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カイ・フランクが目指した「無名のデザイン」 〜1956年 日本への旅から見えてくるもの〜

「フィンランドデザインの良心」と称され、1952年の発表以来「ティーマ」や「カルティオ」の人気が今なお衰えることを知らないデザイナーのカイ・フランク。日本では藤森健次さんや長久智子さんの研究の中で、フランクのシンプルなデザインが生まれた背景にはバウハウスや出自の影響があったことが言及されています。

カイ・フランクは日本との関わりも深く、1956年から1970年にかけて三度の来日を果たしています。来日前に「日本の工芸品や人生への姿勢がどうしてフィンランドのそれとよく似ているのか不思議である」と話していたフランクは、1989年、亡くなるこの年にヘルシンキの大学で『ルニング賞での日本への旅行 1956 ―アジアにおけるひとりの異邦人―(Lunningmatka 1956 “ En Barbari I Asien ”)」』と題した展覧会を開きました。国際的なデザインコンペで受賞したフランクがはじめて日本を訪れた年の展覧会を、33年も経った亡くなるその年に開催しているというのがなんとも興味深いですよね。

今回は、フランクの最期の展覧会の展示内容を通して、彼のデザインの神髄に迫ってみたいと思います。

1.アアルト大学に問い合わせてみた

とはいえ、日本では当時の展覧会の情報が少なすぎる。そこでまずフィンランドのアアルト大学に当時の情報が残っていないか問い合わせてみたところ、3日と待たずに概要とアーカイブされていた写真を送ってくれました。アアルト大学すごすぎます。(仕事の連絡と一緒にしました。)

During his travels Franck was a keen photographer and took photos of places he went and often of very ordinary everyday situations. The exhibition En Barbari I Asien shows some of the photographs from his travels in Asia.
(訳:日本を旅する中で、フランクはなんてことない日常の風景を熱心に写真に収めました。展覧会ではこのときの写真が多く展示されていたようです。)
ー from Aalto University

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(credit: Jorma Puranen and Aalto University Archives)

なんだか異様な光景ですよね…。彼はこの展覧会で、日本の農村や漁村で収集した古めかしく伝統的な品々や写真を意図的に選び取って展示しました。一方で、当時の近代化へと突き進む新しい日本のデザインや風景はほとんど展示しなかったそうです。「日本への旅行」と銘打ちながらも、当時の日本が内包していた「近代」と「伝統」という二面性のうち一面にのみフォーカスした展示の背景には、一体どんな想いが潜んでいたのでしょうか。

2.1956年の旅―Social DesignとCommercial Designのあわい

1956年10月25日、旅のさいごに通産省で行った報告会において、フランクはある種の落胆とも取れるこんな発言をしています。

「私がここで講習をしている間中、私は招聘されるのにふさわしい人間ではなかったような気がしつづけておりました。私の代わりに、シカゴなどにある大きな百貨店の販売主務の方をこそ招いて、お話を伺うべきではなかったでしょうか」

フランクがこの旅を通して感じたのは、訪日前に抱いていた期待を裏切るがごとく日本を席捲していた「Commercial Design(商業デザイン)」の波でした。カイは当時の日本のデザインを、「表面的な美しさが非常に強調されて」いて、企業もデザイナーも工芸家もすべからく「売らんがため、という一つの目的のためにのみつくられている」製品が多い、と批評しています。

一方で、アアルト大学から送られてきた情報にもあるように、フランクが旅行中に最も興味を持ったのは、農村や漁村の近代化されていない日常生活、そして日本の伝統的な工芸デザインでした。初めの訪日から2年後、1958年に来日した際には自動車や汽車で移動することを断り、田舎道を一日なん十キロと歩き回ったそうです。彼は夢中で田舎の生活の様子をシャッターに収め、工芸品を蒐集したといいます。

3.入り口の「蛸壺」が意味するもの

フランクは展覧会において、日本の田舎の風景写真の他に、三回の来日で蒐集した骨董品を多数展示しました。上掲した写真に写る天狗のお面やカエルの庭石など、日本の伝統的な品々に強い興味を抱いていたことが伺えます。

その中でも一際の存在感を放っていたのが、会場の入り口に置かれた、フジツボがびっしりとこびりついた「蛸壺」です。

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(credit: Jorma Puranen and Aalto University Archives)

どこかの漁村で譲り受けたのでしょうか。大小のフジツボに覆われ、ボロボロになってもなお、縄を締め直して使い続けられてきた名もなきデザインの壺。フランクは、訪日前に抱いていた日本への共感を、近代化に突き進む日本の新しいデザインではなく、むしろ田舎のなんてことない生活に根付いたデザインにこそ見出していたのです。

4.カイ・フランクが目指したデザイン

こうした展覧会の内容から、日本の伝統的なデザインとカイ・フランクのデザインの間の共通点が見えてきます。

フランクが日本から持ち帰って展示した品々は、誰ということはない無名の職人が手作りしたものでした。奇しくもフランクは生涯に渡ってプロダクトにデザイナーの名前を入れることに反対した極めて珍しいタイプの人物であり、彼はその理由を「プロダクトはデザイナーが一人で作っているわけではないから」そして「消費者にデザイナーの名前で製品を選んでほしくないから」だと説明しています。

1950年代当時、北欧諸国では輸出により外貨を獲得する戦略の一環として、デザイナーの名前をプロダクトに刻むのが一般的でした。北欧モダニズムを先導していたスウェーデンの製品や、デンマークはロイヤルコペンハーゲンの製品を思い浮かべると合点がいく方もいるかと思います。しかし、そんな潮流にあってなお、フランクは「名前に依存しないデザイン」すなわち「ほんとうに良いデザインとは何か」ということをまっすぐに追求し続けました。

そしてフランクは、「デザインは必要性から生まれる」と考え、必然性を発展させてゆくことで良い形ができると考えました。すなわち、「見た目」ではなく「使うこと(機能性)」をデザインの本質と捉えたわけです。彼は日本で行った講演の中でも、度々「使うこと」を主眼とした指摘を繰り返しています。

「ほとんどの方が、機能というものに良いデザインの根本があるというのでなく、形自体にその根本があるというふうに考えているように思われました。大抵の場合、模様のような極めて外見的なものにこだわっているように見受けました」

フランクのこうした実直な姿勢の背景には、アルヴァ・アアルトらが立ち上げたArtekの潮流に見られる、「良いデザインによって人々を啓蒙する」という思想があったと考えられます。歴史的に、スウェーデンとロシアという大国に挟まれて揺れ動いてきたフィンランドがやっと独立したのが1917年。そこからいかに自分たちのアイデンティティを確立するかという切実な問題が問われる中で、フィンランドのデザイナーたちはアーツ・アンド・クラフツ運動に源流を持つエレン・ケイやグレゴール・ポウルッソンらの「日常に美を」という考え方に触発されていきます。しかし厳しくも時代は第二次世界大戦に突入。ロシアとの激しい戦闘を行っていたフィンランドは敗戦国となり、多額の賠償金を返済するために主要産業を工業に転換することで都市に人口が集中する中で、「狭く貧しい生活環境において、いかに良いデザインを国民に提供し、国民の意識ひいては社会を豊かにしていくか」という考えに傾倒したことは想像に難くないでしょう。

フランクは自身の「デザイナー」という職業をこのように表現しています。

「デザイナーとは大衆に奉仕するものであり、医者と同じく社会大衆からその仕事を委ねられている。その責任はまことに重い」

こうした背景の中で、カイ・フランクの「無名性」を軸にした「社会的デザイン(Social Design)」は育まれました。デザイン、そして社会に対するフランクの強い想いが、冒頭の「ティーマ」や「カルティオ」のシンプルさに結実したというわけなのです。

「社会生活を向上させようという意識の下にデザインされている方が、極めて少なかったと思います。…私の申し上げたいのは、社会性をもったデザインということを、もう少し皆さんに考えていただきたい」

以上をふまえると、フランクが日本の田舎で見つけたのは、まさに「使うためのデザイン」だったと考えられるでしょう。もしかすると、実際はあの蛸壺は「たくさん売るために誰かがつくったもの」だったかもしれません。しかしこの世界というのは自分の見たいように見えるものですから、フランクが当時抱いていた切実な問題意識が、日本の田園の風景に重ね合わせられたのではないでしょうか。そうした「内なる共鳴」こそが、最期の展覧会に「日本」を選んだ由縁だったのかもしれません。


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