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Paris 18

 時刻はすでに夕方から夜へと変わる頃だった。それゆえに、メトロはとても混雑した。退勤ラッシュだ。東京のそれと変わらない。持ち上げるのがやっとのスーツケースを引きずって、わずかな人の隙間に乗り込んだ。スーツケースを持ってパリの北端で満員のメトロに乗るなど、10代の頃ならトラブルが恐ろしくて避けただろう。しかしガブリエル・ペリで降車したときには、トラブルに巻き込まれなくて良かった、そんな感想は頭の片隅にも思い浮かばなかった。やっと身体的負荷から解放された、それだけだ。

 友人と話しながら歩くと、殺風景な職安通りもどこか異国の情緒をまとい、そこには旅情すら感じられた。ずっと欧州のアウェイの中で、適応することでホームの感覚を得てきた。日本語で会話ができるということは、長いこと離れていたホームでの本来の安心感を私に思い出させてくれていた。

 宿に戻ると、10人ほどの日本人たちがリビングでテーブルを囲んで夕食を取っていた。ここは本当にパリなのだろうかーー。見たことのない光景に戸惑いながらも、それが先ほども感じたホームの安心感を私に与えてくれることに、確かな心の安らぎを覚えていた。合宿の夜みたいだ。食事は味噌汁や米もついていて、純和風ではないが、大別すればアジア風だ。ヨナスは器用に箸を使いながら(アムスのWok to Walkで慣れたのだろう)、そのアジア風の料理と格闘していた。

 宿泊客は様々だった。管理人代行の20代前半の女の子。昼に会ったアジア系のおばさんが本来の管理人で、彼女から管理人の仕事を任せれているらしい。二つか三つほど年上のアーティストの女性、同じくアーティストの年下の青年。腕のタトゥーがイカす関西弁の兄ちゃんはシェフと呼ばれていた。その名の通り、料理人だ。そしてフランス外人部隊に所属している四人組の男たち。他にも数人、20代の男女がいた。

 バックパッカーの宿ではお決まりの夜遅くまでの酒宴も、その日はほとんどなかった。日付が変わってからもしばらくは起きていたが、リビングから一人、二人と人が消えるにつれて、私も寝室へと戻った。昼の雨に体力を奪われていた。微睡むのに時間はかからず、気がつけば深い眠りについていた。

続く

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