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Paris 20

 愛煙家にとって、欧州(に限らず多くの海外の国々)への滞在は少々不自由を感じるものかもしれない。今や多くの国では喫茶店やバーであっても店内で煙草を吸うことができず、したがって、一服のたびにテラスへと席を外さなければならない。これは飲食店に限らず、あらゆる屋内での喫煙が認められていないため、建物の入り口における副流煙がときおり問題視されたりする。路上喫煙率も極めて高く、規制を厳しくした結果が裏目に出ているようにも思うが、あくまでもプライオリティが置かれているのは火の不始末による火事の未然の予防だと考えれば、これは意味のある施策だろう。欧州には築百年を優に超える古い建築物が未だに多数現存しており、それを維持することは社会命題である。

 分煙化の流れが進みつつある今なお、日本は世界的に見ても珍しい愛煙家にとっての天国だ。薄暗いバーの一枚板のカウンターで紫煙を燻らせる光景などは、もはや"Good old days"ーー映画の中でしか見ることのできない懐かしい一場面となってしまった。当然、これは現代の日本においては取るに足らない普通の日常の風景だ。国際化が謳われて久しいが、この島国と世界との乖離は未だに大きい。そんな島国の喫煙環境のことなどもすっかりと忘れてしまっていた私は、一本の煙草を巻き終えると、当然のごとくテラス席へと向かっていた。人は環境に適応してしまうものだ。そこにはもう不自由の感覚などは残っていなかった。

 陽射しは強く、しかしテラスの下の日陰は非常に涼しかった。湿度の低い欧州の空気だ。数時間後にギャルリー・ヴィヴィエンヌで再び落ち合う約束をすると、友人とはそこで一旦別れることにして、人気のない平日の裏通りを西へと向かった。目指したのはギャルリーの端、南東の一角にあるルグラン・フィーユ・エ・フィスだった。フランスのワイン業界においても他を寄せ付けぬ圧倒的な品格を保つその老舗には、実は一人、日本人がいる。その女性と数週間前から連絡を取っており、その日の午後に初めて会う予定だった。ギャルリーの角へはほんの数分で着いてしまった。私は呼吸を少し整えるとその扉を静かに開き、奥のカウンターにいる綺麗なフランス人のマダムに、できるだけ上品に響くよう、小さく声をかけた。

続く

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