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自己を演じる器

僕は基本的には「良い人」と言われます。

ちびっこやお年寄りには優しく。

電車や道やお店、公共の場では我先にではなくとにかく譲る。

友達の誕生日はメモを取っておき、遠方にいようが最近ご無沙汰だろうがお祝いする。

相談事があればフラットに意見を言いつつも自分事として扱おうと心掛ける。

真面目過ぎず、時にはジョークも交えながら場を和ませるよう努める。

良き恋人や友人、職場環境にも恵まれ、幸せに楽しく生きている。


「基本的には」
こんな人物です。

こんな人はそこら中に沢山いるでしょう。

自慢でもなんでもなく冷静に自分を見つめてもありふれていると思います。

何も自己卑下のみでこんなことを言っているわけではありません。

情けない自分が嫌になる、ということはありませんが、
人に優しくする自分に苦しむ、ということが多々あります。

人に優しくする、ということは
自分にそれを振る舞う余裕がある程度あるからであり、
自分をそのような存在と認識しているということはすなわち、
優しさを振る舞う対象を下に見ているということだ、とまで思ってしまいます。

謙虚とかそんなもんじゃありません。

素直にそう思います。

また、様々な理由で誰かに優しくする余裕が無い時、とても申し訳無い思いに駆られます。

コンスタントに一定の優しさを発揮できないことに罪悪感を感じ、
僕が余裕が無いなんてことは相手には関係の無いことだからと、背負い込む傾向が強くあります。

誰かに優しくすることによって自己を保っていられる。
そんなの偽善だと言われても別に構わないのですが、
自分の精神衛生のために人に優しくしているにも関わらず、
優しい良い人を演じ続けることに疲れると、
一気にしんどくなるのです。

人に優しくすることで保たれている自我がありつつも、
それによって心の体力も削られていくという状態です。

そんな自分に酔っている、そんな側面もあるでしょう。
それを認める謙虚な自分像に酔っているところもあるでしょう。
そしてそれすらも認める自分に…とどんどん続いていきます。

こうなると死にたくもなるのですが、
僕はそこで「もっと自分と深く話したい」と思うのです。

残された誰かが可哀想、などとは考えないので無慈悲なのかもしれませんが、
もっと自己対話をと思い、もったいないと思うのです。

生まれて死ぬまでに1番会話をするのは自分です。

矢印を内側に向けるのが大事
とよく言います。

もちろん僕もそれは大事なことと思うのですが、
外側に向けることも大切と思います。

それは僕が内にこもり過ぎる嫌いがあるからかもしれません。

何事もバランスが大事です。

どんな議題でも全てこれに帰結してしまうくらいです。

バランス主義に傾倒している、という矛盾です。

こうやって内にこもり過ぎてしまうときに無理矢理にでも外に引っ張ってくれる存在というのはとても大切にしなければならないと思います。

僕にも幸いそういう人物がいるのですが、
僕が悶々と延々と「どうすれば常に人に優しくできるか」について悩んでいるのを見て、

「優しくなくていいよ」と言い放ってしまったのです。

それを聴いて僕はびっくりして腰が抜けそうになったのですが、
それと同時に涙が溢れ返りそうになりました。

純粋な善意と自分の精神衛生を保つためといって人に優しさを振る舞ってきたけれど、
いつしか結局は他者の評価のために優しい自己を演じ始めていたのだなあ、評価を求めていたんだなと気づかせてくれた。

いき過ぎたときに連れ戻してくれる人がいなければ、僕のようにひたすら自己の内面に沈み込んであれこれ考え込む人は、
もう戻ってこれない可能性があります。

ほっておいても、深海の地面に足がつけばその内浮かび上がってくることはあるのですが、
それだと社会的には再起不能になっている可能性もまああります。

なので、結局はそのような他者に頼るしかないのです。

まあ、簡潔に言うと長々と書き連ねたただののろけです。

いつもありがとう。

小野トロ

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