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Paris 21

 奥のバー・スペースで、選りすぐりのワインとシェーブルチーズをいただきながら2時間ほど話をした。彼女が日本の仕事を辞してからパリの老舗で働くに至った経緯や、昔と現在のパリの話、その他、話は尽きない。グラスを傾け始めてすぐに、利発でエネルギッシュな方だ、と思った。途中でフランス人の紳士がふらりと訪れると、流暢なフランス語で世間話をしたりもしていた。それは洗練された世間話だった。もう5月なので話題にはバカンスの過ごし方が上がっていた。

 どの辺りに泊まっているのか、と尋ねられて、少し答えを渋ったが正直に話すことにした。普段は9区と10区のあいだのホステルを常宿としているが、好奇心もあって昨日から北のバンリューに移ったところです、クリシーの先、ガブリエル・ペリなんですけど。そう告げると、想像はしていたが、やはり即座に宿を移ることを勧められてしまった。

 「帰り道、そのジャケットは脱いで丸めておきなさい。剥ぎ取られたくなければね」

 私が着ていたネイビーのジャケットは郊外を歩くにはシック過ぎるという。確かにそうだ、と感じた。感覚が麻痺してしまっていた。なぜ気づかなかったのだろう? いや、気づけなかったのだ。私はパリの陽のあたる部分しか歩いてこなかったに過ぎないのだ。

 「チャイニーズマフィアのフリでもすると良いんじゃない。郊外のギャングも彼らとだけはぶつからないようにしているって言うから」

 実行できる自信はなかったが、貴重なアドバイスだった。

 平日の昼下がりで客の姿は少なかったが、カウンター席でカジュアルな服装をしたまだ二十歳の学生くらいの女の子たちが、スタッフとしっかりとコミュニケーションを取りながらワインを選んで飲んでいた。格式高い老舗だと思っていた店の、熱意を持つ若者に対しては門戸を広く構えている様子は、その後も記憶に強く残っていた。

 ギャルリーへと出てしばらくすると、友人と合流することができた。私たちはそのまま歩いて南へと下ることにした。セーヌ川の流れるパリの中心地は、ギャルリー・ヴィヴィエンヌから目と鼻の先だ。

 ポンデザールを渡り、川の南へ。交差点の角にあるカフェのテラスで一服をすることにした。エスプレッソを注文し、店の地下にあるトイレを利用して再びテラス席へと戻ると、友人の様子がどこかおかしい。夕暮れのコーヒーを味わっているとは思えないほどに興奮している。何かあったのか、とこちらから尋ねるまでもなく、彼はつい先ほどそこで起きたばかりの出来事を語り始めた。

 「そこのバイクに跨って煙草巻いてるおっさんいるじゃん。あのおっさんがさ、さっき俺のところに来て煙草持ってないかって言うんだよ。だから巻き煙草の葉っぱしかないって言ったら、『それで良い。ちょっと分けてくれ』って。冗談で、マリファナでも巻くの?って俺聞いたんだ。そしたら『そうだ』って。ほらーー」

 おっさんが巻き終えたばかりのその煙草は、綺麗なラッパ型で、どう見てもただの煙草には見えなかった。目の前には交通量の多い交差点があり、歩道には幾人もの通行人がいる。私たちが座っているテラス席も半分以上が埋まっており、ざっと計算しても40人ほどが半径数メートルの内にいるだろう。まさかここで吸うことはあるまい。私は特に気にも留めず、会計を終えて席を立つことにした。交差点で信号待ちをしていると、偶然にも向かい側には数人の警官が同じく信号を待っているところだった。これは面白いものが見れるだろうか、そんなことを考えた矢先、いかにも、あの濃厚な香りが後方から漂ってきたのだった。

続く

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