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アウシュヴィッツでのユダヤ人のガス殺は具体的にどのようにして行われたのか? ルドルフ・ヘスの自伝から。

ホロコーストなど、歴史を学ぼうとすると、ネットのみでは不可能な部分が多い。おそらくは、英語を日常的に使えるレベルならば、海外サイトで相当に学ぶ事は可能であろうが、日本語のみではほとんど無理だろう。私にしても喉から手が出る程欲しい海外文献には、その言語の壁の為、Amazonでそれら書籍をよだれ垂らして眺める他はない。

そんな状況であるから、ホロコーストを学ぼうという日本人ならば、最低限は読まねばならない本というものがある。一冊目はどう考えてもこれである。

これ以上コンパクトにまとめられたホロコースト解説書もないだろう。私はKindle版で持っているので、スマホでいつでもどこでも読めるが、実は一度読んだきりであることを告白しておく。興味の対象が、否認論の方なので、そんなに役立つわけではないからだけど、しかし、その一度読んだだけでも、これが良書だという事は断言できる。

二冊目は否認論者ならガックリ肩を落とすかもしれないが、下記の本だと私は思える。

これは、1995年2月に起きたいわゆる「マルコポーロ事件」に応答する形で、1995年5月に翻訳され出版された本である。原著自体は1994年に出版されており、マルコポーロ論文に対抗する目的でこの本が選ばれたのだろうと思う。この本には簡潔に修正主義の内容が載っており、こうした当時の海外の修正主義の状況を伝えるとともに、例のロイヒターレポートを簡潔に直接反論する内容も載っている。ただ、前半はアウシュヴィッツを中心とした強制収容所・絶滅収容所に関するホロコーストの内容をコンパクトに解説しており、わかりやすいのではないかと思う。また、後半は日本の研究者(柴野由加、石田勇治、芝健介、西川正雄)による解説が載っていて、これが非常に興味深い一章を形成している。

三冊目は、歴史修正主義を知るには不可欠の、歴史修正主義者ならば、絶対に真面目に読まないこの本であろう。

この分野の第一人者の研究者だから、非常に詳しい歴史修正主義の解説本である。これも、前掲書と同様に、1995年11月に翻訳出版だから、「マルコポーロ事件」に呼応してのものであろう。前書きがデーブ・スペクターである。もし、あなたがホロコースト否認論に興味があるならば、日本語で読むことが可能な本としてはこれ以上の歴史修正主義解説本は存在しないだろう。当然だが、歴史修正主義者たちはリップシュタットを目の敵にする。デヴィッド・アーヴィングがこのリップシュタット教授を告訴したのは、間違いなくアーヴィング自身が目立ちたかったからである。ホロコースト信者の頭目の首を跳ねてしまえ! のようなものだったに違いない。アーヴィングの目立ちたがりは半端ではないのだ。かつて偽造の「ヒトラー日記」をある出版社が高額で買うなどと発表した記者会見場に、ズカズカと乗り込んで「この日記は偽物である!」と叫んだのがこのおっさんである。そりゃそうだ、アーヴィングはヒトラー研究第一人者を自負する歴史家だったからね。そんな紛い物をまともに扱われては沽券に関わるとでも思ったのだろう。

では、四冊目は何だろう? いくらホロコーストに対する関心が日本は欧米よりも少ないとは言え、それなりにたくさんのホロコースト関連書籍は販売されている。『アンネの日記』や『夜と霧』など、私はまだどちらも読めていないが、それらを含め、かなり多いのは事実である。でも、もし仮に、否認論と対抗したいという気があるのであれば、避けては通れない書物がある。

いちいち言わなくてもいいかとは思うけど、ホロコースト否認派は、この本に書いてある事は嘘であると言って憚らない。否認派は鼻で笑う態度しか取らないのがこの本であるので、例えば「ヘスは拷問されて連合国の言いなりになり、連合国の背後にいるユダヤ・シオニスト・イスラエルのためにホロコーストを肯定する回想録を無理やり書かされたのである」などと解釈するそうである。一応ヘスはこの自伝の本編のラストで「この本は誰にも強要されずに書いた」と書いているが、まぁ、そんなの嘘でも書けるしね、ってなもんなのだろう。ともかくも、ガス室虐殺の内容が詳しく書いてあるので、否認派が絶対に認めるわけのない本である事は間違いない。

では具体的にどんなことが書いてあるのだろうか? 今回は、『アウシュヴィッツ収容所』(ルドルフ・ヘス著、片岡啓治訳、講談社学術文庫、1999)から若干引用してみようと思う。日本での訳出初出は1964年に弘文堂から出版され、その後サイマル出版から1972年に出版されている。

ほんとは、スキャナーでも使って OCRに掛けてドカンといつもの翻訳記事のようにたくさん紹介したいのではあるのだけど、見ながら手入力というマニュアルな手段で引用していきます。なので、そんなに大した分量はありませんが、雰囲気だけでも掴んでください。こうした詳しい記述が本には何倍も記載されています。否認派が絶対にルドルフ・ヘスのこの自伝を認めない理由がわかると思います。


▼引用開始▼

『アウシュヴィッツ収容所』(ルドルフ・ヘス著、片岡啓治訳、講談社学術文庫、1999)、第二部 ユダヤ人と私たち、1ユダヤ人をどう処理したか、p379より。

 一九四一年夏(*)、正確な日付はもう覚えていないが、私は突然、ベルリンのヒムラーの元へ来るようにという命令を、それも彼の副官を通じて直接受けた。この時、ヒムラーは、それまでの彼の習慣と違って、副官も遠ざけた上で、およそ次のような意味のことをいった。

 総統は、ユダヤ人問題の最終的解決を命じた。われわれSSはこの命令を実行しなければならない。東部にある既存の虐殺施設は、この大がかりな作戦を実行できる状態にはない。従って、自分は、アウシュヴィッツをそれに当てることにした。理由の第一は、交通の弁が良いこと。第二に、そこなら一定区域を遮断、偽装するにも容易であること。

 自分は、最初、SS高級幹部をこの任務に当てようとした。しかし、事前に職務権限上の難点にぶつかったので、これは中止。今は、君がこれの任務に当たらなければならぬことになった。これは、厳しく重大な仕事で、その任に当たる者は全員、いかなる困難にもひるまぬことが要求される。これ以上の詳細については、いずれ国家保安本部から大隊長アイヒマンが行って君に説明する。関係部署は追って私から君にしらせる。この命令については君は絶対に沈黙を守り、上長にも絶対洩らしてはならない。アイヒマンと打ち合わせたあと、自分は予定の計画書を君に送る。

 ユダヤ人は、ドイツ国民の永遠の敵であり、殲滅しつくされねばならない。われわれに手の届く限りのユダヤ人はすべて、現在この戦争中に、一人の例外もなしに抹殺されねばならない。今、われわれが、ユダヤ民族の生物学的基礎を破壊するのに成功しなければ、いつかユダヤ人が我がドイツを抹殺するであろう、と。

*:引用者註:この「1941年夏」という時期を否認派はヘスが嘘を書いているという理由にする。何故ならば、

「東部にある既存の虐殺施設は、この大がかりな作戦を実行できる状態にはない。」

とヒムラーが言ったとあるが、1941年夏にはそれら絶滅収容所は影も形もまだ存在していないからである。1942年7月にヒムラーはアウシュヴィッツを訪問しており(根拠はどこかにあるのですが忘れました)、その時に、そうした話が出たのだろうと思われる。ただし、ヘスがヒムラーに呼ばれてベルリンで「ユダヤ人問題の最終的解決」の話があったのは1941年夏ではないかと思われる。何故なら、後述されるチクロンに至るまでのガス選定や場所の選定作業などが始まるからである。

ヘスが明らかに、時期を混同しているのは、この後の記述からもわかる。後述される部分から引用すると、

「十一月末、アイヒマンはベルリンの彼の管轄部署で、ユダヤ人担当官全員の職務会議を開き、私もそれに召集された。ここの地域でのアイヒマンの命を受けた者が、作戦の現状、ならびに作戦の実施にあたって直面している諸困難、逮捕者の収容、移送列車の調整、輸送計画会議等々について報告した。

 作戦の開始については、私もまだ伝えられなかった。それに、アイヒマンも、適当なガスを探し当てられないでいた。」

とあるのに、チクロンBが決まったのは1941年9月なのである(ヘスは1941年秋としか書いていないが)。従って、単純にヘスが日付・記憶を間違えて思い出していると結論されるだけなのだ。いずれにしても、ヘスは正確な日付を覚えていないと記述しているのに、正確さを求める否定派って何なのだろう?

アイヒマンとの打合せ

 この極秘命令を受けて後、私はオラニエンブルクの直属上司の元へ出頭せず、すぐアウシュヴィッツに引き返した。それに引き続いて、アイヒマンが、アウシュヴィッツの私のもとに来た。彼は各国での行動計画を、われわれに次々と説明した。その順序は、もう私も正確には述べることができない。

 アウシュビッツにとって、まず第一に問題とされたのは、上シレジア東部と、それに隣接する総督地下の地区である。同時に状況に応じて引きつづき対象となるのは、ドイツとチェコスロヴァキアのユダヤ人。続いて西欧(フランス、ベルギー、オランダ)。彼は予想される移送者数の概数をあげたが、これは私ももう覚えていない。

 さらに、われわれは、虐殺の実行方法について話しあった。問題となりうるのは、ガスだけであろう。銃殺では、予想される大群を片づけるのは、絶対に不可能であろうし、また、女子供の姿を目の前にしてこれを実行する事は、SS隊員にとっては、大変な負担となるだろうからである。

 アイヒマンは、それまで東部で実行されてた、といって、トラックのエンジン排気による殺害のことを私に教えた。しかし、これも、アウシュヴィッツに予想される大量の移送者には、とても問題にならない。一酸化炭素を浴槽に吹き込んで殺害する方法(これは、ドイツ国内の数カ所で、精神病者を抹殺するのに用いられていたが)は、あまりに施設に手がかかるし、それに、一酸化炭素ガス作戦もこれほど大量となると、問題がある。

 結局、この問題について、われわれは結論を出せぬままに終わった。アイヒマンは、簡単に作れてしかも特別な設備を必要としない様なガスを調査した上で、私に報せると言った。

 次に、われわれは。適当な場所を探すためあたりの地勢を見てまわった。我々はのちにビルケナウ第三分区となる北西の一角にある農場を適当と判断した。そこは引っ込んだ場所で、まわりの森や植え込みで見通しをさえぎられ、しかも鉄道線路からそう遠くない。

 屍体は、隣接する草原に深くて長い壕を掘って埋葬する。焼却という事はその時点でまだわれわれの念頭に浮かばなかった。われわれは、適当なガスを濃縮化すれば、そこに既存の屋内で、優に八〇〇人は殺害できると計算した。この計画は実際ぴったり合った。

 作戦開始の時点は、アイヒマンもまだ私にはっきりいえなかった。万事がまだ準備段階で、それにヒムラーもまだ命令を下していなかったからだ。

 アイヒマンは、ベルリンに帰り、われわれの話し合いの結果をヒムラーに報告した。数日後、私は、正確な状況見取り図と施設に関する詳細な説明を、急便でヒムラーの元に送った。それに対する回答もしくは決定は、ついに受けとらなかった。その後のある時アイヒマンが、SS全国指導者(ヒムラー)はそれを了解したと私に話してくれた。

 十一月末、アイヒマンはベルリンの彼の管轄部署で、ユダヤ人担当官全員の職務会議を開き、私もそれに召集された。ここの地域でのアイヒマンの命を受けた者が、作戦の現状、ならびに作戦の実施にあたって直面している諸困難、逮捕者の収容、移送列車の調整、輸送計画会議等々について報告した。

 作戦の開始については、私もまだ伝えられなかった。それに、アイヒマンも、適当なガスを探し当てられないでいた。

*:アイヒマンはこの件に関し、『アイヒマン調書――ホロコーストを可能にした男 』(岩波現代文庫、p106)で、ヘスの作り話だと主張している。しかし、ごく一般的な類推をすれば、アイヒマンの方が嘘をついていると思うだろう。何せ、アイヒマンは徹頭徹尾、自分に責任はないとしか主張しないのだから。対してヘスは責任自体は認めている。

チクロンBの威力

 一九四一年秋、秘密特別命令により、捕虜収容所内で、ロシアの政治将校(ボリトルクス)、政治委員、その他特別の政治団体員がゲシュタポの手で選別され、粛清のためにそれぞれ隣接の収容所に送られた。アウシュヴィッツにも、たえずこの種の小部隊が到着し、校舎の建物近くの塹壕内か、第十一ブロックの営庭で銃殺された。

 ところが、私が公用旅行にでた間に、私の代理・突撃本隊長、フリッチュが、彼のイニシアティーヴにおいて、このロシア人捕虜の殺害にガスを用いた。つまり、彼は地下室にある独房全部にロシア人をすし詰めにし、ガスマスクをつけた上で、チクロンBを各房に投入、瞬時に死亡させたのである(*)。

*:『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(白水社、p45)によれば実は、瞬時に全員を死亡させたのではなく、ガス投入後の翌日の朝になって確認したら生き残っていた囚人が何人かいた。この囚人は再度チクロンBを投入し殺害した。ヘスは文中にある様に公用旅行中であり、現場を見ておらず報告を聞いただけである。

 チクロンBガスは、アウシュヴィッツでは、テッシュ&スタベノフ社が、害虫駆除のために常時使用し、そのため管理部にはいつも、缶入りガスの備蓄があった。最初のころ、この毒ガス(青酸剤の一種)は、厳重に予防措置を講じた上で、テッシュ&スタベノフ社の係員だけが用いたが、その後、若干のSDG(衛生兵)が、同社で消毒係として訓練を受け、以後、彼らが伝染病駆除と害虫駆除の際の毒ガス使用に当たった。

 アイヒマンが次に訪れた時、私は、このチクロンBの使用について報告し、かくしてわれわれは、来るべき大量虐殺の際には、このガスを使用することに一決した。

 上記のロシア人捕虜のチクロンBによる殺害は引き続き行われたが、第十一ブロックは用いなかった。ガス使用後、建物全部の換気に少なくとも二日を必要としたからだ。そのため、看護室近くの火葬場の屍体置き場がガス室に利用された。その際、ドアはガスを遮断するようにされ、ガス噴射用の穴がいくつか天井にあけられた。

 しかし、私が今なおわずかに覚えているかぎりでは、そこでガス死させられたのは、ロシア軍捕虜九〇〇人の一部隊で(*)、その焼却にはかなりの日数を要した。その後、ユダヤ人虐殺にあてられた農場で、ロシア人がガス死させられた事はない。

*:この辺、事情をまだよく知らないのだが、例えば『ホロコースト大事典』(柏書房、p140)の記載によると、このいわゆるクレマトリウムⅠが使用されたのは、1941年9月から1942年12月までとあり、このロシア軍捕虜九〇〇人の一部隊だけではないようである。つまりここでヘスが述べているのは、この最初のクレマトリウムⅠでの最初の一回のことだけを述べているということであり、その後のクレマトリウムⅠの使用については自伝の中で一切触れられていない。

虐殺開始

 ユダヤ人虐殺がいつ始められたかについては、私はもう正確に覚えていない。一九四一年九月には、確かにまだ開始されてはおらず、多分、一九四二年一月のことではないかと思う。

 最初に対象となったのは、上シレジア東部のユダヤ人である。このユダヤ人たちは、カトヴィッツ地区国家警察の手で逮捕され、鉄道で運ばれ、アウシュヴィッツ・ヅィーヅィチェ引き込み線西側の荷役ホームにおろされた。私がまだ覚えているかぎりでは、この移送者は千人をこえなかった。

 荷役ホームで、このユダヤ人たちは国家警察から収容所の受け入れ部隊に引き渡されて、二組に分けられ、保護拘禁所隊長の手で、虐殺施設に当てられた倉庫にみちびかれた。手荷物は、ホームに残させられ、その後DAW(ドイツ装備調達所(ドイッチェ・アウスリュストウンクス・ヴェルケ)と建設部(バウ・ホフ)の間にある、選別所――カナダとよばれた――に送られた。ユダヤ人は、倉庫脇で脱衣させられた。その際、彼らには、虱駆除のため特別な部屋に入らねばならないのだと説明された。

 全部の室(五つが用いられた)(*)に同時に詰めこまれ、気密化されたドアがネジで締めつけられ、缶入りの中身が、特殊な小穴を通して室内に噴射された。

*:ビルケナウのすぐ側の、ビルケナウ敷地外に設けられた農家を改造したいわゆるブンカーは、赤い家(赤い小屋)とよばれる小さい方のガス室が1942年3月頃に出来たとされ、もう一つのそれより広い白い家(白い小屋)は1942年6月頃に出来たとされる。ヘスがここで言っているのは、5部屋と言っていることから白い家の方だということになる。赤い小屋は2室しかない。赤い小屋と白い小屋を混同しているのだと思われる。

 三〇分経つと、ふたたびドアが開けられた。各室にはドアが二つあって、死者が引きずり出され、小さなトロッコにのせられ、トロッコ線を通って壕まではこばれた。衣類は、トラックで選別所にはこばれた。

 全作業――脱衣を手伝うこと、倉庫に人を入れること、倉庫を清掃すること、死体を運び出すこと、大量の穴を掘りまた土をかぶせること等は、ユダヤ人の特殊部隊によって行われた。彼らは隔離して収容され、アイヒマンの指令によりそれぞれの大規模な作戦が終わったあと、同じく抹殺される運命にあった。

 最初の移送の時すでに、アイヒマンは、ヒムラーの次のような命令を伝えてきた。すなわち、屍体の金歯は抜き、女性の毛髪は切れ、というのである。この作業も同じく、特殊部隊によって行われた。

 虐殺の際の看視は、その時に応じて、保護拘禁所隊長か、連絡隊長によって行われた。ガス室に連れていけないような病人は、小銃で頚部をうって殺害した。SS医師がそれに立ち会わねばならなかった。ガスの投入は、訓練を受けた消毒係――SDGによって行われた。

 一九四二年春ごろには、まだ作戦も小規模だったのに対して、夏の間に移送者が詰めかけ、われわれは、さらに大規模な虐殺施設を作ることを余儀なくされた。そのため、後の第Ⅲと第Ⅳの火葬場西側の農場が選ばれ、手を加えられた。脱衣用には、第Ⅰ倉庫脇に二つ、第二倉庫脇に三つのバラックが建てられた。第Ⅱ倉庫の方が、大きく、一二〇〇人を収容できた。

 一九四二年夏にはまだ、屍体は大量埋葬壕に埋められた。その夏の終わり頃になってはじめて、われわれは、焼却ということを始めた。最初は、巻木の山の上に役二〇〇〇体の死体をのせたが、後には、それ以前に殺したもので再び土をとりのけた屍体を、壕の中で焼いた。焼却には一は廃油が用いられたが、後にはメタノール油にかわった。壕内では、ひっきりなしに、従って昼夜をとわず焼却が続けられた。

 こうして、一九四二年十一月末までには、以前の大量埋葬壕が全てカラになった。それらの郷に埋葬されていた屍体は、一〇万七〇〇〇体にのぼる。この数には、一番最初から焼却開始の時期までに、ガス死させられたユダヤ人移送者だけでなく、一九四一年から四二年にかけての冬期、看護室脇の火葬場がかなりの期間使用中止されていた時に、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者の屍体も含まれている。さらにそれには、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者も全員含まれている。

 SS全国指導者ヒムラーは、一九四二年夏、アウシュヴィッツ訪問の際、荷役ホームでの積みおろしから始まって第Ⅱ倉庫の清掃に至るまで、虐殺の全過程をつぶさに見た。当時はまだ、焼却は行われていなかった。彼は、何一つ苦情もいわなかったが、さりとてそれを楽しんでいる風でもなかった。その場には、大管区指導者ブラハトと、上級師団長シュマイザーもいた。

 ヒムラーの訪問後少しして、連隊長ブローベルが、アイヒマンの司令部より派遣され、ヒムラーの命令を伝えてきた。それは、大量埋葬壕を発掘して、死体を焼却するように命じていた。同じく、灰も始末して、後あとに、焼却者数について一切手がかりを残さぬようにせよ、というのである。ブローベルは、すでにクルムホーフでさまざまの死体焼却法をためし、アイヒマンから、私にその模様を伝えるように命じられてきたのである。

 私は、ヘスラーと共に、クルムホーフへ視察にいった。ブローベルは、命令に応じてさまざまの焼却炉を作らせ、材木とベンジン廃油で償却を行っていた。彼はまた、屍体を爆砕することも試みていたが、これは全然不完全だった。

 灰は、先ず骨粉製造機で粉末にされた上で広汎な森林原野にまき散らされた。連隊長ブローベルは、東部地区全域の大量墓地全てを発掘して、始末する任務をうけていた(*)。

*:全ては無理だったようである。例えば近年でもマンション建設現場から発見されたニュースがあった。「マンション建設現場から千人以上の遺体 ナチスによる大量虐殺の痕跡」。

 彼の作業司令部は、「一〇〇五」という秘密番号でよばれた。作業そのものは、ユダヤ人部隊の手で行われ、彼らは、一つの分区が終わるごとに射殺された。アウシュヴィッツ強制収容所は、「一〇〇五」司令部のため、絶えずユダヤ人を供給した。

 クルムホーフ訪問の際、私は、トラックの排気ガスを用いる、そこの虐殺施設も見た。ただし、そこの部隊指揮官は、この方法は極めて不確実と説明した。理由は、ガスの出来がきわめて不規則でしばしば完全殺害にまでは至らないからである。

 クルムホーフの大量埋葬壕に、どれだけの屍体が埋められ、また、どれだけがすでに焼却されたか、私は知らない。連隊長ブローベルは、東部地区の大量埋葬壕内の人数をかなり正確に知っていたようだが、厳重に沈黙を申し渡されていた。

見解の対立

 本来、アイヒマンの管轄部門を通じてアウシュヴィッツへ移送されてきたユダヤ人は、ヒムラーの命令により、全員例外無しに抹殺されねばならなぬはずだった。

 このことは、上シレジア地方のユダヤ人の場合にも適用された。しかし、すでにドイツ系ユダヤ人が最初に移送されてきた段階で、働けるユダヤ人男女は、全て選別して、収容所内の軍需目的に配転するようにとの命令が出された。これは、まだ女子収容所が設置される以前のことだった。つまり、アウシュヴィッツに女子収容所を設置する必要は、この命令によってはじめて生じたからである。

 軍需産業が強制収容所に生まれ、拡大され、ついには収容所外の軍需工場にまで抑留者が配置されるようになって、かつては全抑留者に仕事をあてがうため、以前の収容所司令部でしばしば、ドイツ国内にまで仕事を探しに行かねばならないほどだったのに、今では逆に、抑留者が大変に不足するという事態が突如生じてきた。しかもユダヤ人は、アウシュヴィッツ収容所内にしか配置されてはならぬきまりだった。

 アウシュヴィッツ・ビルケナウは、純粋にユダヤ人収容所になるべきものとされ、他の国籍のものは全て他の収容所へ移されねばならぬことになった。だが、この命令が徹底的に実行されたことは一度もなく、また後には、ユダヤ人も、他の労働力の不足のため、収容所外の軍需企業にも配置されたものだった。

 働けるユダヤ人の選別は、SS医師によって行われた。しかし、私の知らぬ間に、もちろん全然私の了承もなしに、保護拘禁所や作業配置部の隊長がこれを行うことも再三あった。そのため、SS医師と作業配置部の隊長とのあいだに絶えず摩擦がおこった。

 アウシュヴィッツの各隊長の間に見解の対立が起こると、それは、ヒムラーの命令をめぐる、ベルリンの所轄上長官での見解の対立によって、いっそうあおられるのが常だった。

 国家保安本部(ミュラー――アイヒマン)は、保安警察的観点からして、できるだけ多くのユダヤ人を抹殺することに、最大の関心をもっていた。

 SS全国医事部(ここがSS医師に、選別の基本線を指示した)は、こういう見解だった。実際に十分な作業能力のあるユダヤ人だけが作業配置の際に対象となりうる。

 理由は、虚弱な者、老齢の者、条件付きで働けるが、短期間にまた働けなくなってしまうような者、そういう者たちは、それでなくてもすでに負担になっている全般的健康状態をさらに悪化させ、病室を不必要に増加させ、それによってさらに医師や看護人を必要とするようになるが、結局は殺害されてしまわねばならぬことになるから、というのであった。

 一方、経済行政本部(ポール――マウラー)は、できる限り多くの労働者を(たとえそれがいずれは就業不能になる者であろうとも)、軍需用に確保することに関心を持っていた。

 しかも、軍需省やトップ工作隊が、ひっきりなしに抑留者労働力を要求し、しかもそれがうなぎのぼりに増大していったので、この両者の見解の対立はますます鋭くなっていった。

 ヒムラーは、この二つの部門にたいし、一度として実現されたことのないような数字を、絶えず約束し続けた。連隊長マウラー(DⅡ局長)は、この難題をかかえながら、関係方面のたえまない圧力には、ごくわずかにしか応じられなかった。そこで、作業部隊長は、できるだけ多くの労働力を確保するよう、マウラーに尻を叩かれた。さりとて、ヒムラーのはっきりした決定をとりつける事はできなかった(*)。

*:ルドルフ・ヘスは親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーに対して、かなりの不満を持っていた。こんな事になったのは全部ヒムラーが悪いとでも言いたげで、この自伝にも「ヒムラー隊長と私」という一章が別に描かれているほどである。ヒムラーという人間がいかに軽蔑すべき人間か、ヘスの自伝以外でも他にも色々と知られていることがあるのだが、これについては世界中に私より遥かに詳しい人が大勢いるに違いない。さてしかし、この「見解の対立」という項は、例えば、ユダヤ人は全員殺されたんじゃなかったのか? や、ユダヤ人を労働力として欲していたのではないのか(全部殺すわけがない)、というようなよくある否認論的疑問に対する回答となっている。アドルフ・ヒトラーの思想はいうまでもなく「ユダヤ人の絶滅」である。ヒトラーはそのはっきりした命令を出したという形跡がないとよく言われるのであるが、私に言わせれば、それはユダヤ人絶滅はヒトラー総統の御意志に他ならないのであって、今風に言えば「忖度」してしかるべきものなのだ。そして戦争に勝つこととユダヤ人の絶滅のどちらも成功させる、それしか取る道はなかったのであり、両立させなければならなかったのだ。ただし、それが実際にはあまりに無茶苦茶な政策であったという事は言えるであろう。

 私自身としては、実際に健康で体力のあるユダヤ人だけが、作業用にえらばれるべきだ、と考えていた。

 選別はそんな状態の中でおこなわれた。貨車からはひっきりなしに、人が吐き出される。荷物をおくと、ユダヤ人は一人ひとり、SS医師の前を歩かされ、歩いているうちに作業的確かどうかがきめられる。作業可能者は、少人数の班にわかれて、すぐ収容所に送りこまれる。作業可能者の率は、移送者全体を平均すれば二五〜三〇パーセントだったが、ひどくまちまちだった。つまり、たとえば、ギリシャ系ユダヤ人のうち作業能力あるものの率はわずか十五パーセントにとどまり、一方、スロヴァキアからの移送者は、一〇〇パーセント作業能力ありと判定された。ユダヤ人の医師や看護人は例外なく収容所に送られた。

合理的焼却方法

 さて、戸外での最初の屍体焼却の時、すでにこのやり方は、長く続けられないことが明らかになった。悪天候や風の強い時など、焼却の匂いはあたり数キロにひろがり、周辺の住民全部が、党や行政当局の反対宣伝にもかかわらず、ユダヤ人焼却のことを話題にしたからである。

 一方、この虐殺作戦に加わった全てのSS隊員は事態について沈黙を守るよう、特に厳しく義務づけられていた。しかし、後のSS法廷での審理でも示されたことだが、関係者はこれに関し沈黙を守らなかった。重い処罰も、このおしゃべりを封じることはできなかった。

 さらに、防空隊も、夜陰にも空中で見えるこの火に対して抗議を申し入れてきた。しかし、つぎつぎ到着する移送者をとどこおらせぬためには夜も焼却をつづけねばならなかった。輸送計画会議で、交通省によって正確にきめられた輸送計画は、関係路線の渋滞と混乱をさけるためにも(特に軍事的理由からして)、無条件に厳守されねばならなかった。

 こうした理由で、全力をあげて計画を推進する一方、結局、大きな火葬場が二つ建てられ、ついでは一九四三年にはそれより小規模のもう二つが追加された。さらに後になって、規模の点では既存のものを遥かに凌ぐような火葬場が一つ計画されたが、これはもはや実現の運びに至らなかった。というのは、一九四四年秋、ヒムラーはユダヤ人虐殺の即時中止を命令したからである。

 第Ⅰと第Ⅱ(*)の大火葬場二つは、一九四二年から四三年にかけての冬期に建てられ、稼働を開始した。

*:これは、ビルケナウのクレマトリウムのことで、通常はⅡとⅢのように一つナンバーが大きく示される。なぜならば、火葬場Ⅰ(クレマトリウムⅠ)は、ビルケナウではなくアウシュヴィッツ基幹収容所の最初の火葬場のことを指すからである。

 それには、各三室にわかれた焼却炉五基があり、二四時間以内に、各二〇〇〇人を焼却できる。焼却容量を高めることは、燃焼技術の点からいって不可能だった。それをやるとひどい故障がおこり。そのため何度となく運転を全面休止しなければならなくなった。

 第Ⅰ・第Ⅱ火葬場には、地下に、脱衣場と換気自在のガス室があった。屍体は、一台の昇降機で、上にある焼却炉に送りこまれた。ガス室は各三〇〇〇人の収容能力があったが、その数に達したことは一度もない。一回の移送者数がそれほどにならなかったのである。

 第Ⅲと第Ⅳ(註:第Ⅳと第Ⅴ火葬場のこと)のより小規模な火葬場は、当初、建設担当会社エルフルトのトップ社(*)の計算によれば、二四時間に各一五〇〇人を焼却できるはずだった。戦時下の資材不足のため、第Ⅲと第Ⅳは、資材をけずって建てざるを得なくなり、そのため、脱衣場とガス室は地上に建てられ、焼却炉にも軽い建設方式がとられた。

*:これは、トプフ・ウント・ゼーネ社のことであり、よく使われる略称は Topf なので、多分普通は「トプフ」と呼び「トップ」とは言わないと思う。

 しかし、ほどなく、この軽い建設方式の焼却炉(四室にわかれたもの各二基)は、要求に適してないことが明らかになった。第Ⅲ火葬場は、短期間のうちに完全に脱落し、やがて全然役に立たなくなってしまった。第Ⅳは、ひんぱんに、休止させられた。わずか四〜六週間も焼却をつづけると、炉も煉瓦も焼け崩れてしまったからである。その為、ガス死者の大方は第Ⅳ火葬場裏手の壕内で焼却された。

 仮のものだった第Ⅰ号館(*)は、ビルケナウ収容所第三分所の開設と同時に、取り壊された。第Ⅱ号館(後に、自由館または第Ⅴ倉庫とよばれた)は、最後まで稼働をつづけ、第Ⅰ〜Ⅳ火葬場が壊れた時は応急用に用いられた。作戦が立てこんでいる時のガス殺害は、日中にはこの第Ⅴ倉庫で行われ、夜に到着した移送者には、第Ⅰ〜Ⅳ火葬場が用いられた。第Ⅴ倉庫の焼却能力は、昼も夜も焼却が可能だった当時は、事実上無制限だった。一九四四年以後は、敵空軍のため、夜は焼却ができなくなった。

*:これはブンカーⅠと呼ばれることが多い「赤い家」のことである。Ⅱ号館はブンカーⅡ「白い家」である。

 ガス殺人と焼却で二四時間以内に達成された、最高数は、一九四四年夏、ハンガリー作戦中のことで、第Ⅲ火葬場を除く全施設により、九〇〇〇名以上にのぼった(*)。この時は、列車遅延のため、予定された三列車の代わりに、二四時間中に五列車も到着し、しかもこれが普通に満員だったからである。

*:この九〇〇〇という数字をこの記事を入力している最中に見て、ふと思い出し、以前に翻訳したハンガーリーのホロコースト研究で虐殺数推計表を確認してみたところ、数がどうも合わない。全部を見たわけではないが、例えば1944年5月16日の虐殺推計数は13,963人にも上り、5回の到着という回数こそ合っているもののこれは余りに多すぎる。同様に5回の到着があった5月27日でも12,196人にも達している。うーむ……、いずれが間違っているのか両方とも間違っているのか、あるいは別の解釈があるのか、他の専門研究者の解釈が欲しいところである。ただ、遺体処理数についてヘスが考えていた1日あたりの処理限界は1万体とはされてはいるが、例えば翌日以降に処理遺体数を持ち越すなどはあり得る話である。

 火葬場は、ビルケナウの基幹になる二つの大きな建物のはずれの所に建てられた。第一には、収容者の規模と、それにともなう保安関係をこれ以上大きくしないためであり、第二には、収容所からあまりはなれないようにするためであった。というのは、殲滅作戦終了後には、ガス室と脱衣場は、浴室に利用されることになっていたからである。

 施設は、塀か垣根で見通しを遮る予定になっていたが、資材不足でこれは駄目になった。とりあえず、全虐殺施設は偽装した囲いでかくされた。また、ビルケナウ収容所の第Ⅰと第Ⅱの分所の間の三本の引き込み線ホームは、駅らしく改築された上で、さらに第Ⅲと第Ⅳの火葬場まで延長されることになっていたので、積みおろしの際は、部外者に見られないようにカバーされることになっていた。これも資材不足のため、取止めを余儀なくされた。

 さて、軍需産業に抑留者をもっと配置せよというヒムラーの要求が、いよいよはげしくなってくるので、上級師団長ポールは、余儀なく、働けなくなったユダヤ人にまでもう一度手をのばさざるをえない羽目になった。そこで、働けないユダヤ人で、六週間以内に再び健康になり、作業の見込みのある者はすべて、特によく手当てし、給食せよという命令が出された。

 それまで、働けなくなったユダヤ人はすべて、次の移送者と共にガス死させられるか、病気で病室に入っている場合は、注射で殺された。だから、この命令は、アウシュヴィッツ・ビルケナウにとっては、全くお笑いだった。なにしろ、一切が欠けていたのだから。薬品は零に等しく、宿泊施設もご同様で、重症患者でさえもかろうじて一つの収容施設を確保できるかどうかという工合だったのだから。

 食料も、全く不足で、それも月を追って食料省に切りつめられるという始末だった。抗議しても何の役にも立たず、とにかくやらねばならなかった。

 そのため、収容所では、健康な者にさえ宿泊難がおこり、それはもはや解消されるべくもなかった。全般的な健康状態もそれに伴って悪化し、伝染病が蔓延した。先の命令はまたほとんど飛躍的に死亡率を増加させ、ともかく全体の状態の悪化はとめどもなくなった。――だから、私は、働けなくなったユダヤ人のただの一人でも、また作業に復帰できるようになったとは思わない。

▲引用終了▲

「1 ユダヤ人をどう処理したか」はまだ続きますが、自伝の中にはもっとたくさん、虐殺に関する記述があります。これ以上は、図書館で借りるか、購入されるかして、ご自身でご確認ください。

何れにせよ、ホロコースト否認論者が絶対にこの自伝を認めず、「ルドルフ・ヘスは暴行で自白させられたから嘘である」とか、「ヘスは連合国の言いなりになって連合国のこのように書けと指導されて書いたのである」とか、「そもそもヘスが書いたという証明はないので、連合国による捏造である」とか言ったりします。また、この自伝の初出版はヘスの死刑後、11年経ってかららしいので、その間にできるだけニュルンベルク裁判などでの他の証言などと矛盾のないよう慎重にプランニングの上、イスラエルの正当化のために捏造されたものである、などと言うかもしれませんね。何れにせよ、それらは陰謀論が行き着く妄想にすぎず、捏造行為それ自体については一切証明されておりません。

何も、このルドルフヘスの記述の全てが正しいと思っている研究者もあまりいないと思います。ヘス自身が例えば時期について記憶があやふやだと告白しているのですから、全部を丸ごと正確なものと見なす必要はありません。この引用部以外でも、これの出版を手掛けて整理した、後にミュンヘン現代史研究所所長を務めたマルティーン・ブローシャートによる注釈が入っていて、ヘスのあからさまな嘘を何箇所か指摘しています。しかしそうした嘘は、単なる疑いではなく、キチッと裏付けとなる証拠を示して嘘であると推定しており、否認論者のやるような単なる懐疑レベルではありません。

それにしてももし、初めてヘスの自伝を読んだ人は、かなり具体的な虐殺の様子を記述した文章になっていることに、驚いたのではないでしょうか? 私も、ここまで詳細に記述されていたとは、最初読んだときには結構意外でした。何せ、アウシュヴィッツというホロコーストを象徴する場所で、一番長く、しかも最初と最も忙しかったハンガリーユダヤ人虐殺の時期に収容所司令官だった人の自分自身による告白なので、例えばゾンダーコマンドの生存者や収容所生存者の体験談とは一線を画すレベルです。それらの生存者は、体験したり見たり聞いたりしたことを、感覚で覚えて、その後に証言したり回想録を書いたりしているので、どうしても不正確な証言になりがちだと思います。ヘスのこの自伝にしても、記憶だけを根拠に(一部は裁判で証言台に立ったときや尋問中に、色々と資料を見たり聞かされたりはしたのかもしれません)書かれているので、不正確な部分もままあるようですが、流石に司令官を務めた人物ですので、事情を熟知しており、正確さのレベルでは他の人とは全く次元が違うと言えるでしょう。

それだけに、否認論者は一丁目一番地として、どんな解釈をしてでも、このルドルフヘスの自伝は認めるわけにはいきません。しかし。ヘスの自伝を却下した時点で、否認論者の蟻地獄に落ちてしまい、こちら側に戻ってくる人は滅多にいないわけです。だって、例えば他の証言がヘスの自伝にあっていても、ヘスは間違っているんだから、否認論者の脳内ではそれらも自動的に間違いになるわけです。否認派は、こうした自己認識の固定化に自覚的になることは先ずありません。

従いまして、街中(それはないだろうw)やネットでホロコースト否認派を見かけても、説得したり、論破したり、そういう気を起こすべきではありません。ただただ、正確な情報をできる限り客観的かつ冷静に判断するように心がけるべきでしょう。

繰り返しますが、ヘス自伝の全て一〇〇パーセント正しいと言いたいのではありませんよ。こういう内容のものがあるが、あなた自身がどう判断するか、が大切なのです。


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