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リップマン著「世論」③ステレオタイプについて

ステレオタイプとは何か?

われわれが生きている社会は狭く、世の中の小さな部分に住み、働き、知り合う人たちも限られています。
広くさまざまな影響を与えるような公的な出来事についてもわれわれはせいぜい一つの過程、一つの面しか見ていません。
しかし、われわれの意見は、直接に観察できるより大きな空間、より長い時間、より多くの事柄にまで及んでいます。
したがって、われわれの意見は他人による報告と自分が想像できるものから、あれこれつなぎ合わせたものにならざるをえません。



その結果われわれはたいていの場合「見てから定義しないで定義してから見る。」ことになります。
外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げるのです。
そして拾い上げたものをわれわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで認識するのです。



この世界に存在しているステレオタイプの形態は、絵画、彫刻あるいは文学というような芸術だけでなく、倫理規範、道徳規範、社会哲学、政治思想、歴史観などあらゆる分野にわたっています。

たとえば外見や衣服。
仕立てのよいスーツを着ていればイギリス人。急進的な活動家は長髪の男性や断髪の女性など。
われわれは自分のよく知っている類型を指し示す一つの特徴を人々の中に見つけ出し、頭に入れて持ち歩いているさまざまなステレオタイプによってその人物像の残りを埋めていくのです。

このような事情には経済性という問題もからんでいます。
じっくり物事を知るための時間がないという理由もあります。
そのため私たちはステレオタイプのレパートリーをつくりそれを維持することで自分が見るより前に外界について教えられるのです。
経験する前にほとんどの物事を想像します。
これが先入観です。
先入観は対象となる物事をなじみのものとか、知らないものとかいうように分類します。
ちょっとでも知っていればひじょうになじみ深いものと考えられ、どこか知らないところがあるとまったく異なるものと見られます。

先入観に支配されると一つの世界しか語れなくなります。
しかし、それぞれの人間は世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜいさまざまな観念の粗い網の中に世界の一面と要素の一部しか捉えられていないと知ることができたら、自分のステレオタイプを用いるとき、われわれはそれがたんなるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとするでしょう。


執筆者、ゆこりん

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