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アウシュヴィッツの様々な議論(7):アウシュヴィッツのバンカー(ブンカー)証言に対するマットーニョの攻撃失敗例

註:こちらの翻訳記事の内容は、以下に含むシェロモ・ドラゴンの項で全面的に再翻訳(2022.9)しています。

アウシュビッツは、1942年の3月頃から、ユダヤ人の絶滅政策を実行するために、いわゆるブンカー(Bunker)が使用されるようになります。そして1943年3月ごろからビルケナウのクレマトリウムが使用されるようになっていくのですが、このブンカーは知らない人が多いのと、否定派は元からブンカーなど否定しているので議論にもあまり登場しないようです。

しかし、ブンカーではルドルフ・ヘス証言によれば、10万7,000人の遺体処理があった(虐殺分だけではなく、それ以外の死体も含まれていた)ので、無視できない規模ではあります。

ところでこのブンカーは、「Bunker」、ドイツ語に拘ると、「ブンカー」と発音に従って表記するようですが、英語では「バンカー」と発音します。以前から私自身、翻訳では表記揺れをしていたのですが、最近ではバンカーの方に統一しています。理由はやはり、翻訳ソフトが「バンカー」を返してくるからなのですけど、非常に悩ましいところです。というのは、文章上の意味としてはバンカーだと思うからです。ゴルフでも、例の砂地をバンカーと呼びます。

私もまだあまり知らない時期は「ブンカー」が正しいと思っていたのですが、Bunkerという語で意図されているのは、あくまでも埋葬壕のようなのです。だとすれば、翻訳対象は英語がほとんどなので、バンカーと表記すべきではないかと思うようになりました。翻訳していても明らかに意味としてBunkerという語を使っている場合がしばしば登場するため、当面は「バンカー」を使っていきたいと考えます。

ルドルフ・ヘスの「ヘス」は「ホェス」ではないかとか、「ハイドリヒ」は「ハイドリッヒ」なのではないかとか、表記揺れは面倒な話なのですけど、ある程度は表記揺れもあった方がいいような気がして、検索ということもありますし、学者じゃないんだし、意識はしつつもあまり束縛されないよう自由に行きたいと考えております。

今回はそのアウシュビッツのバンカー(1、2)の話題です。アウシュヴィッツ・ビルケナウの敷地外にあったバンカーは、基本的には証言しかありません。バンカー2(いわゆる白い家)はその基礎部分は遺跡として残っていますが、バンカー1(いわゆる赤い家)は影も形もないそうです。ただし、文書は全くないのかというと、そうでもありませんので、もしかしたら今後紹介するかも知れません。

しかし、否定派はビルケナウ・バンカーの存在は認めないので、存在を認知させている証言に矛盾をみつけて苦情を申し立てるのですね。今回もまたいつものようみ相手はカルロ・マットーニョです。しかし、毎回のこととは言え、よくもまぁ、マットーニョはこんなアホな主張ばかりできるもんだなと呆れます……。とまれ、マットーニョら否定派のバンカーに対する主張の骨子は、バンカーなどなかったのであり、ソ連が捏造したものである、というものです。この仮定を頭に入れておかないと読んでいても話がよく分からないかもしれませんのでご注意を。

今回の翻訳記事は、バンカーの遺体処理などを担当したゾンダーコマンドのメンバーであって、スラマ(シュロモ)・ドラゴンに関する証言をどのようにマットーニョが攻撃しているのかを見るための翻訳であり、副次的にドラゴンの証言からバンカーに関する内容を知るためのものでもあります。興味があれば、「カルロ・マットーニョの本『アウシュヴィッツのバンカー』[PDF]」の内容は読まずとも、掲載されている資料は非常に参考になるので、参照されるといいかもしれません。

……あ、記事は3万字超えですのでご注意を。

▼翻訳開始▼

カルロ・マットーニョ、失敗したドラゴン退治者

(最終更新日:2010年1月30日)

カルロ・マットーニョの本『アウシュヴィッツのバンカー』[PDF]の長いセクションは、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドであるシュロモ・ドラゴンと彼の弟アブラハムの様々な証言の批評に捧げられている。

まず、シュロモ・ドラゴンのソビエト証言とポーランド証言を比較したマットーニョの分析を見てみよう。私は元のソ連の証言を調べており、目の前にテキストを持っているので、マットーニョの分析をするには十分な立場にある。

私が最初に言いたいのは、マットーニョの本の中のドラゴンの証言からの引用はすべて、オリジナルのロシア語の脚注で与えられたものであり、確かに本物であるということである。それらのいくつかのマットーニョの翻訳は、私たちがすぐに見るように、別の問題である...。

マットーニョの分析はp.75から始まる。

上記で引用されたセクションをざっと読んでも、ポーランドのスラマ・ドラゴンの宣誓供述書は、3ヶ月前の日付のソ連のものに関して重要な矛盾を提示していることは明らかである。以下の比較分析では、最も重要なものを見ていくことにする。

5.2.1. 専門用語
まず注目すべきは、ソ連の供述書の時点では、ドラゴンは、親衛隊でさえ使用していたとされる「バンカー1」と「バンカー2」という用語をまだ知らなかったということである。 この供述書では、彼は常に 「gazokamera」(газокамера)番号のことを話す。1と2であり、これが正式な指定であったことを明記している:「私はガス室2と呼ばれるガス室に連れて行かれました」ポーランドの供述書では、これらの疑惑のある絶滅施設の用語は「バンカー」となっている。「この部屋はバンカーNo. 2. これとは別に約500メートル離れた所に別の部屋があり、バンカーナンバー1と表示された」この用語はここでは、前の供述の用語 「gazokamera 」と同じ頻度で発生する。

マットーニョの主張の問題点はこれである:厳密に言えば、彼はドラゴンのオリジナルの証言ではなく、ロシア語の翻訳を扱っており、速記者のあらゆる可能性のあるミスやタイプミス、誤訳、誤解、さらには意図的な改変を扱っている。

マットーニョは、全体の陰謀論をでっち上げている―「バンカー」という言葉は、ポーランド人によって発明され、証人によって採用された、と。そして、それはオーマイヤーやヘスのような西欧連合国の手にあった目撃者にまで押し付けられた。マットーニョはここまで主張している。

1947年3月11日の裁判で、ヘスはついにポーランドの「真実」とその用語に適応し、「バンカー1」と「バンカー2」について明確に話した。[...]

英国版とポーランド版のヘスの「自白」の明らかな違いは、このように、それぞれの尋問者のプロパガンダの方向性を表現しているという事実をさらに証明している。

マットーニョにとっての問題は、ヘスがポーランドに移送される前に「バンカー」という言葉を口にしていたことである。以下は、1946年4月16日にニュルンベルクで行われたオットー・モールとルドルフ・ヘスの共同尋問からの引用である。『連合国の手の中のナチスエリート、1945年』、2001 年、394 ページ。

Q. その数字をどう思いますか、ヘス?

A. 彼が正確な数字を知ることは不可能ですが、私が今日覚えている限りでは、その数字はあまりにも小さすぎるように思えます。いわゆる掘った1番と2番の2つの大きな集団墓に埋葬された人たちは、106,000人か107,000人に相当します。

[...]

Q. ヘス、正しい数字は何だと思いますか?

A. 私の考えでは,モルは,彼が働いていた壕(dugouts)での殺害の数を知っているはずがありません。いずれにしても、そのモルの数はあまりにも低すぎました。

明らかに「壕(dugouts)1と2」はバンカー1と2であり、翻訳者はヘスが何を意味しているのか分からなかった。そんな壮大な陰謀があるなら、なぜそうなるのか? マットーニョの主張はここまでだ。ドラゴンのところに戻る。

ソビエトの尋問用語のより単純で分かりやすい説明:彼らの元のポーランド語の証言では、ドラゴン(とタウバー;下記参照)は常に「バンカー」という用語を使用していた。この用語は不必要な混乱を引き起こすので(上記のヘスに起こったことのようなもの)、「Bunker」はロシア語では(あるいは他の言語では)「ガス室」を意味しないので、ソ連の翻訳者および/または尋問者は、ドラゴンの「Bunker」がガス室であることを確認した後、わかりやすくするために、ドラゴンが「Bunker」に言及するたびに「ガス室(gas chamber)」と単に書いた。 陰謀論を必要としない合理的で現実的な仮説なので、マットーニョの陰謀論よりも好ましい。 繰り返しになるが、我々は正確な速記録を扱っているわけではない。マットーニョ:

しかし、この宣誓供述書の中でドラゴンは、数年後のヘス裁判で考案された「バンカー1」のための「czerwony domek」(小さな赤い家)と「バンカー2」のための「bialy domek」(小さな白い家)という他の2つの呼称をまだ知らない。

これらの呼称が戦後の発明であるという証拠はないが、私が読んだ資料を見る限りでは、これらの呼称が囚人やナチスの間で人気のある呼称であったとは思えないが、おそらく一部の人が使っていたのであろう。 最近では、これらが「公式」の指定として提示されることが多いのは、不幸なことであり、イラッとすることだと思うのであるが、大局的に見ると、ほとんど重要ではない。まぁ、どうでもいい。

1945年2月から3月にかけて、上記の公式用語がまだ知られていなかったという事実は、1945年2月27日と28日のヘンリク・タウバーの宣誓供述書からも明らかであり、彼は「バンカー」を単に「ガス室」(газовые камеры)と呼んでいる。

ポーランド・ソビエトの専門家は、1945年2月14日から3月18日の間に作成された報告書の中で、「ガス室」(газовые камеры)の1号と2号についてのみ語っている。

その説明は上記の通りである。

少し先をスキップする:

5.2.2. 'バンカー1'
このセクションでは、以下の2つの供述書の主な相違点を列挙する。
バンカー1の対象
1) ソ連の供述書:「第1ガス室の各部屋には、2つの扉があった;裸の人は片方から入り、死体はもう片方から運び出された」

ポーランドの供述書:「この他にも、約500メートル離れたところに、バンカーNo.1と表示されている別の部屋がありました。これもレンガ造りの家ですが、2つの部屋だけに分かれていて、合計2,000人弱の裸の人を入れることができました。これらの部屋には、入り口のドアと小さな窓が一つしかありませんでした」
対応する図面でも、「バンカー1」の2つのガス室には、それぞれ1つの扉しかない。

これは2つのテキストの真偽の不一致である。GC1と指定しよう。

2) ソ連の供述書:「入り口のドアの外側には『消毒に』、出口のドアの内側には『風呂に』と書かれていた」

ポーランドの供述書:「玄関のドアには先ほど話したプレートがありました。「Hochspannung - Lebensgefahr」と書かれていました。このプレートは、玄関のドアが閉まっている時にだけ見えました。扉が開いているときには見えませんでしたが、その代わりに、別のサイン「Zum Baden」(お風呂に)がありました。

そのため、「Zum Baden」というサインは、出口のドアの内側には(ソビエトの供述書)あったが、入口のドアの内側には(ポーランドの供述書)あった。

カルロ。これを書いている時、何を吸っていたんだ?「ポーランドの宣誓供述書」の引用は、 バンカー2の説明からだ。これは君自身の本からの引用だ。

玄関のドアには、「Hochspannung – Lebensgefahr」と書かれた、私がすでに話したプレートがありました。このプレートは、入り口のドアが閉まっている時にだけ見ることができました。扉が開いているときには見えず、代わりに「Zum Baden」(お風呂に)という別の看板がありました。ガスを浴びることになった犠牲者たちは、部屋の出口のドアに「Zur Desinfektion」(消毒へ)と書かれた看板を見ました。もちろん、このサインのある扉の後ろには消毒は全くされていませんでしたが、これは部屋からの出口の扉で、そこから死体を庭に引っ張り出したからです。

各部屋には別々の出口のドアがありました。私が説明した部屋は、オシフェンチェムの技術者ヤン・ノザルが私の証言に基づいて忠実に描かれています。この部屋はバンカー2に指定されました

D'oh!

次:

3) ソ連の供述書:「第一ガス室から約500メートルの所に標準的な木造のバラックが2つあった」

ポーランド人の供述書:「第1バンカーから遠くないところに、納屋と2つの兵舎があった」

ソ連の供述書では、ドラゴンは焼却溝が「バンカー1」から約500メートルのところにあったと断言している; ポーランドではこう宣言している「壕は非常に遠くにあった」。それは、「バンカー1」から「遠くない」距離にあった納屋と2つの兵舎が、バンカー1から500メートルをはるかに下回る距離に立っていたことを示している:証人が矛盾している。

文章に矛盾があるのは同意だが、D1と呼ぼう。

5.2.3 バンカー2

ここで、「バンカー2」をテーマにした2つの供述書の主な矛盾点に迫る。

1) ソ連の供述書:「ガス室は改造された2つの家で窓は密閉されていた」

ポーランドの供述書:「窓は壁に囲まれていた」

想定されている矛盾が見えない。窓を壁で塞いで密閉していた。これは技術マニュアルではない。それを矛盾だと言うのは藁をもつかむようなものである。

2) ソ連の供述書:「[....]第二ガス室から150メートルのところに、別の2つの兵舎が立っていた」

ポーランドの供述書:「このコテージから約30〜40メートルの所に、2つの木造の兵舎があった」

不一致 D2。

3) ソビエトの供述書:「第二室から150メートルのところに第一室付近と同じ大きさの6つの溝がありました」

ポーランドの供述書:「家の反対側には長さ30m、幅7m、深さ3mの4つの溝があった」

ソ連の供述では、これらのトレンチは、長さ30〜35メートル、幅7〜8メートル、深さ2メートルである。

トレンチの測定値の不一致は受け入れられず、2と3メートルの差は大きな矛盾ではない。残りは不一致D3として認められる。

4) ソ連の供述書:「第二ガス室 2号室は2,000人を収容できた」

ポーランドの供述書:「1つの部屋には1,200人の 裸の人を入れることができた。2つ目は700人、3つ目は400人、4つ目は200人から250人」

そうすると、「バンカー2」の4つの部屋には、最大で2,500人から2,550人を収容することができる。

常識的に考えれば、これはあまり気にするほど大きくない単純な数値の変動であり、どちらかと言えば、2,000は2,500を四捨五入した大雑把なものである。この数字は原理的に固定できないので(人の大きさは様々なので)、これは騒ぐほどのことではない。

形式的に見れば、ガス室が2550人を収容できるとすれば、明らかに2000人を収容できることになるので、矛盾はない。異議は却下された。

5) ソ連の供述書:「第1ガス室と第2ガス室は約3km離れた場所にあった」

ポーランドの供述書:「約500メートル離れた所に別の部屋があった。バンカー1と表示されています」

不一致D4。

このようにマットーニョは、ドラゴンのポーランドとソビエトの証言の間の最も重要な矛盾を彼が考えるものの8つの例をリストアップしたが、それらのうち5つだけが注意を払う価値があり、その過程でマットーニョ自身がバンカー1とバンカー2を混同していた!

そして、彼が二つのバンカーを混同しているのは、この本の中でこれだけではない。184ページで彼はバンカー2の航空写真を分析しようとしている。そして、彼はこう書いている。

ウィシンスカさんによると、家自体は9メートルで約12を測定した。

ウィシンスカがバンカー1について書いていたことを除いては、214ページに「ジョゼフ・ハルマタ(疑惑の「バンカー1」)の家のスケッチ、1980年8月5日のジョゼフ・ウィシンスカの宣言の附属書」があり、165ページに「「バンカー1」の位置に関するジョゼフ・ウィシンスカの宣言」があることからも明らかなように、ウィシンスカがバンカー1について書いていたことは明らかである。もっかい:D'oh!

さて、何人かの人々は言うだろう―OK、マットーニョはこれらの間違いを犯したが、ドラゴンの矛盾はとにかくあまりにも深刻なので、これは無関係である、と。

しかし、マトーニョのミスは確実に関連性が高いのである。

2つの状況を比較してみよう。マットーニョはローマの快適な自宅で(おそらく)本を書いていた。 アーカイブ文書やその他の資料を自由にチェックしたり、再チェックしたりすることができた。それでも彼はすべてを混同していた!

アウシュビッツの地獄を経験したばかりで、明らかに心的外傷を負っていて、尋問の間、記憶だけを頼りにしていた若いシュロモ・ドラゴンに、どれだけの弛みを与えればいいのだろうか? その上、ドラゴンがバンカーで働いていたのは短期間だけだった(ソ連の証言によると、2ヶ月以上は第2バンカーにいなかった。これは、文脈と後の彼の証言に照らすと、おそらく2ヶ月間に何度かという意味であると思われる。ほとんどの時間、彼は様々な解体された建物からレンガを集めていた:第1バンカーに数日間)。その後、火葬場での数ヶ月間の仕事があり、何万人もの死体が彼の目前を通るようになった。

そうそう、彼はおそらく2つのバンカーのいくつかの詳細を混ぜたのであろう(矛盾GC1)、他のほとんどの矛盾(D1-D4)は、トレンチの数が違うことを除いて、距離に関連したものである。これらの数字の不一致の中には、証言を書き留めた翻訳者や尋問者の事務的なミス、特にバンカー1から脱衣場までの距離(D1)が含まれている可能性がある。 実際、特にバンカー1からマス墓までの距離を「500m」という数字を繰り返していることを考えると、これがD1の説明としては最も可能性が高いのではないかと思われる。このような間違い(後の証言では、兵舎は墓とは異なり「遠くない」距離にあったことが示されているので、おそらく「50m」ではなく「500m」)は全く驚くべきことではない。

他の矛盾は、バンカー(D4; カラスが飛ぶように(註:直線的な)実際の距離は約800メートルである)の間の距離のように、かなり取るに足らないものである。結局のところ、ドラゴンが尋問の前にバンカーの間を行ったり来たりしていたわけでもないのであるから、より確実な見積もりができただけなのである。

私たちが知る限りでは、ソ連の尋問官は、ドラゴンの経験がどれほど貴重なものであったかを理解した上で、より正確な数値データを要求してドラゴンを「待ち伏せ」したのかもしれない。もしそうなら、ドラゴンは尋問の間、彼の記憶の中のデータを再構築する時間があまりなかったので、非常に大まかな見積もりを提供したのかもしれない。

しかし、誰かが言うかもしれない、ドラゴンが証言を変えたという事実は、ドラゴンが嘘つきであることを証明している、と。全くそんなことはない。証言の間の数ヶ月間に ドラゴンは記憶から得た情報を分析していたようである。おそらく彼は他の元受刑者に話を聞いたりして、現場で(可能な限り)自分の記憶を確かめようとしたのではないだろうか?  このように、セーン(判事)が彼を尋問する頃には、いくつかの点で、特に距離に関してより良い情報を得ていた。 本質的に間違っていることや不誠実なことは何もないが、彼自身が矛盾点を説明しなかったのは残念である(ポーランドの尋問中やグライフとのインタビュー中にソ連のプロトコルに直面しなかったので、おそらく彼にはそれをする機会がなかったのであろう...)。

このすべて(ドラゴンの矛盾とマットーニョの混乱)からの教訓は何だろうか? アウシュビッツの証人が嘘つきであるとか、ドラゴンの証言が絶対的に信頼できないとか、そんなくだらないことではない。

人間の記憶は虚弱であるという教訓がある。また、研究者によっては、ガス室の扉のプレートに書かれた文字や、焼却ピットの数やその測定値のような詳細を、一人の目撃者に頼って立証することは間違いである。それは、その証言がどんなに詳細で信頼できるものであろうと、目撃者がそのような詳細な情報を誤解している場合があるからである。しかし、そのような細部の相違を、証言を全体として捨てるために利用すべきではない。むしろ、すべての証言は現存する証拠に照らし合わせて「テスト」されるべきである。そうすれば、小麦と籾殻を分けること(註:=良いものと悪いものを選別すること)ができることがよくある。

しかし、マットーニョの試みた分析に戻ろう。

5.2.4. 批判的な分析

この分析のために、私は再び最も重要なポイントに限定することにする。 1) ソ連の宣誓証言では、スラマ・ドラゴンは、「バンカー1」の延べ床面積が80平方メートルで、1,500人から1,700人がそこに押し込められることができたと断言している―つまり、四捨五入して1平方メートルあたり19人から22人である! ポーランドの宣誓証言では、彼は「2,000人以下」と話しているが、これは1平方メートルあたり25人以下の密度に相当する。一方、「バンカー2」は100平方メートルの延べ床面積を持っていて、ソ連の供述書によると2,000人、ポーランドの供述書によると最大2,550人を収容することができた。このように、ここでも1平方メートルあたり20人から25人の密度がある。

で、分析はどこにあるの? マットーニョは単に想定される密度を計算しただけだ。で、結論は? それとも、これらの密度は自己顕示的に幻想的なものなのだろうか? まあ、いや、そうではなく、故チャールズ・プロヴァンの計算によると、 犠牲者のかなりの割合が子供だったと仮定すると、もちろん、ビルケナウの場合も子供が多かった(プロヴァンの実験では、大人よりも子供の方が多く、1平方メートルあたり28人の密度が得られた)。プラスドラゴンのバンカーあたりの人数の大まかな見積もりは、彼のバンカーの大きさの大まかな見積もりとではなく、(可能であれば)文書化された大きさと比較すべきである。

2) ソ連の宣誓供述書では、証人は「バンカー1」に言及して宣言している。

「部屋からの死体の搬出は、すでに説明したように、12人の人が15分ごとに6人の死体を搬出した。[....] 部屋を片付けるのに2時間から3時間かかった」

実際、12人が15分に6体の死体を運ぶとすると、1,500体、1,700体、「2,000体以下」の死体を片付けるのには、それぞれ約62時間、約71時間、83時間を要したことになる。2,000体の死体を3時間以内に運ぶには、12人の人が1分に1体ずつ大体の死体を運ばなければならないことになる!

マットーニョが誤訳して、その一節を誤解している。彼がロシア語の意味を誤解したのはこれが初めてではない。これが実際に書かれている内容である。

(ロシア語)
Разгрузкой камеры от трупов, как я выше указывал, занимались 12 человек попеременно, разгружали каждые 15 минут по шесть человек. Больше чем 15-20 минут в газокамере трудно было находиться, так как запах от циклона при открытии дверей сразу не улетучивался.

(翻訳)
死体のガス室からの搬出は、上で指摘したように12人が交互に行い、15分ごとに6人が搬出していました。扉を開けてもすぐにはチクロンの臭いが消えないので、15分から20分以上ガス室にいることは困難であった。

つまり、6人の死体が12人で15分ずつ降ろされたのではなく(とにかく無茶苦茶な主張!)、6人が15分働いた後、他の6人と入れ替わっていたのである。マットーニョは「попеременно」(交互に、交代で)という言葉を省略し、человек (「人」)を「死体」とし、次の文を省略した。そもそもなぜ交代で仕事をしなければならなかったのか説明がつく。

マトーニョの多くの言語を操る能力は尊敬に値するが... 彼がテキストの後に 混乱させた時... これは、スラブ語の知識の限界を示すもう一つのデモンストレーションである。191ページで彼はこう書いている:

アウシュビッツ博物館は、バチカンのイニシアチブをいち早く取り、「バンカー2」というポーランド語のサインが刻まれたプレートを疑惑の遺跡に設置して、この敬虔な伝説を歴史化しようとしていた:“Miejsce męczeństwa Bł.[639] Edith Stein + 9.08.1942,” i.e., “Place of martyrdom of Edith Stein.”(エディス・スタインの殉教地)

脚注は以下の通り:

639ポーランド語の形容詞「byłej」(略して「Bł」、文字通り「ex」または「former」)は、この場合、彼女の民間生活における尼僧の名前を指す。

実際には「Bł. Edith Stein」は「błogosławioną Edith Stein」、つまり「祝福されたEdith Stein」という意味である。"Bł. "は "błogosławiony "の絶対的に標準的な略語である。確かに、「元エディス・スタイン」というのは、「熟練した言語学者、研究者、そして[...]テキスト分析の専門家」の匂いを嗅ぎ分けるテストをパスしてはならないほど、不条理で馬鹿げた構成である。まあいい。

これは単にアド・ホミニム(人身攻撃)な議論ではない。マットーニョは細かいディテールに基づいて証言を批判しているが、翻訳ではディテールを間違えている。少なくともスラブ語の証言の彼の翻訳は疑わしい。

3) ソ連の供述書では、証人は、1942年12月7日に到着した彼の輸送(2,500 人)は、選抜を行ったメンゲレ博士によってビルケナウで受領されたと宣言している。 しかし、メンゲレ博士がアウシュビッツに派遣されたのは、半年後の1943年5月30日のことであった。ドラゴンは、ガス処理は様々なSSによって行われたと付け加えている。「その中の一人はシャイメッツ(Scheimetz)と呼ばれていました」 ポーランドの宣誓供述書では、証人は、メンゲレの命令に基づいて、親衛隊伍長の「シャインメッツ(Scheinmetz)」によってガス処理が行われたと宣言している; チクロンBは赤十字の印のついた車で運ばれてきた ドイツ人は 「サンカー」と呼んでいた。

正解。デボラ・リプシュタットがかつて言ったように:

アウシュビッツに到着した生存者の多くは、メンゲレに検査を受けたと言うだろう。そして、彼らに到着した日を尋ねると、「メンゲレはその時点ではアウシュビッツにはいなかった」と答える。

ドラゴンは、生存者の間ではよくあるように、メンゲレが後に選抜に参加したことを(彼自身が目撃していなくても、おそらく他の受刑者から聞いていたのだろう)、彼の到着までさかのぼって「テレスコープ(記憶の混同)」していたのである。意図的に真実でないことを意味するものではない。

「シャイメッツ(Scheimetz)」「シャインメッツ(Scheinmetz)」「シュタインメッツ(Steinmetz)」というドイツではよくある名字については、何も知られていないし、彼が存在したという証拠もない。

それは何十億人もの人が生きてきて死んでいったことに当てはまる。要はその逆も証拠がないということである。

この名前が1945年5月24日の宣誓証言でヘンリク・タウバーによっても言及されたのは事実であるが、タウバーはドラゴンの後に彼の宣誓証言をした。ソースが本当にドラゴンであるということは、タウバーがガス処理のために、あまりにも、デュオのメンゲレ―シャイメッツを連想させるという事実によって証明されている。同じように、ドラゴンが、ソビエトの宣誓証言の時に、まだ、チクロンBを持ってきて、多くの後の証言に現れる赤十字との疑惑の車について何も知らなかったことは明らかである。

ここのロジックは魅力的である:ドラゴンがいくつかの詳細に言及しなかった場合、彼はそれを知らなかった。そしてタウバーの詳細とドラゴンの証言が一致するならば、それは1人が別のものを盗作したからに違いない、と。ふむふむ。

ところで、なぜかマットーニョは、同じバンに言及した解放前の証言、例えばレイブ・ラングフスの日記(「歌唱中に赤十字のバンが到着し、ガスが室内に投げ込まれた...」、ベズウィンスカとチェコ、『犯罪の悪夢の中で...』、p.115)やサルメン・ルウェンタール(「絶望の耳を刺すような叫びと大きな泣き声が聞こえた[....]恐ろしい[....]彼らは巨大な痛みを表現した[....]様々な消音された声が合体して[......]地面の下から進み、人道主義者の赤十字の車が到着するまで[.....]、彼らの痛みと絶望に終止符を打つ[.....]。小さな上部のドアから4缶のガスを投げ込み、それらを密閉した後、すぐに静寂が支配された」;同著、p.146)のように、そのバンに言及していない。

それからマットーニョはドラゴンの過剰に誇張された焼却の数字について、愚痴をこぼた。もちろんそれはアウシュビッツの目撃者にとっては普通のことであった。何と言えばいいのだろうか。それらは単なる推定値であり、実際の恐怖に基づいているとはいえ、多くの場合、噂と希望的観測のフィードバックループに影響されている。そして、そう、目撃者はそのような数字を信じていただけで、嘘つきだというわけではない。結局のところ、彼らが個人的に死体の数を数えたと主張しているようなものではない。

5)SSが壕での燃焼のために死体の人間の脂肪を集めたという主張も、同様に不条理である。動物性脂肪の引火点は184℃以下で、325~350℃の間で変化する乾燥木材の着火温度よりもかなり低い;一方、死体の可燃性物質は約400~500℃でガス化(一酸化炭素と炭化水素に)し始めるので、死体の焼却溝では最初に燃えるのは脂肪になる。私は、燃える人間の脂肪を燃料として回収することの不可能性を、一連の具体的な実験で実証してきた。

実際、マットーニョはそのようなことはしていない。私が私の記事「火葬場からの液体人間の脂肪の回収は不可能である...」で示したように。

6) ポーランドの宣誓供述書では、証人は「バンカー2」に4つの焼却溝があるとしているが、ソ連の宣誓供述書では「第1ガス室」としている。

上で私はそのような矛盾を長く扱った。

7) また、2 つの「バンカー」の設置に関する最初の記述が、反復的かつ無意味なパターンに従っていることにも注意しなければならない。「バンカー1」については、以下のようになっている。

脱衣兵舎―500m―「バンカー」―500m―燃える壕

「バンカー2」の場合は、以下のようである。

脱衣兵舎―150m―「バンカー」―150m―燃える壕

兵站学の観点から見ても、2,000人の裸の人たちに500mの野外を歩いたり走ったりさせ、同じ距離で死体を運ぶことは、ドイツの組織方法に強く賛成しているとは言えない。

上記で部分的に対処したが、脱衣兵舎とバンカー1の間の500mは、おそらく50mの事務的なミスだろう。 一方、ガス室と大量の墓の間の距離は、無数の要因によって決定されるが、その中で距離は一つに過ぎない。

この場合に私が受け入れているプレサックの証拠解釈によると、バンカー1の墓はビルケンヴァルト(註:ビルケナウ近くの雑木林)にあり、ガス室から300〜400mのところにあったとのことである(テクニック...、p.162)。もしそうだとすれば、ドラゴンの500mはそれほど悪い推定ではない。ビルケンヴァルトにこれらの墓を置くためのナチスの理由が何であれ (そのうち最も明白なものは、より大きな秘密であるように思われる)、この特定の詳細は、ドラゴンの証言に対しては、ほとんど使用することができない。

8) 最後の観察。公式の史料によると、いわゆる「特別部隊」のメンバーは、潜在的に危険な「目撃者」として、数ヶ月後に親衛隊によって定期的に殺害された。

ダヌータ・チェヒによると、300人で構成された以前の「特別部隊」は、1942年12月3日に「第1火葬場近くのガス室で」ガスを浴び、3日後にスラマ・ドラゴンを含む新しい「特別部隊」が結成されたという。この同じ証人は、ポーランドの宣誓供述書の中で、彼の「特別部隊」がブロック2の近くに収容されていたと述べている:

「このブロックは閉鎖されたブロックで、他のブロックとは異なり、壁に囲まれていました。他のブロックの被拘禁者との連絡を取るのを嫌がっていました」

「第二ガス室」での勤務初日から体調を崩したが、ガスの代わりに第二兵舎の清掃などを任され、1943年まで勤務した。その後、レンガ集めを担当する部隊に異動し、1944年2月までそのままだった。しかし、同時に「第二ガス室」で2ヶ月、「第一ガス室」で数日働き、最終的に火葬場IVに配属された。ドラゴンは1945年1月18日までいわゆる「特別部隊」と一緒にいたが、彼と他の100人の隊員は危険な目撃者として撃たれる代わりに、徒歩でドイツに送られ(!)、途中で誰にも見られずに脱出することができた。

SSが彼らの「秘密」を維持する奇妙な方法を持っていたことを見ることができる、ドラゴンと彼の兄弟エイブラハムは、1993年に興味深いように、さらに詳細な説明を提供することになった。

この神話的な「正史」とは何か、マットーニョはそれを主張している正確には誰のことをぼやいているのか? そして、たとえ一部の著者がそう主張したとしても、なぜこの主張が(神話的な)「正史」の一部になってしまうのであろうか?

上記で引用されたモールとの共同尋問でのヘスの発言は以下の通り:

Q. 火葬場担当の囚人は、詳細に言えば、どのくらいの頻度で虐殺処分されたのですか?

A. 私が記憶している限りでは、最初に出発するまでに2回あり、ハンガリー人に対する行動が終了した後、再び彼らは虐殺処分されました。

Q. 囚人は誰の命令で処分されたのですか?

A. 私はアイヒマンからその命令を受けましたが、アイヒマンは特に3ヶ月に一度は炉のコマンドを撃つようにと命令しましたが、私はそれが正しいとは思わなかったので、その命令に従わなかったのです。

つまり(おそらく)そのような定期的な虐殺処分の命令があったのだが、ヘスはそれに従わなかったのである。そして、そう、ヘスはいくつかのグループが処分されたと言っている。SKの生存者が数人いることは矛盾なのか? 全くそんなことはない。例えば1000人の集団から990人が殺されて10人が何らかの理由で助かった場合、その集団は虐殺処分されたと言ってもいいであろう。その中には(クレマⅠ、1942年のバンカーなどで働いていた者の中から)極めて少数の「旧」SKが生き残っていて、個々の運命は「ありえない」と思われるかもしれないが、「旧」SKの絶対的な大多数が全滅したという事実を考えると、「ありえない」ということがあり得ない。任意の人が宝くじで当選する確率は非常に小さいが、必ず誰かが当選する。任意の「古い」SKの生存確率は非常に小さいが、少数の人が生存していても不思議ではない。

スラマ・ドラゴンは、2つのバンカーの位置を特定できるような兆候を何も提供していない。両者の距離に関する彼の発言は矛盾している(ソ連での供述で3キロメートル、ポーランドの供述で500メートル)。これは、少なくとも1945年には、両家の位置を決定することは極めて容易であったであろうから、奇妙なことである。というのは、両家の位置は、両家の周辺にある二つの主要な建物、すなわちBAIIIの中央サウナと下水処理場との関連で決定されていたからである。そのため、ドラゴンが話している場所に足を踏み入れたことがないのではないかと疑うのも無理はないだろう。それが「バンカー2」になると、この疑念は確実なものになる。ビルケナウ収容所周辺の すべての地図には、実際には「バンカー2」のゾーンに2軒の家があることが示されている。図面2215「強制収容所と捕虜収容所の建設と拡張のための開発地図」の2つのバージョンが示すように、これら2つの家のうちの2番目の家は、「バンカー2」の東に25メートルほど離れたところにあり、1943年3月にはまだ建っていたのである。それにもかかわらず、ドラゴンは宣誓供述書の中でそれについて言及していない。では、なぜ彼はそれに言及しないのであろうか?

紛れもない馬鹿げた議論だ。なぜドラゴンは近くの家に言及しなければならないのか? そんな些細なことを覚えていたとしても(と思うが)。場所を特定しようとしたことについては、おそらく彼はソ連の委員会と一緒に、尋問の後にちょうどそれをした(したがって、ポーランドの供述書の方が正確であった)。どうやら彼はこの問題についてソビエトから聞かれるまではあまり考えていなかったようで、それゆえに再現の不正確さは理解できる。

疑惑のある「バンカー1」は、BAIIIの西側の囲いから約25メートルの場所、下水処理場と収容所の北西の角の間の地域にあった家屋で、それゆえに容易に特定され、記述された場所にあった。1942年10月5日の「収容所アウシュビッツ第1733号地区敷地図」によると、家の近く、西側には、半径40メートルの範囲内に2つの納屋ともう1つの大きな家があったことがわかる。それでもドラゴンは、「バンカー1の周辺には、中央建設事務所が建設したとされる2つのバラックの他に、小さな納屋が1つだけあった」と断言している。

いわゆる「特別部隊」での活動を開始したのが1942年12月11日と言っているのは事実であるが、地図の日付は1942年10月5日となっており、その間に状況が変わっていた可能性もある。しかし、「バンカー1」が、1942年3月か5月のいずれかに絶滅活動を開始したとされているのも事実である。

したがって、2つの可能性がある:どちらかの状況は1942年10月の後に変更され、その場合、中央建設事務所は、2つの納屋と他の家を5または7ヶ月間そのままにしておき、その後、突然、いくつかの謎の理由で、1つの納屋と家を取り壊しただろうか、または他の状況は変更されなかった― しかし、その場合、スラマドラゴンは「バンカー1」の地域に足を踏み入れたことはなかった。どちらの可能性が正しいのかは、証人が「バンカー1」(または「バンカー2」も)の場所を特定することができなかったこと、また、アンドルゼイ・ストルツェレキが語るように、彼はソ連の調査委員会の手続きに立ち会っていたにもかかわらず、その特定に協力することができなかったという事実からも明らかである。

正直、これは笑えない。 これはドラゴンが二次的なことを覚えていたかどうかについての話なのか? 信じられない。しかし、最後の告発は深刻である。そこで、それが詳しく説明されている第7.2章(pp.158ff)に飛ぼう。

ソ連が「バンカー」を歴史的事実として確立しようとした際に解決しなければならなかった最も重要な問題は、2つの「コテージ」の位置であった。

第5章と6章で見たように、すべての戦時中の証言とスラマ・ドラゴンの2つの宣誓供述書―1945年2月26日のソ連のものと1945年5月10〜11日のポーランドのもの-は、この点について非常に曖昧である。

ソビエトは、「バンカー」の位置を決定する作業を、ポーランド人の技術者 ―オイゲニウスツ・ノサル ―ドラゴンのポーランド人の供述書に添付された「バンカー」の3つのスケッチを後に描いた同じ人に託した。1945年3月3日、ノザルは、ビルケナウ収容所の西部の2つの地図を描いた。

最初のものは「死体を焼却するための部屋と炉の位置の地図」である。この地図上では、「ガス室2」 (文字Kで識別) は、後に公式になる場所、すなわち、ビルケナウ収容所の西のフェンスの西に200メートルのところに、中央サウナと火葬場 IV の間のレベルで現れている。「ガス室1」 (同様に文字 K で示されている) は、同様にキャンプの外にあり、BAIII の北の囲いから 280 メートルほど、2 つの沈降盆地に垂直な位置にある。

ソ連が2つの「バンカー」を設置した場所の証拠は何だったのであろうか? 彼らは、スラマ・ドラゴンの宣誓供述書を使ったと思うかもしれない。5日前に与えられた。しかし、これは非常にあり得ないことである。バンカー」に関する彼の宣誓証言で、ドラゴンは多くの詳細を提供したが、彼は一般的な方法でさえ、2つの「コテージ」の場所を示していなかった。 結局のところ、「バンカー2」は中央サウナの西約250メートル(あるいはそれに沿って走る囲いから約200メートル)にあり、「バンカー1」は(問題の地図によれば)囲いから300メートルもないBAIIIの北側に位置していたと言うのは、彼にとって非常に簡単なことだったであろう。 それは、2つの 「コテージ」が立っていた場所にソ連の尋問者を同行するために、スラマドラゴンのためにも簡単だったであろう。彼らは、単に地図上にそれらを配置しなければならなかったであろう。しかし、この地図上の2つの疑惑の「バンカー」の間の距離は、カラスが飛んでいるように(=直線距離で)、約1,100メートルである―2点の間の実際の距離は約900メートルである―これはスラマ・ドラゴンのソビエトの供述書の3キロと彼のポーランドの供述書の500メートルのどちらとも一致しない。ドラゴンは明らかに「バンカー」の場所について何も知らなかった。

マットーニョはストローマンを設定する―「1つは、彼らがスラマ・ドラゴンの供述書を使用したと思うかもしれない」と「それは2つの「コテージ」が立っていたサイトにソ連の尋問者に同行するスラマ・ドラゴンのためにさらに容易であっただろう」しかし、マットーニョは以前に引用された一節で、ドラゴンが委員会の手続きの間に存在していたと書いている。それで彼は場所を見つけることを試みることができただろうか? 明らかにそうである。したがって、彼が以前の尋問の間に言ったこと、言わなかったことは、この問題とは無関係である。

確かにノザルの地図上ではバンカー1の位置は現在想定されているものとは異なっている。時間が経ち、記憶が薄れ、周囲の環境が変化し、ガス室自体が存在しなくなり(その基礎や、おそらくすべての地面の痕跡までもが、少なくともバンカー2では、おそらく家自体や、1944年末に取り壊されたばかりの脱衣場から、地面に比較的新しい痕跡を見ることができたのであろう)、目撃者がいたとしても、間違いがあった可能性がある(そして、間違いがあった)のである。

1943年6月の地図番号2501は、ノザル技師がコピーしたもので、キャンプの囲いの近くに2つの家があることを示している。

ソ連が2つの「ガス室」と特定したものである。これは、2つの「バンカー」の位置の根拠が、疑惑の目撃者(スラマ・ドラゴン、まず第一)の元職場への現地視察ではなく、単なるデスクワークに起因するものであったことを示している。

ここでの論理がよくわからない。これが何を示しているのか?

そして実際には、番号も日付も不明だが、1944 年のものであることは確かだが、別のドイツの地図には、ソビエトが色鉛筆で 4 つのゾーンを探し、そのうちの 2 つは火葬場 II-III と IV-V に関係していた。
残りの2つは、地図の余白に貼られたシートに以下のように記載されている。

「青い丸の中: ガス室とその隣にある死体の火葬用の火葬場の位置」

最初の円は中央サウナの西側にあるエリアで、ノザル技師が「ガス室」2号室とその火葬溝のゾーンとして描いた地図に示されているエリアと隣接しているが、それとは異なる。2 番目の円は、収容所の内部、定住施設と西側の囲いの間の領域を含んでいる。したがって、2つの異なる地図上で、ソビエトは「バンカー1」と「バンカー2」を異なる位置に配置した。

この大きな不確実性は、収容所の解放から1ヶ月も経たないうちに、SSが残した痕跡がそのまま残っていて、「バンカー」で実際に働いていた誰でも簡単に特定できた時に、実際には誰も―疑惑の目撃者、特にスラマ・ドラゴンを始めとして―疑惑のある駆除施設の場所について何も知らなかったことを証明している。

ああ、純粋で純粋な糞尿の匂いだ!

地図上の印(GARF f.7021, op.108, d.36, l.31 - not l.29, contra Mattogno)には年代が記載されていない。彼らは署名していない。印の作者は不明である。このことはすべて、地図に添付された小さな紙片にも当てはまる(同書、l.30)。では、マットーニョはその存在からどのようにして結論を出すことができるのだろうか。解放後の最初の数日間、詳細が非常に大まかにしか知られていなかった最初の調査の間に、赤軍の調査官(臨時委員会のメンバーと混同されないように)によって作成されたかもしれない。地図の目的はわからない。それは、ある日の知識の状態、つまり、さらなる研究のための計画だったのかもしれない。 それが全てのガス室の正確な位置で最終的に試みられたことを示すものは何もない。どのような目撃者がスケッチのために情報を提供したのかは分からないし、ドラゴンやその他の知識のある目撃者がその作成に参加したという証拠は全くない。

マットーニョはわずかな証拠から壮大な結論を出す。彼の一般的な方法の良い例である。

続いてマットーニョは、ノザルのバンカー2エリアのスケッチとメモについて議論する。

下の方にある凡例を読むと:

「ドイツ軍がガス室で毒殺された者の死体を瓦礫の上で燃やした場所。5,900平方メートル」

[...]
地図の中央に表示されている30平方メートルの盆地(「бассейн」)は1945年3月に地上に存在していたが、どのドイツの地図にも表示されていない。しかし、この盆地もまた、その長辺が北東ではなく、北西にあったので、正しく描かれていない。さらに、この盆地は地図に表示されている唯一の壕である。長さ30~35メートル、幅7~8メートル、奥行き2メートルの6つの墓が、少なくとも表面積1,260平方メートルで、5,900平方メートルの面積の一部であったならば、たとえ埋めて平らにしたとしても、跡形もなく消えることはできなかったことは明らかである。したがって、ノザルの図面は、「バンカー2」の近くに6つの火葬場が存在するというドラゴンの主張を断固として反証する。

しかし、この議論もまた、何のメリットもない。ノザルのスケッチ(p.212参照)にある伝説は、この地域全体を「ドイツ軍が死体を焼いた場所...」とは言っていない。

スクリーンショット 2021-01-27 2.06.53

(http://vho.org/dl/ENG/tboa.pdf p.212の図)

これは文書のタイトルではなく、実際には凡例であり、したがって、このテキストの左側には、それがスケッチ上のクロスハッチの領域を指していることがわかる。これは、ノザルの作図によると、バンカー2の「五角形」のエリアのほとんどが、すべてではないにせよ、何らかの方法で焼却に使われたことを示している(おそらくノザルは、地上も火葬に使われたと考えていたのであろう)。同じ作図は『プレサックの技法』にも掲載されているのだが...(p.180)、非常に再現度が低く、ハッチングが見えない。

ノザルは、個々のピット(いずれにしてもその時点では存在しないピット)の輪郭を描くのではなく、一般的な焼却エリアを示すことにした。このことを考えると、ノザルの地図を根拠にしてピットの有無を結論づけることはできない。したがって、この問題についてはノザルとドラゴンの間に矛盾はない。

さて、少し話を戻して、P.128に戻る:

6.4.6. スラマ(シュロモ)とアブラハム・ドラゴンについて、ギデオン・グライフは、1993年の夏にインタビューしたこの二人の兄弟の驚異的な記憶力に感嘆の意を表している。

「兄弟ともに優れた記憶力を持っている」

しかし、21年前のウィーンで、デジャコ・アートル裁判の第26回セッション(1972年3月2日)で、スラマは、前日に火葬場Iと「バンカー2」を混同した後、認めざるを得なかった。

「30年経った今となっては思い出せないが...」

やや奇跡的に、その後、1993年にスラマは、彼が1972年に思い出せなかったことを覚えていた! このように、ギデオン・グライフを驚愕させた驚異的な記憶は、単に、今回、スラマ・ドラゴンは、より慎重で、1945年の彼のポーランドの宣誓供述書を注意深く読み直していたという事実にはるかに依存していた;インタビューはビルケナウで行われ、供述はアウシュビッツ博物館で行われたため、これははるかに簡単であった。

マットーニョが1972年の裁判からの短い引用をプレサックだけに頼っていることに注意して欲しい(脚注431)。 これは疑問だ:なぜマトーニョは、バンカー問題で大量の資料があったこの裁判を無視したのか? これだけで、彼は素人であることが露呈してしまう。

証人が30年経っても何も覚えていないというのは超自然的なことではない。 そして、グライフはドラゴンの記憶について間違っていたかもしれないが、これはいずれにせよ無関係のようなものである。しかし、ドラゴンは本当にバンカーとクレマⅠを混同していたのか、それとも単にバンカーを「火葬場」と呼んでいただけなのか。これは、他の証言(アウシュビッツに関連したものだけでなく)にも見られる、ちょっとした字句のおかしさではないでだろうか? 例えば、ペリー・ブロードは1946年2月3日のTesch裁判(NI-11954)の間に述べている

火葬場は1,2,3,4,5号室だった。5号室にはガスストーブしかなかった...

文脈(火葬場1と2、3と4のペアリング)から、ブロードがバンカー2/5を「火葬場No.5」と呼んでいることは明らかである(「ガスストーブ」はもちろんガス室のことで、「ガスオーブン」ミームに合わせた誤訳である可能性もある)。ポーランドのドキュメンタリー「Z Kroniki Auschwitz Henryk Mandelbaum」のパート5では、次のように述べている:

Eszcze dwa krematoria, tak zwany Bunkry - domik bialy, domik czerwony - za krematoriem numer piec.

火葬場の後ろの2つのより多くの火葬場―いわゆるバンカー―白の家、赤の家 - 火葬場第5の背後にある。

彼らはもちろん、バンカーが厳密には火葬場ではないことを知っていた。これらは単純な比喩のケースである。では、1972年のドラゴンも同じことが起きた可能性があるのだろうか。なぜマットーニョは、裁判記録を見て、そのような可能性を探ろうとしないのだろうか? なぜ彼はプレサックの解釈を検証しないのか?

ニコラス・テリー博士のおかげで裁判セッションの抜粋ができたので、この問題を少し掘り下げてみよう。ドラゴンの証言の初日に関して注意すべき重要なことは,ヘブライ語の翻訳者がいなかったことである。それが問題であることは、理解が難しいことを明確に認め、翌日の翻訳者を指名したことで、終盤になって明らかになった(「ドイツ語でのコミュニケーションが困難なため、議長はヘブライ語の通訳を呼ぶために公聴会を中断しました。すぐに通訳のアダー先生を呼ぶことはできないので、リーディングが行われます」)。

ドラゴンはドイツ語の「実務的な知識」を持っていたようであるが、はっきりと証言できるほどではなかった。ここに彼が初日にガス室について言ったことがある:

Ich arbeitete zunaechst in einem Krematorium welches ein kleines Gebaeude war in dem sich eine Gaskammer befand. Das Dach bestand aus einer Strohdecke. In der Naehe dieses Hauses stand eine Baracke. In dieser Baracke waren Kleider von Leuten abgelegt die sich vorher dort ausgezogen hatten. [...] Dieses Gebaeude war aussen weiss.

(最初はガス室のある小さな建物の火葬場で働いていました。屋根は藁でできていました。この家の近くにはバラックがありました。このバラックには、そこで脱いだ人々が着ていた服が残されていた。この建物は外見は白かった)

Ich habe in Krematorium I gearbeitet. [...] Es gab dort eine Gaskammer. Es war noch kein Krematorium. Auf den Eisenbahnschienen haben sie die Leichen zu den Gruben gebracht und dort Verbrannt.

(私は第一火葬場で働いていた。ガス室があった。まだ火葬場ではなかった。線路上の死体はピットに運ばれ、そこで燃やされた)

Vors.: In diesem Haus war nur ein Gasraum?
Zeuge: Ja.

(検事:この家にはガス室しかなかったのか?
証人:はい)

だからドラゴンはこの「火葬場」は実際にはそれ自体が火葬場ではなかったと明示的に言っている。プレサックとは逆に、ドラゴンは実際にはバンカー2と火葬場Iを混同していたわけではなく、特に彼は火葬場Iにすら入ったことがなかったので、「火葬場」の使用は上記のようにメタノニム(比喩)の例である。

ドラゴンは確かに30年後の詳細に戸惑っている:彼はおそらく「バンカー1」と言いたかったのであろうが、彼はバンカー2の特徴を述べている―藁の屋根のある白い家―。まもなく見るように、彼は1972年までに多くのことを忘れていた。 また、ここで注意しなければならないのは、家の中にある「ガス室」という話は、後述するように、ガスを入れるための一室を意味しているわけではないということである。むしろ、建物の機能(オーブンを備えた火葬場とは対照的)について述べている。

その日のドラゴンの最後の質問は、別のバンカーにも入っていたのかということであった。ドラゴンの答え:

Ich habe alle vier gekannt. Im Bauernhaus gab es nur eine Gaskammer.

(私は4人とも知っていた。農家の中にはガス室しかなかった)

この時点で、前述の翻訳問題のため、尋問は翌日まで中断された。ドラゴンの最後の回答が何を意味するのかは定かではないが、どうやら何らかのミスコミュニケーションがあったようだ。一つには、彼は彼に置かれた質問に答えているように見えない。

もしかしたら、彼は前の質問に答え続けて、「私は4つのビルケナウ火葬場をすべて知っていたが、それらとは違って、農家はガス室としてしか機能しなかった」のような何かを意味していたのかも? 

3月2日、ドラゴンは今度は通訳を連れてスタンドに戻った。彼は1942年にアウシュビッツに来て、ゾンダーコマンドに選ばれたことを説明した:

Damals hat es noch kein Krematorium gegeben. Es hat nur eine Gaskammer bestanden und zwar war diese Gaskammer in einem Haus mit mehreren Raeumen. Das Haus hatte ein Strohdach in Giebelform. Ich glaube dieses Haus das damals zu einer Gaskammer eingerichtet war, hatte zwei oder drei Raeume. Mit Sicherheit kann ich das heute jedoch nicht mehr sagen.

(当時はまだ火葬場はありませんでした。ガス室があり、このガス室はいくつかの部屋を持つ家の中にありました。その家は切妻の茅葺き屋根の家でした。当時ガス室として設置されていたこの家には、2部屋か3部屋あったと思います。今となっては、それ以上は確信を持って言えません)

[...]

Ich kann mich heute nach 30 Jahren nicht mehr erinnern, wieviele Raeume diese Haeuser hatten. [...] Die Tueren waren hermetisch abgedichtet und es gab nur ganz kleine Luken durch die das Gas eingeworfen wurde.

(30年後の今日、私は、これらの家がどのくらいの部屋を持っていたのか、もはや思い出せません。ドアは密閉されていて、ガスが投げ込まれる非常に小さなハッチがあるだけでした)

農家を1軒か2軒見たことがあるかと聞かれて、ドラゴンは答えた:

Ich kann mich beim besten Willen nicht mehr an dieses zweite Bauernhaus erinnern. Es ist schon 30 Jahre her.

(私の意志をもってしても、この二軒目の農家のことはもう思い出せない。あれから30年が経ちました)

彼は1945年のポーランドの尋問でのスケッチを提示され、それを覚えていなかったので、その後、火葬場が終わったときに家が機能しなくなったと言っている。彼の1945年の証言の許容性の議論の間にドラゴンは泣き崩れたので、彼の兄は彼に薬を与えなければならなかった。医者は彼が証言することができないと宣言した(vernehmungsunfaehig)。この壊れかけた心理状態が、1972年の証言の質の低さのもう一つの理由である。

このように、ドラゴンがバンカーと火葬場を混同していたと推測する理由はないが、残念ながら、1972年の時点で、多くの重要な詳細についての彼の記憶力はすでに極端に低下していた。だから、そう、1993年のインタビューの間、ドラゴンは、単純な比較からすでに明らかなように、絶滅過程の詳細について彼のポーランドでの証言に頼っていたのである。

そしてマットーニョは、ドラゴン兄弟とギデオン・グライフのこの遅いインタビューをバラバラに引き裂こうとしている。それは一種の愚かな作業である。なぜなら、年齢とともに不正確さは確かに記憶が消えていくにつれて積み重なっていくからである。修正主義者」の仕事は、後期の証言ではるかに簡単です。しかし、ここでもマットーニョの批判はほとんど公平でバランスのとれたものではない。

それでも二人の兄弟は、収容所での親衛隊の公式イメージと激しく衝突するような発言をしている。二人は1942年12月9日にいわゆる特殊部隊に配属され、翌日には「バンカー2」に連れて行かれた。しかし、まさにその日、スラマはガラス片で手首を切り裂いて自殺を図ったため、仕事に就くことが出来なかった。彼は特別部隊の被収容者が収容されている「第2ブロック」に移送されたが、その後、次のようなことが起こった:

「そのために、病人と弱者を選んだ。幸い、私は負傷者と弱者に属していたので、私が選ばれた。私は、兄にも部屋の詳細に配属されるように頼んだ......そうして私たちは第 2 ブロックに留まり、仕事のために出かけることはなかった」

それゆえ、スラマは、SSの大量殺人の危険な目撃者として、「ガス室」に「選ばれなかった」だけでなく、その上、働くことができず、弱っていただけでなく、代わりに治療を受け、バラックの清掃に移され、弟も同じ仕事に割り当てられていた。

もう少し文脈を与えるために、ドラゴンが担当したのは以下の通りである(『涙もなく泣いた』p.143)。

シュロモ:私たちがブロックに到着した直後、ブロックの長老は、数人の人々をバラックルームの任務に割り当てるように命じられた。

アブラハム:ブロックは4つのそでに分かれていて、各そでに2人の男がバラックルームの任務に割り当てられていた。

シュロモ:この仕事のために、病人や弱者が選ばれました。幸いにも、私は傷病者や弱者のグループに属していたので、選ばれました。私は弟にもバラックルームの仕事を任せるように頼んだのです。

[...]

シュロモ:[...]全部で8人の男性がこの仕事に選ばれたので、私たちは第2ブロックに残って仕事に出かけませんでした。

2日目、私の理解が正しければ、他の200人の男たちが仕事に出かける間、あなたはブロックに残っていたのですか?

エイブラハム: はい。

そうであれば、あなたは一日だけ遺体の火葬をして、二日目からは、ソンダーコマンドーブロックのバラックルームで勤務していた、と。

シュロモ:実際にはそうなのですが、大量輸送が来たときには、居住棟の外での作業にも参加しなければなりませんでした。

シュロモ、あなたの兵舎の任務は何だったんですか?

シュロモ:私たちは仕事に出かける人たちの部屋を掃除し、ベッドを作り、床を整え、食事を届けて配り、道具を中央の食堂に持ち帰り、食器を洗わなければなりませんでした。すべてがきれいに整頓されていなければなりませんでした。

ゾンダーコンマンドにそのようなバラックの清掃作業員がいたことは、ガスを撒くのではなく、初日の後に弱った選抜兵がこの任務に割り当てられたという事実と同様に、絶対的にもっともらしいことである。何かと衝突することは全くないし、ましてや神話的な「公式イメージ」とは全く違う。

アブラハムはその後、驚くべきことではない話をする:

「我々がまだピットで作業をしていた時、警備員の一人が仲間の一人を殴りました。私たちは道具を落とし、作業を続けないと宣言しました。こうして私たちは小さな反乱を起こしました。すると何が起こったのか? 彼らはすぐに上級士官を呼びました。ホースラーという名の誰かが来て、何があったのかと聞いてきた。私たちは彼に言った このひどい仕事をしている間に... ... ...私たちは殴られていると... 彼らは私たちを殺すことができましたが、私たちは働きに行くことはありませんでした。ホースラーは私たちを落ち着かせ、私たちはもはや殴られることはないだろうと言った。

彼はすぐに追加の食料を注文して持ってきてくれました。そして、彼らはもう私たちを殴らないと言った」

したがって、特別なユニットのこの反乱は、血に溺れていないが、むしろ冷静に反乱軍の要求を受け入れ、ユダヤ人は、申し立てられたユダヤ人は、いずれにせよすぐに殺される運命にあった!

そして、具体的には、アブラハムの話の何が意外なのか?  ホースラーは良いマネージャーがすべきことをした―作業員の合理的な要求を満たした。これらのSKをガス室に送るのは馬鹿げていて逆効果だ。理論的には使い捨てだが、ホースラーの解決策は実用的で効率的だった。エイブラハムの話はもっともらしい。

アブラハムは、その収容所で殺害されるためにマイダネクに送られることになった特別部隊の抑留者200人の「選別」からの逃避行について、次のように述べている:

「私は病気になった。SSはこの輸送が彼らの死に向かったことを明らかにしたくありませんでした。だから「病人は同行しない。あなたはここにいなければならない。そこで、彼らは働くことができる男を必要としているからだ」と言われた」

公式版によると、アウシュビッツに登録されていた受刑者は病気を理由に殺されたが、一方で、スラマとアブラハムは、SSの大量殺人のより危険な目撃者で、病気だったために正確に救われたのである! ここでは、「選択」とは逆の意味だ。ここでは、その逆の「選択」をしている。

「公式版」はマットーニョの熱狂的な想像の中にしか存在せず、兄弟が最初に生き残ったことについては、すでにもっともらしい説明がなされている(上記参照)。ルブリン(マイダネク)への移送の背後にアブラハムが説明した論理は本当にそうだったのであろうか。実際のところはわからないし、目撃者の推測を打ち破ることは英雄的な偉業とは言えないが、ここでもアブラハムの推論は論理的にはもっともらしい。だからあざ笑うことは、マトーニョに残されたすべてのものである。そして彼は続ける:

「選民」の行き先については、アブラハムが明らかにしている:

「彼らは彼らをルブリンに連れて行き、鉄道車両に閉じ込め、どうやってガスを注入したのかは分からない」

真新しい駆除方法!

あくびだ。彼は目撃者ではないと主張している。しかし、以下を参照して欲しい。

これに加えて、ポーランドの公式プロパガンダでは、彼らはルブリン=マイダネクではなく、シュトゥットホフに行ったとされている437。
[...]
437 Cf. C. マットーニョ、J. グラーフ、『強制収容所シュトゥットホフとその機能と国家社会主義ユダヤ人政策』Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 69-73.

ここでマットーニョは絶望的に混乱する。シュトゥットホフについての彼とグラーフの本の 69-73 ページには、シュトゥットホフへのアウシュビッツのゾンダーコマンドの到着については何も書かれていない。唯一の類似した要素は、鉄道車両内での人々のガス処理の疑惑である。この点では、2つの点を指摘しておきたい。

1. アウシュヴィッツからルブリン(マイダネク)への約200人のゾンダーコマンドの移送は、よく知られた「伝統的な主張」である(半「修正主義的」な言葉を使うと)。マットーニョはこのことを知っているのか? もしそうなら、なぜ彼は上記のような虚偽の発言をするのであろうか? そうでなければ... 控えめに言っても、彼はアウシュビッツの専門家ではありません。200人のSKの移送については、チェコの『アウシュヴィッツ・クロニクル』p.588、ベズウィンスカとチェコのルウェンタールの日記『犯罪の悪夢の中で』p.167、同書のヤンコウスキー、p.58などを参照。

余談だが:ゾンダーコマンドーが主張する期間に約200人削減されたことは、文書証拠によって確認されている。1944年2月15日の「Uebersicht uebersicht u uebersicht u anzahl und Einsatz der Haeftlinge des Konzentrazionslagers Auschwitz II(アウシュヴィッツⅡ強制収容所の囚人の数と利用の概要)」という見出しの報告書には、「Krematoriumspersonal(火葬場スタッフ)」のカテゴリーに405人が記載されている(GARF f.7021, op.108, d.33, l.124ob)。 また、1944年2月15日の番号の前に鉛筆で書かれた1944年2月29日報告書のデータ(おそらく保存されていない)もある(同じ手順は1944年1月31日報告書, ibid., l.122obに見られる。鉛筆で書かれた番号は1944年2月15日報告書の番号と一致する)。「未来」報告書からのKrematoriumspersonalの人数は186名である。こうして2週間でゾンダーコマンドのメンバーは200人以上も減った。1944年4月25日のチェコのアウシュヴィッツ・クロニクルのエントリーでは、SKの数が207人とまだ少なく、近くの日付の Arbeitseinsatz(仕事の割り当て)の報告では214人となっていることがわかる(Cf. マットーニョ、『アウシュヴィッツ:野外火葬』、p.80 も参照のこと)。

2. アブラハムは実際に鉄道車両の中で人々がガスを浴びせられたことを暗示していたのであろうか? ヘブライ語からのドイツ語訳はこのことを暗示しているが、上にこのドイツ語訳の英訳を見てみよう。そして、ここに原文のヘブライ語から直訳した英訳がある(涙を流さず泣いた, p.147):

密閉された鉄道車両でルブリンに連れて行かれ、ガスをかけられて死にました。

ちょっと違う。どちらの翻訳が原文に近いか? それは2つ目のように思えるだろう、なぜかマットーニョが省略した主張の前の文がここにあるからである。

少ししてから、ルブリンの火葬場で送り出された人たちが殺されたと聞いた。

火葬場の中の集団を鉄道車両の中に閉じ込めたまま殺すのは大変だな...。

そしてマットーニョは、ドラゴンがバンカーやノートで働いていた時間が短かったことに文句を言う:

しかし、彼の天才的な記憶力のおかげで、彼はまだ私たちがすでに議論したような詳細な説明をポーランドとソビエトに与えることができた!

しかし、その後、ドラゴンのバンカーでの短い勤務は、実際には、彼の初期の証言の不確かさといくつかの矛盾を説明するのに役立つ。

そして、彼は、彼らの行軍が実際に「雪の上」を通ったことを確認しているが、これは12月のアウシュビッツでは絶対に普通のことである。しかし、4つの火葬場(約20×7-8×3メートル)は、地下水、薪が凍っている状態で、雪の中で、さらに雪が降っている状態で、どうやって運営することができたのであろうか?

悲しいかな、マットーニョは彼らができなかった理由を説明しない。

スラマは、ガスの後に「ドア」が開いたときにガスの甘い味を感じたと言い続けている。どうやら、誰もシアン化水素は、実際には苦いアーモンドの匂いがするので、甘くないことを彼に言っていなかった!

マットーニョのもう一つの逸品。アーモンドの味が苦いから甘い香りがしない? 苦い味がするものは甘みが出ないから?  それか何か。以下はAIHA Hygienic Guideからの引用(http://www.cdc.gov/niosh/docs/81-123/pdfs/0333.pdf、シアン化水素に関する労働衛生指針に引用されている):

HCNの臭気は、通常、「甘い」と記述されています;訓練を受けた人は、苦いアーモンドの臭いとして記述し、約1 ppmでそれを検出することができます。

そして、ここにJ. B. サリバン、G. R. クリーガー、『臨床環境衛生と毒性暴露、第2版』2001, p.705がある。

シアン化水素[...]は、苦いアーモンド、甘い、辛味のある、または金属的なものとして様々に記述されているかすかな臭気を持っています。

明らかに、誰もドラゴンに何も言う必要はなかった! そして、マットーニョは、本当にいくつかのHCNを吸い込まなければならないようだ...

では、第7.5章(pp. 160ff)を見てみよう。マットーニョがドラゴンとジョゼファ・ウィシンスカを戦わせようとしているところだ。マットーニョがどこで間違ったのかを理解するために、ここでは注意すべきポイントを紹介する。マットーニョの批評は、2つのスケッチに関係している:

S1. S.ドラゴンの記述によると、E.ノザルによって1945年に作成されたスケッチ。

S2. 家の公式所有者ヨゼフ・ハルマタの姪であるヨゼフ・ヴィシンスカの説明によると、1980年に描かれたスケッチ。

どちらのスケッチも家の正確な描写を主張しているわけではなく、明らかに大まかで模式的なものである。S2だけが9x12mの家の寸法を持っていますが、S2では家はほぼ正方形で、スケッチのおおよその性質を強調している。マットーニョは:

すでに説明したように、ノザルの図面の向きは西―東である。J.ウィジンスカの宣言に添付された2つのスケッチも同じように向きを変えている。しかし、ウィジンスカのスケッチでは、長辺が西―東の軸に沿っているのに対し、ドラゴンのスケッチでは南北に配置されている。

マットーニョはp.75でS1の向きについて主張しているが、それを証明したことはない。しかし、仮にそれが正しいと仮定しても、両方のスケッチの模式的な性質を考えると、これは大きな矛盾ではない。

また、このスケッチには、階段がS1とS2の2段に分かれており、それぞれ8段と7段である。したがって、ハルマタの家の床は地上から約1.5メートルの高さにあったのに対し、ハルマタの家の床は地上と同じ高さにあり、階段はなかった。

ドラゴンは証言の中で階段について言及しなかった。しかし、ノザルはドラゴンから口頭でこの情報を受け取ったことは間違いない。ドラゴンはそれらに名前まで付けたのだから。しかし、スケッチS1のステップ数もドラゴンによって提供されたというマットーニョの仮定は根拠がない―ノザルはランダムなステップ数を自分で描いたのと同じくらい簡単にできたかもしれない。そして確かに、これらの階段の高さについてのマットーニョの仮定は、利用可能な情報の中でさらに根拠のないものである。階段が非常にラフなスケッチS2に表示されないだけで、これは現実には階段がなかったことを意味するという彼の仮定であるのと同じように根拠がない。ウィシンスカは、おそらく単にそのような二次的な詳細を提供しなかった(または覚えていない)。

それは同じ大きさの4つの部屋に分かれていて、西側の2つの部屋と東側の2つの部屋は南北に走る廊下で仕切られていた。この家をドラゴンが説明し、ノザルが描いた「バンカー1」にするためには、まず、廊下に沿って4つの側壁を取り壊す必要があっただろう。家の両側の部屋を隔てていた2つの壁を、数メートル離れたところに建て替えて、大きさの異なる2つの部屋を手に入れようとしたのである!

この主張は、前提に基づいている:a)S2は,互いに関連した部屋の正確な比率を与えること。というのは、家の長さと幅の正しい比率が示されていないことを考えれば、おそらくそうではないであろう; b) S1は、互いに関連して2つのガス室の正確な割合を与えること。確かに、S1のチャンバーの大きさは微妙に違うが、それはドラゴンの仕様に合わせて意図的に導入されたものなのであろうか、それとも無作為の変化なのであろうか。このように、マットーニョの主張は二重に根拠のないものである。

この「バンカー1」には、合理的な駆除作戦に反した2つの細部が見られる。第一に、その二つの部屋には、一つのドアと二つの小さな窓がそれぞれ設けられていた。第一に、その二つの部屋には一つのドアと二つの小さな窓が付いていました。それゆえ、ドアと二つの窓を開けることによって達成できる換気は、取るに足らないものでした。これは、ドアと窓が同じ壁に位置していた北側の部屋については、さらに有効である。
効率的な換気を実現しようと思えば、たとえ無能な技術者であっても、2つのドアを反対側の壁に設置しただろう。
さらに、たった一つのドアの存在は、明らかに部屋からの死体の片付けを妨げていただろう。

この議論は同じ章にあるが、ウィシンスカとは何の関係もない。いずれにしても、彼のポーランドの供述書でドラゴンが説明したようなバンカー1は、上記のマットーニョが説明したような、ある種の非効率的な特徴を持っているであろうことは事実である。しかし、ソ連の尋問の間、ドラゴンはバンカー1の各部屋には2つのドアがあると説明したことに注目すべきである。どのバージョンが正しいのであろうか? 私たちにはよくわからないし、2回目の供述書の方が必ずしも正しいと考えるべきではない。また、非効率性は存在しないことを論じるものではない。後のチャンバーの方が効率的だった。バンカーはいずれにせよ技術者があまりインプットせずに改造された可能性が高い。

第二の詳細は、上で述べた二段の階段の存在であるが、それは確かに「ガス室」からの死体の取り出しを容易にするものではなかった。

確かに、しかし、私たちはいずれの階段によって除去がひどく妨げられたことを知らない。また、これらの階段に関するマットーニョの仮定については、上記を参照して欲しい。

結論から言うと、私はこう言える。マットーニョの批判はほぼ完全に無意味である。彼の分析では、証人としては許せないようなひどい間違いを犯していますが、自分の自由に使えるすべての資料を持っていると思われる学者からすれば許せることです。シュロモ・ドラゴンの様々な証言を比較した結果、彼は確かに完璧な証言者ではなかったが(そんなものがあるのか)、1945年には、ある種の荒削りさはあったものの、良い証言者であったということが分かった。裏付けとなる証拠がない場合、ガス室の具体的な詳細についての彼の記述にあまり頼るべきではないが、彼が説明した全体像が正確であることに疑いの余地はない。

2016.05.29に更新しました。
Posted by セルゲイ・ロマノフ at 2010年01月04日(月)

▲翻訳終了▲

長い記事を訳している最中にだんだん馬鹿馬鹿しくなってきて、感想を書くのも躊躇うほどの気分になりました。

否定論者のやってることって、結局、粗探し以上のものではないのですが、どれほどたくさん「粗」を見つけたところで、「ソ連が捏造した」という仮説を決定的に立証できるわけではありません。結局、使用末節の部分を突いて、「怪しい、怪しいぞ」と言っているだけなんですけどね。

ところで、否定派の戦術の特徴の一つとして、

・「公式」説明との矛盾を言い立てる

というものがあります。例えば記事中には、こんな話があります。

アブラハムは、その収容所で殺害されるためにマイダネクに送られることになった特別部隊の抑留者200人の「選別」からの逃避行について、次のように述べている:

「私は病気になった。SSはこの輸送が彼らの死に向かったことを明らかにしたくありませんでした。だから「病人は同行しない。あなたはここにいなければならない。そこで、彼らは働くことができる男を必要としているからだ」と言われた」

公式版によると、アウシュビッツに登録されていた受刑者は病気だったために殺されたが、一方で、スラマとアブラハムは、SSの大量殺人のより危険な目撃者で、病気だったために正確に救われたのである! ここでは、「選択」とは逆の意味だ。ここでは、その逆の「選択」をしている。

要するに、病人=労働不適格者であり、労働不適格なユダヤ人は殺されたのではないのか? という「公式」説明に対する矛盾を主張するのです。なぜ彼らは生かされたのか? おかしいではないか、と。

否定論を度外視して考えて欲しいのですが、例えば、一般の会社でも何か会社に重大な不利益な行動をするとか、犯罪行為を行うとかすると、クビになったすることも多いわけですが、クビにならない場合もあります。こうした一般常識に反するケースがあるからといって、一般常識がおかしいという人はいるでしょうか? そうではなく、その人がクビにならなかった理由の方を考えると思います。最近の事例で言えば、池袋で起きた例の交通事故で「上級国民」とされた方がそうでしょう。多くの場合、「何故、彼は一般的な場合のようにすぐ逮捕されず、すぐに起訴されなかったのか?」と考えるのであって、そうした「一般的な場合」の方を疑う人など皆無だと思います。

アウシュヴィッツの関しては、例えば解放された時にユダヤ人の子供がいたという話がこうした否定派のやり口の一つとしてよく用いられます。否定派達は、アウシュビッツの解放時にいたのは、「たった180人の子供」だったという事実のことは考えないのです。当然の如く、「それは一体どういうことなのだろう?」と思って以下のような本を自分で読んで調べる人などまずいません。

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こうした、ほんの少しの手間をかけるだけで、「アウシュヴィッツでは3,000人もの出産があった!」という話でさえ、実は極めて残酷な話だったということすらもわかるのに、です。

否定派に傾倒してしまった人は、実はそこにあるのは「疑惑」だけであり、ホロコーストを否定した「気分になっている」だけであることになど気づかないのでしょうけれど、疑惑は疑惑であるだけであり、実は何も証明していないことを知るべきだと思うのですけどね。

ところで、翻訳しつついつものようにいろいろ調べていると、こんなサイトも見つけました。

まだほとんどよく分からないのですが、第二次世界大戦に関するポーランドにおける膨大な量の宣誓供述書がデジタル化されて誰でも見ることができるようになっています。今回登場したシュラモ・ドラゴンや、あるいはヘンリク・タウバーなど多くの関係者についての、クラクフ法廷での宣誓供述書もデジタル化されていて見ることができます。いやはや、当たり前と言えば当たり前ですけど、時代はどんどんと進むのですね。この調子でガンガン資料をネットで見られるようにしてって欲しいな。

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