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素晴らしき哉、この待ち時間

シャワーの時間は様々なことに思いをはせる。皆そうであろう。
この時間はただ身体を洗うだけの時間ではない。
夏に読んだ全くジャンルの異なる2冊の本でシャワーの時間について触れられていた。
「一日の時間の中でシャワーの時間が一番アイディアが思いつきやすい。」らしい。
現に今しがたシャワーを終えた私は久しぶりに「noteを書こう」、「書きたいことがある」と思って机に向かっているのだから。


思いのほか有意義なこの待ち時間。


私は待っている。


今日は休日である。そして今日私は友人と会う約束をしている。
本来であればもうこの時間にはその友人と会っているだろう。
しかし友人からの連絡はない。寝ているのだろう。

私は我慢強い質ではない。
だが、今はなぜか私の心には「時間を失っている」という”喪失感”や「待たされている」といった”苛立ち”はない。
なぜだろう。
先日読んだ本にでも感化されたか。

今日はそんな私の心の観測記をnoteに記していこうと思う。

いつもの私。

私はいつも休日の前日や休日の朝目覚めた時に「今日は掃除をしよう。」「この本とこの本を読もう」「気になって保存するだけになっていた論文を読もう」「散歩をしよう」「今日は中国語勉強しよう」「今日こそは英語の勉強だ」などと意気込んで画策する。
だが、案の定その日したことと言えば散歩と掃除くらいなものだろう。

時間があるときこそ「新しい知見の開拓」や「計画的且つ生産的な行動」とやらは達成することができない。
悲しいがこういった一面も私の一部である。

そして最近はというと、この自堕落な性分に拍車がかかっていた。
原因は自明だ。毎日highになっていたからである。
こんな言葉がある「it’s 420 somewhere」素晴らしく良くない言葉だ。
意味としては「いまはどこかの4:20さ」とでも訳しておこうか。
この免罪符を言い訳に、ただただ毎日を過ごしていたのだ。

話を戻そう。

では、なぜ先述の”苛立ち””喪失感”を感じていないかという話だ。
それは、恐らくこの2週間で今の「この待ち時間」が一番生産的で健康で文化的な時を過ごせているからだろう。

まず、今日は朝起きて雨の中、秋の色に染まりつつある木々を眺めながら一杯のコーヒーを飲んだ。
ゆっくりと、時間をかけて、最後の一口は冷めてしまっていたが、とても良い一杯とひと時を過ごせた。

暖かいコーヒーで体が温まると、好きな音楽を聴きながら踊った。
この部分は恥ずかしいので省こうかとも思ったが、これも私である。
まぁ、踊ると言っても好きな音楽を聴いて「好き勝手に体を動かすこと」を”踊る”と表現しているだけに過ぎないのだが。
余談の余談ではあるが、先日人生で出会った最も好きな作品の一つである『The End of the F***ing World』を見返していた時に、Teenagerの男女が目を瞑って踊るシーンを見て「楽しそうだな」と思ったのがこの恥ずかしくも愉快な行為の発端であろう。

netflixで見れます。


そして次に好きな本を読んだ。
タイトルは「20代で得た知見」である。


この本については、また別の機会にじっくり書きたいと思う。
何度読んでもいいし、おそらく何年後に読んでもまた良いのだろう。
何年後かには解釈も変わって、きっと違った面白さでまた楽しめるだろう。
知人に教えてもらって、この本に出合えて、幸運だったと思う。
私は私の好きな人にはこの本を薦めるし、一緒に語りたいとも思っている。

そして今日の出会い。
Psychedelic Rock』との出会いである。
私は今年に入ってからなぜか『Jazz』をよく聞く。
(なぜかと書いたが、理由は分かっている。これもまた別の機に。)
だから『Jazz』について調べていたのだ。
私はどうやら音楽そのものが持つ音楽性よりも、その音楽の「成り立ち」や、「当時どういう人間が聞いていたのか」、「どういう時代背景で作られた音楽なのか」といった歴史的側面に興味があるらしい。
そして今日はアメリカ(イギリス)で発達してきた(Jazzを含めた)音楽について学ぼうと思い、この動画を見ていた。

そしてこの動画でThe BeatlesPsychedelic Rock系の楽曲を出していたことを知ったのだ。
正直意外だった。
別に私はビートルズに詳しいわけでは全くないが、私の思い描いていたビートルズのイメージとは大きく異なる楽曲だったので驚きだったのだ。

どうやらPsychedelic RockとはLSD(幻覚剤)によって得られる「意識の拡張」などを音楽で表現することで生まれた音楽ジャンルらしい。
(意識の拡張なんて言われ方をされても、こればかりは経験しないとわからない感覚ではあるのだが…)
そしてこの曲と出会った。

Tomorrow Never Knows』

この楽曲はLSD東洋思想にのめり込んでいた時期に作られたそうだ。
チベットの死者の書』からヒントを得てるなんて話だそうだ。


待ち時間の終わりを告げる音

シャワーを終え、noteの下書きをしている最中にiphoneの通知音が鳴った。
「あぁ、起きたか・・・。」
正直少し残念な気持ちになった。
なぜなら「この待ち時間」がすごく有意義で、楽しかったからだろう。

今日は新しい音楽にも出会えたし、
今日は「待ち時間」がただの退屈で嫌な時間から「好きな時間」へと確かに変わった記念すべき日である。

”有限”でありつつ”追われること”の無い時間

恐らくこの言葉が全てだろう。
私が今日感じた感覚の正体は。

私はいつも何かに追われている感覚に陥る。
その何かとは「期限」なのか「使命」なのか「こうあるべきという人生観」なのか「こうなりたいという目標」なのか。
その何かの正体はまだわからないが、”追われている感覚”があるのは確かだ。
しかし今日のこの”待ち時間”に限って言えばその感覚がなかったのである。
今日はいつものその”追われている感覚”から解放され、ダラダラと時間を浪費することなく好きな事へ時間を使えた。
しかもこの時間の過ごし方に満足感さえ覚えている。
今日のこの時間今までとは異なった捉え方ができているのは、この時間は「突発的に得ることのできた限られた時間である」という認識がなされていたからだと思う。

私は今日のこの時間を与えてくれた友人に感謝している。
皮肉ではない。純粋な感謝の気持ちだ。

今日からはこの「限りある事を認識しつつも焦燥感は無い」という今の気持ちにヒントを得て生活していこうと思う。

自分の気持ちを観測して、記録し、分析することで、またわずかに私の見える世界が変わるのだ。
偶発的に得られた時間により、従来認識と別れ、新たな考え方に生まれ変わる。
この感覚が好きなのだ。

そろそろ友人が車で迎えに来る頃だ。
このnoteを閉じて準備をしよう。
読んでくれてありがとう。



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