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谷崎潤一郎が好きである。それと同じくらい方言が好きである。

📚
谷崎潤一郎全集より

日本に於けるクリップン事件 を読みました。

私は、関西弁を喋れない。 

これは勉強すれば喋れるようになるのだろうか。
卍で操られる言語は、関西弁を喋れない人が本当に書いているのだろうか。 

同性愛を告白する女性の話しで綴られていく男女4人の交差にタイトルの意味を感じる。 

私が借りた全集には、谷崎潤一郎が、卍はモデルや種本はなく、上方言葉の甘美と流麗とに魅せられ、方言の顧問として大阪府立女子専門学校出身の助手2名を雇い一年あまりをかけて完結した。とわざわざ、記した文章が掲載されていた。 

わざわざ、補足をいれるほど噂になり、話題になったということだ。1930年代なんて、メディアは新聞くらいのはずだ。どれだけ、娯楽性が高かったのだろうか。 

この人の感じる美意識の追求の仕方は、とても普通とは思えない。 

私は谷崎潤一郎が好きである。
女性が好きな谷崎潤一郎が好きである。

物語は、面白い。
そして、関西弁は美しい。喋れないけれど、リズムと流れで、言語そのものが物語になっているような気になる。 

関西弁の女性は、どこか美しく思わせるように書いていて、関西弁の男性をどこか女々しく書いている。 

これは、私が「関西弁に対して羨ましいな」 

と思う感覚と 

「関西弁を喋る男性に対して思う嫉妬」 

と同じ感じがして。なんとも可笑しく感じた。 

その時代に生きてはいないが、今読めて楽しい。 

私が、関西弁を喋る女性の会話を聴くとき、その会話自体が何の意味を成さないのに、どこか音楽を聴いているような気分になる。 

では、関西弁ではない他の方言女性の会話を聴いたらどうなのか。 

同じだ。 

つまるところ、方言女子が好きだ。 

そういう事でしょ谷崎さん 

話がそれました。 

この全集に、潤一郎犯罪小説集が掲載されていました。 

私は、後から事実を知るが、この「日本に於けるクリップン事件」を読んだ時に、作家と云うものの凄さが、少し理解できた。 

先ほどまで読んでいた谷崎潤一郎と似ても似つかぬ文体で客観的な文章であり、フィクションかノンフィクションかわからない感覚に陥った。 

話しは、マゾヒストがマゾヒストであるがゆえに、新しい快楽をくれる相手を見つけた場合、それがたとえ、妻でも殺して取り替えたくなる衝動を抑えられないということ。 

なぜならマゾヒストは、実際に相手の奴隷になるのではなく、そう見えるのを喜ぶ。 

快楽を与えれられるうちでは、喜ぶが、結局は、どこか人間として見てるのではなく、人形と同じだということ。つまり、快楽のために、新しい刺激をくれる人形が出来たら邪魔なものは、排除してもいいと思うということ。 

ここまで、客観的に考察して物語をミステリー調にして書いていて、別人みたいに感じるのだ。 

では、私が思う所の快楽を、何を於いても優先出来るのか。 

少し前ならわからないが、今ならわかる。 

筋トレだ。これは、筋トレ理論なんだ。 

なんとなく、マゾヒストになってもいい気がしてくるよ。素敵なマシンがあるなら。どんなことしても乗り移れる。 

そういう事でしょ谷崎さん 

話がそれました。 

奇しくもこの作品は、「小説の筋の芸術性」をめぐる論争。すなわち芥川、谷崎論争の発端になった作品らしい。 

いいよ。この日に至るまでそんなことが起こった事すら知らないで生きてきた。 

論争を交わしてる間に芥川龍之介は、この世から去りますが、2人が仲が悪かったワケではなく。 

お互いに会ったりして話したりもしている。 

芥川龍之介について谷崎潤一郎が、言葉を残している文章もこの全集に掲載されていた。 

表で論争を交わし、裏で交遊を交わしてる。 

こういうのは、羨まし過ぎる。 

私は、文学一年生なので深く知ることは出来ませんが、諦めません。このままいけば、10年後には、誰かとお酒を交わしながら論争しているかも知れません。 

そして、裏では、文学女子と遊んでると思います。 

そういう事になりました谷崎さん 

最後に、この論争に於ける谷崎潤一郎から芥川龍之介への反論。 

「筋の面白さを除外するのは、小説という形式がもつ特権を捨ててしまふことである」 

なんのはなしですか 

いや 

なんのはなしやねん 

少なからず、筋の面白さを追求するあなたの美意識に私は揺さぶられているし娯楽を追求する姿を作品を通して知る事に時代を越えて感謝いたします。

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