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Paris

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Paris 29

 暗くなるころにガブリエル・ペリへと戻ると、友人が荷物をまとめるのを待った。近くでヨナスが寛いでいた。「モデル事務所のオープン・コールには行ったのかい」と話しかけると、渋い表情をしていた。「明日には行く」。これは行かないやつではないか。  友人と共に宿を出ると、職安通りを駅へと向かった。すでに陽は沈み、街は深夜の表情だ。友人の乗るバスは、来たときと同じベルシー駅からロンドンーー確かユーストン駅だったと思うーーへと行く深夜便だった。ガブリエル・ペリからベルシー駅まではメトロで

Paris 28

 その老人だけが、周りとは異なった雰囲気をしていた。多くの観光客たちがベンチでのひとときや散歩を楽しんでいる緑道で、茂みに腰を下ろしているのは彼だけだった。風貌からも、彼が住む家を失った老人であることは明白だった。  私は煙草をひとつ巻くと、彼に話しかけた。そして煙草を、小銭と一緒に差し出した。特に何の考えもなく、それが自然だと思ってそうしたに過ぎなかった。だから申し出を彼に断られたとき、私は何が起きているのか分からなくなってしまった。  決して軽薄な口調で申し出たつもり

Paris 27

 目を覚ますと見事な晴天だった。顔を洗い、煙草を吸いに宿の裏口から外へと出た。彩度の低いガブリエル・ペリの街は、パリの陽射しに照らされて、中東の街のように乾いて光っていた。  友人と二人、まず向かったのは凱旋門だった。その日は彼がパリで過ごす最後の日であり、凱旋門、エッフェル塔あたりは目にしておこうという話になっていた。順に観光しながら散策をすればセーヌ周辺を回る良いルートになる。プラス・ド・クリシーで乗り換え、シャルル・ド・ゴール=エトワールでメトロを降りると、凱旋門がす

Paris 26

 深夜の散歩は楽しいものだ。学生時代の私に煙草の巻き方を教えてくれた大学の先輩のKさんは、井の頭公園のはずれの店のカウンターで、東南アジア仕込みの慣れた手つきで甘いバニラ香の洋モクを巻きながらこう言った。  「夜中に散歩に行くときは二本分を繋げた長い煙草を巻いて、自分で作ったお気に入りのプレイリストを聴きながら、人のいない街を歩くのが最高なんだ」  堪らないな、と私は酔った。その光景を想像しながら初めて自分の手で巻いた煙草は、不恰好だったが、それまでに吸ったどの煙草よりも

Paris 25

 ラマダンの夜の神秘的な空気に感化されて、ついにこの男も気が触れてしまったかーー。新しい遊びを発見した幼い子どものように楽しそうな瞳が、暗闇でギラリと光ると、純粋さを変形するまで煮詰めたかのような狂気をそこに感じた。しかし同時にそれは何の変哲もない見慣れた瞳でもあった。そうか、この男は現代のヒッピーであった。奇抜な行動は今に始まった話ではないではないか。  ところで、私は肝試しが嫌いではないが、得意でもなかった。たとえ廃墟にたどり着いたとしても、入口を少し入ったあたりで、そ

Paris 24

 旅先の宿で酒を呷れば、自然と散歩に出たくなるものだ。歓楽街ではネオンの光線に非日常の刺激を求め、温泉街では風光明媚な里の奥の小さな街の夜の顔を、一目、いや二目拝もうと路地を縫う。ではガブリエル・ペリでは? 何ひとつ思いつかなかった。数々の旅を経てきたが、こんな旅先もなかなかないだろう。  煙草を吸うために裏口へと出た。真っ暗闇の静けさに、所々で街灯がポツリポツリと灯っている。友人とヨナスと顔を見合わせた。酒に酔った男が三人集まればたいていの夜は楽しめるものだろう。しかしそ

Paris 23

 数々のレストランが立ち並ぶ街の一角、賑わうカフェのテラスでアペリティフを啜りながらその晩を過ごす店を考えては迷う夕暮れは、遠い花の都まで長い時間をかけてたどり着いた私たちが受けることのできる恩恵のうちのひとつだろう。しかしその晩の私たちは、やや趣の異なる楽しみを選ぶことにした。郊外の寂れた地方都市のような雰囲気をまとったガブリエル・ペリの街にメトロで戻ると、数本のワインを買って宿へと帰り、ジャケットからラフなパーカーに着替えた。  夕食の時間のリビングは賑わっていた。そこ

Paris 22

 驚き振り返る。するとその中年のパリジャンは、中型の二輪に跨ったまま、混雑した交差点の路肩で悠然とウィードを吹かし始めていた。リラックスした様子で遠くを眺める彼の視界には、数メートル先の警官の姿はおそらく入っていない。  眼前で始まった映画のワンシーンのような光景に、私は興奮を覚えていた。アムスでも滅多にお目にかかることのできない光景だ。草の香りと出くわすことなど欧州では珍しくない。しかし警官とのセットは稀だ。ましてやこんな出会い頭、なかなかないだろう。彼が火を点けたのはま

Paris 21

 奥のバー・スペースで、選りすぐりのワインとシェーブルチーズをいただきながら2時間ほど話をした。彼女が日本の仕事を辞してからパリの老舗で働くに至った経緯や、昔と現在のパリの話、その他、話は尽きない。グラスを傾け始めてすぐに、利発でエネルギッシュな方だ、と思った。途中でフランス人の紳士がふらりと訪れると、流暢なフランス語で世間話をしたりもしていた。それは洗練された世間話だった。もう5月なので話題にはバカンスの過ごし方が上がっていた。  どの辺りに泊まっているのか、と尋ねられて

Paris 20

 愛煙家にとって、欧州(に限らず多くの海外の国々)への滞在は少々不自由を感じるものかもしれない。今や多くの国では喫茶店やバーであっても店内で煙草を吸うことができず、したがって、一服のたびにテラスへと席を外さなければならない。これは飲食店に限らず、あらゆる屋内での喫煙が認められていないため、建物の入り口における副流煙がときおり問題視されたりする。路上喫煙率も極めて高く、規制を厳しくした結果が裏目に出ているようにも思うが、あくまでもプライオリティが置かれているのは火の不始末による

Paris 19

 リビングから聞こえる生活音で目が覚めた。寝起きのままで寝室を出ると、同じように起きたばかりの宿泊客たちが食卓を囲んでいた。前夜から続く合宿のような気分。日本の片田舎に来たようだった。朝食を軽く済ませ、煙草を吸いに屋外へ出て、そこがパリ郊外の街であることを再認識した。雨は上がっていた。  宿を出る頃、ようやくヨナスが起きてきた。一緒にパリ市内まで行くかと尋ねたが、なぜか即答で断られてしまった。休息日なのだろうか。確かに宿は居心地が良く、何人かは昼までの時間をリビングでゆった

Paris 18

 時刻はすでに夕方から夜へと変わる頃だった。それゆえに、メトロはとても混雑した。退勤ラッシュだ。東京のそれと変わらない。持ち上げるのがやっとのスーツケースを引きずって、わずかな人の隙間に乗り込んだ。スーツケースを持ってパリの北端で満員のメトロに乗るなど、10代の頃ならトラブルが恐ろしくて避けただろう。しかしガブリエル・ペリで降車したときには、トラブルに巻き込まれなくて良かった、そんな感想は頭の片隅にも思い浮かばなかった。やっと身体的負荷から解放された、それだけだ。  友人と

Paris 17

 ベルシー駅でメトロを降りると、雨だった。高速バスのターミナルまでは数分ほど歩かなければいけない。私は駅前のカフェのテラス席で雨宿りをすることにした。気温は少し肌寒くて、ちょうどコーヒーを一杯飲みたい気分だった。  コーヒーも飲み終えてしまい、雨が勢いを失うタイミングで席を立とうと待っていたが、雨足は徐々に強まるばかりだった。そろそろ友人の乗るバスも着く頃だろう。仕方なく、その日は雨に濡れることにした。煙草を吸い終わるとギャルソンにラディシオンを頼んだ。  エスカレーター

Paris 16

 宿の裏口前で手巻きの煙草をヨナスと回しながら、ガブリエル・ペリの街に色を感じないのは天気のせいかもしれないと考えていた。朝の快晴はすでにはるか東へと飛んでしまっていた。灰色をした雲は重く、それは雨粒を地上に漏らすまいと堪えているようだが、時間の問題のように思えた。役所の周りをしばらく歩くと、スーパーに立ち寄って水を買い、宿へと戻った。大きいサイズのペットボトルの水の値段が1ユーロを大きく下回っていた。そうか、ここはバンリューだった。  宿へと戻ると、そこには先ほどまではな