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Paris 28

 その老人だけが、周りとは異なった雰囲気をしていた。多くの観光客たちがベンチでのひとときや散歩を楽しんでいる緑道で、茂みに腰を下ろしているのは彼だけだった。風貌からも、彼が住む家を失った老人であることは明白だった。

 私は煙草をひとつ巻くと、彼に話しかけた。そして煙草を、小銭と一緒に差し出した。特に何の考えもなく、それが自然だと思ってそうしたに過ぎなかった。だから申し出を彼に断られたとき、私は何が起きているのか分からなくなってしまった。

 決して軽薄な口調で申し出たつもりはなかった。それでも「私の振る舞いに"patronizing"と揶揄されるような厚かましさがあったのではないか」と不安になった。私はできる限りの誠実さを持って、もう一度、彼の目を見ながら丁寧な言葉で申し出た。そして再度断られた。老人の目には強い意志があった。私は言葉に詰まり、その場を後にした。

 これはいかにも、行き当たりばったりの気まぐれで、余裕のあるときにしか善い行いをすることのできないーーつまり自分以外の外の世界に愛情を向けることができないということだろうーー私の軽薄さと、未発達な精神構造を象徴する出来事だった。

 それから後も、この昼の一幕は私の心に杭のように刺さったままずっと残っている。その杭に引っかかるたびに思い出すのは、老人の力強い目に表れた崇高な生きざまを貫く意志と、私がただ運が良かっただけの意志薄弱な若者に過ぎないという事実だった。

 エッフェル塔の近く、露天商の並ぶ通りを抜けると、近くの駅からメトロに乗ってパリの中心に移動した。人で賑わう市街の車道を、二人組の警官がローラースケートで颯爽と通り抜けていく。勤務中の警官がローラースケートを楽しんでいる表情をしていたのが印象的だった。こんなことが珍しく見えるのは、私たち日本人くらいなのかもしれないと思った。

 テュイルリーのベンチで休み、街をいくらか歩き回ると、モンマルトルに向かった。もしも君がパリにいて、陽が落ち始める時間帯に次の目的地に迷っていたら、すぐにモンマルトルの丘に向かうと良い。パリの夕暮れは、モンマルトルで過ごすためにあると言っても過言ではないからだ。傾く陽射しを友人と眺めると、交わす言葉以上に多くを語れているような気持ちがした。そんな演出ができる街は、きっとなかなかないだろう。

続く

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