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『裸の聖書』5. 黙示録:啓示の誤解 -2

こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。
今回は「黙示録:啓示の誤解」2回目です。

「聖書の予言はすべて例外なく事後的になされたもの」
「聖書の神学的解釈は完全に捏造された伝統に基づいている」
「旧約聖書は書かれたとおり素直に読む限りにおいては美しい書物である」
「聖書は世俗的で物質的な利益の基礎の形成に『利用』されてきた」

とても興味深い内容となっています。
今まで聖書を読んだことがなくても、知りたくなる内容だと思います。

前回の記事はこちら↓↓↓

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黙示録:啓示の誤解 -2

シナイ、ゴラン、ヨルダン川西岸。これらが1948年以降の唯一の侵略である。
20世紀は苦悩に満ちた世紀であったが、ヨルダン川河畔での大いなる和解への希望が目前に迫っていると思われたその時、おそらくピークに達したのであろう。1993年、イスラエルとパレスチナは初めて相互承認を決定し、それぞれが相手の生存権を認めた。イスラエルの英雄であり、この歴史的合意の主人公であったイツハク・ラビンは、後にノーベル平和賞を受賞したが、その直後にイスラエルの過激派入植者によって暗殺された。
切望されていた大イスラエルに関する聖書の約束以上に、私たちにとって印象的なのは、第二次世界大戦後、ホロコーストに対する全世界の恐怖の後に誕生した小さなユダヤ人国家の固い決意である。
それは事実だ:アウシュビッツの後に初めて、ユダヤ人は国家を持つ歴史的権利を認められたのである。これはまた、ヒトラー自身が特定の目立たない海外の銀行家から受けたであろう融資を調査した最近の歴史研究を考慮すると、いくつかの不穏な疑問につながる可能性がある。
「もしわたしがユダヤ人なら、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アングロサクソンの大新聞がヨーロッパで『600万人のユダヤ人』が殺されようとしていると繰り返し書いた理由を理解することに、まず心を砕くだろう。その頃、ヒトラーはまだ幼稚園に通っていたのだ。」
マウロ・ビグリーノは、自分が厄介な領域に足を踏み入れていることをよく理解している。
「この点について、はっきりさせておきたい。わたしは、ナチスの強制収容所で起こったことや、恐るべき絶滅行為を疑っているのではない。わたしが自問しているのは、もしあるとすれば、強迫的な『予言』がなぜ報道されるようになったのかということだ。未来の犠牲者の正確な数についての予言だ。」
600万人。
ニューヨークタイムズ紙でさえ、1900年11月6日にこの件について取り上げている。
「ユダヤ人の文献によると、レビ記では『汝は帰還する』という意味の言葉に文字が欠けている。それは『vav』で数値は6である。この文字がないということは、600万人のユダヤ人がイスラエルに帰還できないことを意味する。」
マウロ・ビグリーノは聖書の予言をまったく信じていない。
「旧約聖書では、予言はすべて例外なく事後的になされたものだ。『予言された』出来事は、実際にはすでに起こっていたのだ。」
この場合、ヘブライ語の各文字に正確な数値を割り当てる古代の学問であるゲマトリアも、20世紀最大の虐殺に関する予言を支持していた。実際、この計算に基づくと、聖書にはイスラエルへの帰還の正確な日付(1948年)が記載されており、これは不幸な600万人のユダヤ人の死後のことであると主張する者もいる。
同じ情報源によれば、このことは『セファル・ハ・ゾハール』、ゾハールの書、別名『光輝の書』にも記されている。
これは中世のカバラの書で、スペインでセファルディム系ユダヤ人によって編纂された。
ウィキペディアによると、12世紀末にようやく登場したが、『人工的な文学的アラム語で』書かれたという。
著者は、数世紀前のテキストのように見せたかったのだろうか?
ゾハールはいまだに議論の的だ。 ある人にとっては全くのナンセンスであり、別の人にとっては古代の知恵を含んでいる。
ちなみに、マウロ・ビグリーノは、ユダヤ人社会と良好な関係を築いている。
最近亡くなった偉大なカバラ研究者のラビ、アリー・ベン・ヌンは、彼の著書をアメリカで普及させる手助けをしたいとさえ考えていた。
アリー・ベン・ヌンによれば、『生命は保存食のように包装されて地球にもたらされた』という。どこから?『別の銀河系の、明るく冷たい星に照らされた惑星からだ。』
この最も学識のあるラビは本当にそう考えたのだろうか?
「もちろん、驚くことではない。」
ビグリーノは、ユダヤ文化圏にすっかり馴染んでいる。
「ユダヤ教は非常にオープンな世界だ。ユダヤ教にはすべての人のための場所がある。絶対的な正統派から純粋な無神論まである。ラビの学校では、単一の情報源を信用しないように教えられる。第二の情報源が見つかったら、第三の情報源を見つけるよう勧められる。まさに、疑いと反論を促すためだ。」
ビグリーノがタルムードを頻繁に引用するのは偶然ではない。タルムードではこの手法が広く適用されてる。
つまり、何事も当たり前だと思わないことだ。
「これは、キリスト教の伝統において聖書に対して常におこなわれてきたことと正反対だ。ドグマ教義が介入することで、より深い知識と理解の発展が妨げられている。ドグマ、要するに、神秘のカテゴリーは聖書には存在しない。仕組みはこうだ:何かが誤って翻訳され、神秘の概念を導入する必要が生じる。それは、聖書が実際には言っていないことを、さも言っているかのように見せかけた後で、物語全体を正しくまとめようとする試みの反映なのだ。」
それは大きな問題なのか?
「明らかだ。その書物の神学的解釈は、誤った、あるいは完全に捏造された伝統に基づいており、世界のすべての偉大な一神教の宗教の基礎となっており、それが今日でも世界を支配している権力構造の基礎となっているのだ。」
これは、すべてに当てはまるのだろうか?
「ショア(ホロコーストを題材にした1985年の仏映画)の犠牲者600万人を考えてみるんだ。もしわたしがユダヤ人なら、新聞に書かれたこれらの予測を見たら、夜も眠れないだろう。」
これらは捉えどころのない力なのか?推測、陰謀、秘密計画?
マウロ・ビグリーノは本質的に、力の源として聖書に帰せられる役割 - 彼の意見では不適切な役割 - に焦点を当てている。
彼の忍耐強い仕事は、理論的な反芻をすることなく、すべてを別の方法で、テキストで読み直すことができるという事実を例示している。
「旧約聖書は、実際に書かれたとおり素直に読む限りにおいては美しい書物である、ということを強調しておこう。」
文字通りに分析することは、神学的な読み方の唯一の選択肢ではない。
他にも可能な読み方はたくさんある:象徴的な読み方、秘教的な読み方、ゲマトリア(数秘術)的な読み方、カバラ的な読み方など。
「そのどれもが正当であり、そのどれもが興味深いものである。ただし、テキストに忠実な、文字通りの読み方を排除することを前提としない限りは。それこそが、彼らがわたしにさせたくないことなのだ。」
そんなに気分を害することなのか?
「当然だ。なぜなら、神が存在すると仮定して、神が聖書と関係があるという考えそのものが、最初から通用しなくなってしまうからだ。」
マウロ・ビグリーノは、10年以上にわたる激しい知的戦争の中で、最大限の決意で自分の仕事を守らなければならなかった。
「聖書に書かれていることが真実であると確信したことはない。わたしの考えは、非常に慎重に議論され、文書化されたものではあるが、まだ仮説に過ぎない。旧約聖書には、他の多くの歴史書と同じように、真実と捏造、省略と誇張が含まれているかもしれない。しかし耐え難いのは、聖書があることを述べているとき、実際には別のことを意味していると指摘し続けるやり方だ。」
説得の力?
「わたしたちは聖書を誰が書いたのかさえ知らない。いつ書かれたのかも、何語で書かれたのかも知らない。モーセの時代には、ヘブライ語は言語として存在すらしていなかった。しかし、わたしたちは、そのページがある概念を表現しているとき、実際は別のことを語っていることを『知っているんだ』と主張する。おかしな話に聞こえるかもしれないが、これが一般的に起こっていることなのだ。聖書には、語られていないこと、一度も語られたことのないことばかりが語らされている。」
重要なのは、聖書は『利用』されてきたということだ。それは、極めて世俗的で物質的な利益の基礎を形成するために、利用されてきた。
興味深い運命だ: 神学は、何の霊的要素もないテキストを『霊化』し、それを支配の手強い道具として不適切利用する。
そうなのか?
その通りだ、と翻訳者は断言する。
「そして、その意味で、2000年以上もの間、非常にうまく機能してきた。しかし今、真実の断片が徐々に浮かび上がってきているようだ。」
それは、わたしたちが、ある種の啓示に近づいているからなのか?



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黙示録:啓示の誤解 -3 へ続く
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