraum」の存在は、それ自体がプロジェクトではなく、単なる説明のつかない事実なのである。

(ATCFS、P.131、私の強調)

しかし、地下で大量殺人が行われたのであれば、この改変はある程度説明がつく。新しい階段は、生きている人々がガス室に入るために地下に降りるために使われることがほとんどであり、火葬場が外部から受け取る死体(もしあれば、火葬場3の場合は、収容所で死亡した囚人の遺体を処分することになっていた)は、大量殺戮がなかった場合よりもずっと少なかったであろうからである。 死体シュートは火葬場の運営にはあまり役に立たず、火葬場の外から来る少数の死体(もしあったとしても)には必要ないと考えられていたかもしれない。

マットーニョは、1941年10月24日のアウシュヴィッツ建築家による火葬場の最初の図面にすでに欠けていたのに、1942年12月19日の図面2003で死体シュートが削除されたことが、なぜ「犯罪的意義」を持つのであろうかと疑問に思っている(その後すぐに1941年11月に追加されたのである)。

デジャコが1941年10月24日に描いた新しい火葬場の設計図には、2つの地下の死体安置室(将来のLeichenkeller 1と2)が、設計図2003とまったく同じように、滑り台なしの階段(「zum L.-Keller 」)あるいは貨物エレベーター(「Aufzug」)を使ってアクセスできることが記されている。貨物用エレベーターはともかくとして、この設計図にある階段は「死体安置所への唯一のアクセスであり、死者は階段を下りていかなければならなかった」というのがプレサックの考えであるが、この結論は、火葬場が通常の衛生設備として計画されたという彼の中心主題とは明らかに食い違っている。したがって、1941年10月24日の設計図でこの配置が犯罪的意味を持ち得ないとすれば、1942年12月19日の設計図2003での同一の配置がなぜ異なって判断されなければならないのか。

(ATCFS, p. 132)

重要なのは、死体シュート自体が存在しないという配置ではなく、すでにほぼ 1 年間設計図にあった後に削除されたことである。文脈が違うからこそ、2つのプランは異なる判断を下さなければならない。1つのケースでは、そもそも死体シュートがない(なぜなら、明らかにアウシュビッツの建築家たちは、1日あたり1440体の遺体を収容できる火葬場を建設する場合、死体を地下室に運び込む効率的な方法が必要だということを忘れていたからである)。もう1つのケースでは、このような解決策、つまり死体シュートがすでに1年近くも前から実装されていたのに、何の代替案もなく設計図から削除された。この図面では、死体シュートがないのではなく、排除されていることが怪しいのである。

とにかく、死体シュートのある階段は、実際に第2火葬場に作られたものなのである。改造が工事現場に届くのが遅すぎたと推定できる(『技術』303頁(日本語訳)のプレサックの説明)。第3火葬場にも建設されたが、ここでは、1942年末には、建設はそれほど進んでいなかった(マットーニョ、ATCFS、p. 131を参照)。火葬場3が大量殺戮の場となったことを示す最初の証拠日本語訳)は、1943年3月6日と遅く、火葬場3は、これ以前にアウシュヴィッツ複合施設の登録囚人の中の死のために確保されていたのではないかと推測することができる。あるいは、SSは、地下への余分な階段と死体シュートの有用性について考えを変え、第3火葬場の改造を中止したのかもしれない。興味深いことに、階段+死体シュートは、ドア付きの「スライド前の地下室の木の仕切り」(1943年3月18日と4月10日の中央建設事務所からの命令、マットーニョ、ATCFS、133頁)によって閉じられているが、これは、犠牲者が階段で1階に行くのを防ぎ、代わりにガス室にまっすぐ誘導するためであったと思われる。

内開きドアから外開きドアへの変更

1941年11月、民間人建築家ゲオルク・ヴェークマン(SS-WVHAのために働いていた)が、将来の火葬場2の地下階の詳細を示す設計図を作成した。彼の構想によると、死体安置用地下室1(後のガス室)は、内側に開く二重扉になっていた。この開口方向は、殺人ガス室ではガス処理された犠牲者の死体がドアを塞いでしまい、開口することができないため、やや相性が悪い。1942年12月19日、デジャコは2003の図面で二重扉の開閉方向を反転させた(こちらも参照)。外開き扉によって、死体でふさがれた場合にも開くことができるようになった--これは、殺人ガス室にとってはきわめて重要な機能であった。後に、二重扉は一重扉に縮小された(プレサック、『技術』、p. 436日本語訳)の1943年3月31日の書簡を参照)。

マットーニョは、この問題の扱いにどうしようもなく困惑していた(実際には設計図2003を意味するのに、「設計図932」と書いてしまったからというだけでなく)。

2.5.5章で見たように、ヴァン・ペルトは、保存されていない1942年10月22日の火葬場Ⅱの設計図(ヴァン・ペルトにとってなんと都合のよい!)に、Leichenkeller 1の屋根にチクロンB導入のための開口部の位置が示されていると推測している。設計図932は、Leichenkeller 1の半地下と一階の約10mの断面を示しているが、「金細工」(Goldarb.;歯の詰め物と冠の回収)用の部屋と前庭(Vorplatz)の間に2つの換気シャフトが示されているのと同様に、4つとされるチクロンB開口のうちの少なくとも1つが表示されているはずである。したがって、この設計図には、Leichenkeller 1が殺人ガス室として使われたことを示すものはなく、したがって、このホールへのドアの開き方は、それ自体、犯罪的意味合いを持つものではない」。

(ATCFS, p. 145 f.)

マットーニョは、そのわずか15ページ前の1994年に、同じ図面(死体シュート付き階段の欠落について、上記参照)について、「技術的に無関係な部分の簡略化」(ATCFS、130頁)として省かれたことを、前の議論の構造に異議を唱えることなく思い出していたことを完全に忘れている。さて、マットーニョが考えているように、死体シュートのある階段が「図面の無関係な部分の技術的に無関係な単純化」として省かれることができたとすれば、ガス導入口はなおさら(地下へのアクセスを移転するためにはさらに技術的に無関係で、図面のさらに無関係な部分にあったので)そうであろう。

さらに、図面2003及びその主図面932には、1階の炉室の天井に設けられた第1換気口も示されていない。明らかに、この種の図面は、とにかく部分的にしか示されていない部屋の屋根の自由な開口部を描写することを意図したものではなかった(そして金の作業室や玄関の換気シャフトのように壁に取り付けられたものではなかった、ATCFS 144ページ参照)。ヴァン・ペルトが『アウシュビッツの論拠』370頁で指摘しているように、鉄筋の入った天井の詳細図が別にあり、そこには、そのような開口部が実現されているはずであった。この図面はガス室用に失われている(修正主義者にとってなんと都合がいいことか!)。

ガス室の内開き扉を外開きに変更した理由についての説明は、マットーニョがゲルマー・ルドルフの『ルドルフ報告』から引用している。

ゲルマー・ルドルフは、ドアの向きを変えたのは、全く無害ではあるが技術的な理由があったのではないかと指摘している(2003b, p.106)。

「ドアの向きが変わったのは、この死体安置所の換気システムの設計によるものだろう。このシステムの空気入口は出口よりも抵抗が大きかったため[...]、死体安置用地下室1ではかなりの減圧が起こり、建物の他の部分から常に空気が吸い込まれていた。これは、多くの死体を保管しなければならない死体安置所にとって、不快な臭いが他の場所に届かないようにするために望まれる効果である。圧力の低い側(死体安置所1内)に開く二重扉は自動的に開き、圧力の高い側に開く扉は自動的に閉じる」

(ATCFS, p. 145)

しかし、ルドルフの仮説は成り立たない。というのも、未来の脱衣所の二重扉は内側に開いたままであり、その換気は排気だけで、したがって副圧で確実に作動していたからである。あるいは金加工室や解剖室も、すべて排気と内開きの扉が付いていた。明らかに、建築家は部屋の中のわずかな副気圧を、内側に向かって開く両開きのドアの問題とは考えていなかったようである。

そのため、改造の理由は別のものであった。しかも、それは非常に深刻で差し迫ったものでなければならない。それは、この変更が建築上の欠陥をもたらしたことから推測されることで、デジャコはそれを免れることができなかった。新しい配置では、死体安置用地下室1の外開き扉の右扉が、エレベーターの左扉を塞いでいる(プレサック、『技術』、 p. 303を参照)。このことは、死体安置用地下室1の扉が内開きのままであることはありえないことを示唆している。他の扉を塞いでいようがいまいが、外側に開くしかなかったのである。死体安置室1に殺人ガス室が設置されたのは、そのような理由があったことは確かである。


註:つまり、このドアの開き方向の変更ではエレベーターのドアを塞ぐにもかかわらず、それでも死体安置用地下室1の扉を外開きに変更したという事実は、外開きに変更する以外になかった、すなわち、殺人ガス室に目的変更したため、犠牲者でドアが開けられないような内開きにはしておけなかったことを意味するのです。外開きにしてエレベーターの扉を開くのに邪魔になるとしても、エレベーターの扉のもう一方は開くので、死体の積み込み作業は何とかなると考えたのかもしれません。しかし、死体安置用地下室1の扉は結局、外開き一枚扉に変更されたのです。


結論

1942年12月19日の図面2003(1943年1月5日承認)における死体シュートの削除とガス室のドアの開口方向の変更は、両方ともマットーニョによって説明されておらず、さらに、修正主義者の論文の枠内で、技術的あるいは建築的に不合理なものである。

これに対して、これらの改変は、死体安置用地下室1に殺人ガス室が実装され、死体を受け入れるだけの火葬場から死体を作り出す大量殺戮施設に移行したことで説明できる。

このように、デジャコの図面2003では、集団絶滅のテーゼの方が明らかに高い説明力をもっているのである。

Posted by ハンス・メッツナー at 2015年03月15日(日)

▲翻訳終了▲

それにしても、ルドルフの説明は苦しすぎです。ドアが内開きだろうと外開きだろうと、臭いを防ぎたいなら、ドア閉めて換気システムを作動しておけば済む話ですし、死体を取り出す時には換気システムを止めればいいだけです。ドアが自動で開け閉め? 何を言っているのか意味不明です。

修正主義者は、プレサックの強力な論理以上の、それを否定する論理を構築できなかったってことです。プレサックは推論を誤っていることもしばしばありますが、この件に関してはプレサックの説明以外の説明は無理だと思います。

死体シュートの廃止に関しては、クレマトリウムⅡについての最初の脱衣用バラックと合わせて考えると、もっと分かりやすくなります。図面2003で地下への階段を反対側へ移動し、最初の脱衣室案である脱衣バラックをその階段のそばに建設しています。これはおそらく、犠牲者が脱衣してからガス室までの動線を考えたからだと思われます。階段は降りますがほぼ直線的にガス室へ入れるのです。で、その反対側にあった階段+死体シュートを図面から消したのです。明らかに目的・用途変更だからです。

じゃぁ、元々計画していた収容所内の囚人の自然死(?)死体はどうするんだ? という問題が残るのですが、これは当初計画していたビルケナウの火葬場はクレマトリウムⅡの一つだけだったと考えると、それがビルケナウに四つに増えたので、分散させてさっさとそれら火葬場でガス処刑遺体と混ぜて一緒に処分すれば大丈夫だろうと考えたのではないでしょうか? 火葬場以外にも収容所内のどこかのバラックに一時的に死体を保管することもできますし、実際にそうしていたようです。火葬場2と3の利用に関しては、火葬場それ自体は地上階にあるのですから、火葬場の外にそれら自然死遺体を下ろして、火葬場に運び込めばそれで済むわけです。地下に下ろす必要などありません。

以上のように考えれば、これら設計変更の経緯は容易に納得可能だと思うのですが、修正主義者にはそれは無理難題ではあります。

では次へ。


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