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関係性の破壊と創造/拒絶の先に

(※これは、自分と向き合っている途中の私の心のメモ書きです)

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「本当は嫌だった」「実はやりたくなかった」ことにも気付かなかった。

それは日常に紛れ込んでいて、私の「当たり前」だったからだ。

「当たり前」を疑ったり、拒否する選択肢も持ち合わせていなかった。


「当たり前」は様々な関係や組織において存在する。

そして、そこに違和感を抱いたり、不快感を覚えた時に伝えたとしても、

すんなり受け入れてもらえる保証なんてない。

むしろ、「当たり前」を崩すということは、

既存の関係性や環境に一石を投じるということでもあるから、

何かしらの波紋が広がる可能性が高い。


この波紋を想像しては、怖くて言動できない経験もしてきたし、

実際に波紋が起きた時の大変やしんどさも経験してきた。


そして、自ら起こした波紋がじわじわと関係性に亀裂を入れて、

「当たり前の崩壊」を引き起こす経験もした。

崩壊の先に、相手を拒絶することもあった。
(とてもライトな拒絶ではあると思うけれど)


拒絶することでしか、自分の心を保てなかったとも言えるし、

拒絶することで、ようやく相手との距離を保てていたのだとも思う。

本来、私にとって「拒絶」は、出来れば人生で経験したくないことでもあった。

「それだけは、したくない…。」

それほどに、「拒絶する」ことに対する拒絶があったのだと思う。


ただ、拒絶をほんのり経験したことで、自分の本音について、改めて考える機会にもなった。

そもそも、なんでそれがお互いの「当たり前」だったのかも見直した。

自分でも考えたし、人の力も借りてきた。

直接話を聴いてもらうこともあれば、発信者の言葉や考えを取り入れることもあった。

それから、「当たり前」の状態から、「どうしていきたいのか」も考えるようになった。


すると、「どうしていきたいのか」の中には、

「こうすることはダメだ」も含まれていることが多かったことにも気付いた。

また、その「ダメ」は、誰にとっての「ダメ」なのかを1つ1つ明確にしていった。

親なのか、家族なのか、過去に出逢った人なのか、社会なのか、常識なのか、

それとも、「私の譲れない大切な価値観」なのか、

それらを紐解いていくと、「本当はどうしていきたいのか」が少しずつ見えてきた。




今、この段階にきて、私に残っているものは、

「私の大切な価値観」だ。


もはや、相手は関係なくなってきた。

相手の△△が気になるのは、私は〇〇と思うからだ。

相手の◆◆は好きじゃないのは、私は✕✕が大切だからだ。


相手の言動についての悲しさや怒りは、

いつのまにか自分の想いを鮮明にするきっかけとなっている。


私の想いが鮮明になればなるほどに、

発する言葉に濁りと遠慮がなくなってきた。

配慮はするし、気遣いもする。

その上での遠慮のなさは、素直さ、率直さとも言えるのかもしれない。

「私はこう思う」ということに対する怖さが薄れてきた。

と、同時に、「私はこう思う」に対する相手の拒否反応に対する怖さも、薄れてきたのだ。

共感してもらえたらラッキーくらいの気持ちで、

わかってもらえないことの方が自然に感じ始めている。


それから、「一旦、諦める」ことと「一旦、保留にする」ことも覚えた。

急いで無理に結果や答えを求めない。相手にも、自分にも。

その上で、自分の中での求める結果や答えは考えてみる。


このスタンスで会話をするようになったら、

劇的に身近な人たちとの会話が変わってきた。


「私だったら△△という言葉は使わない。私は、あなたの△△という言葉は傷つく。それを言われることは『大切にされている』とは感じない。」

と、私は感じたままの事実を伝えられるようになったのだ。

すると相手は、

「たしかに、△△って言葉は極端だったと思う。ただ、それくらいに✕✕って気持ちになったんだよ。」

と、語気を強めずに伝えてくれるようになってきた。

もしも相手が感情的な状態(怒りや攻撃的な言い方や罪悪感を呼ぶような言い方を感じる時)になった時には、

一旦、保留にすることも大切にしている。

(しつこく言ってくる時には、「今私も冷静じゃいられない。その話を続けると私はあなたを攻撃する言い方になりそうだから、あとで話そう。」と伝える。たいていそこで話は止まる。)


さらに、言いづらいことも言えるようになってくると、

感情表現はよりオープンになってきた。

喜怒哀楽の、「怒」と「哀」を抑え込まず、言葉で表現できるようになったからこそ、

「喜」と「楽」の表現もさらに豊かになったのだ。

そのおかげで、周囲の人達とのコミュニケーションが楽しめるようになってきた。


私が私のことを知れば知る程、

周囲の人達にも、私のことを知ってもらえるようになったのだ。

その上での好き嫌いや相性は、こちらがコントロールできるものではない。

もちろん、相手が私をコントロールすることもできない。


そして、こういう気持ちになれたからこそ、

人との縁が尊くて、愛しいと感じるようになってきた。

既存の関係も、これからのご縁も。


これは、過去のことを全て許すとか、なかったことにするのとは違う。

全ての人を愛するとか、受け入れるともまた違う。

ただただ、人との繋がりやご縁には意味があるんだと感じられるようになったんだ。


私は「適材適所」はあると思うし、「適度な距離感」もあると思う。

それは、私にも、みんなにも。

だからこそ、私の適材適所を見つけていきたいし、私と誰かとの適度な距離感も模索していきたい。

今後は、私と出逢ってくれた人達の適材適所を見つけられる力にもなりたいし、その人とその人の周囲の人との適度な距離感を模索するきっかけにもなりたいと思っている。


そのために、まず私は自分の人生を、周囲との関係性を創造していく。

もう着実に、前へ前へと進んでいる。

そして、これからの未来にも少しずつワクワクし始めている。

一筋縄じゃいかない時があったとしても、そうなった時は、「私が簡単にクリアしたくなかったんだろうなぁ」と思うだろう。


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(追伸)

ってね、正直言うと、

6月中にこの心境になれると思ってなかったんです。

でも、急にやってきた。笑

人の心って面白い。感情って楽しい。流れって不思議。

私はこういうことを感じるのが好きで好きで仕方ないんだろうなと思うわけです。

ここまでくると、もはやフェチ。マニア。オタクの領域。

感情フェチ?内観マニア?人間オタク?

いろんな表現が当てはまりそうだけど、人間に生まれるべくして生まれてきた気がしてます。

これからも感じたことを新鮮なままお届けしていくので、良かったら読みに来てやってください。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!!!

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